中津市内の研修会グループからバス1台を仕立てて黒田氏に敗れた宇都宮氏の城井谷を探訪したいので案内して欲しいと要請がありましたので顕彰会の有志7名で同行しました。(官兵衛公の御ために頼まれれば何処へでも行くのが義を通す顕彰会の良いところなのです)
築城駅前で築上町観光課の村上さんと待ち合わせして法然寺、大野小弁の討死した林の中にある墓、そして城井川沿いに天徳寺に寄り川上の城井の上城址へと案内し求菩提山資料館へと周りました。
その後中津へ下りてゆき寺町辺の合元寺、円応寺、西蓮寺そして中津城の石垣などを案内しました。
やはり軍師官兵衛の放映決定は市民の皆さんの注目度も徐々に高くなり黒田官兵衛をもっと知りたいという市民の皆さんが増えてきているようです。
明後日(20日)は黒田官兵衛の命日です。黒田家の菩提寺である福岡市の崇福寺で法要が執り行われます。我々も中津から大型バス2台90名で参列することになりました。福岡市立博物館館長の講話をお聞きし2階の黒田家特別展示館を見学の予定です。
全国の黒田官兵衛を慕う皆さん、どうか20日はそれぞれの地にて心こめて献杯の儀よろしくお願い致します。
写真は左上から「法然寺」「大野小弁の墓」「天徳寺」「三丁弓の岩」「城井の上城址碑」「「城井の上址表門」「城井の上城址入口」「城井の上城表門をくぐった地」「城井の上城城址本丸跡」です。
このプログに出会い、急に黒田官兵衛が身近に感じられるようになっております。
最新のプログにではないのですが、3,4年前の記事を見せて頂き、このコメント欄にてコメントさせて頂いておりますことをお許し下さい。
官兵衛が初めて城持ちとなった私の地元、山崎で次男が生まれたと書かれていることに、地元ですら全然知られていない官兵衛に関する日常の姿に、胸がワクワクして思わずコメントを差し上げた次第です。
先に申し上げましたように地元では、官兵衛さんにまつわる資料が皆無と言っていいほどの状態です。もし次男熊の助が、山崎で生まれたという様な資料がありましたら、お知らせ願えれば本当に嬉しいです。
誠に勝手で失礼なお願いかと存じますが、どうかおくみとり頂きますようお願い申し上げます。
宇都宮家はその遠祖が、その名のように下野(しもつけ)(栃木県)の出で、源頼朝の平家討伐後、1185(文治元)年、頼朝は諸国に守護や地頭を置いた。頼朝の御家人であった宇都宮信(のぶ)昌(まさ)は豊前国の地頭を賜り(分家)、築城、上毛(こうげ)、下毛(しもげ)、中津、宇佐の五郡を支配していた。以後400年間、この一族は善政を行ってきた。その居城は周防灘に流れ込む城井(きい)川の上流の城井谷の奥にある寒(さわ)田(だ)の鬼ヶ城(福岡県みやこ町犀川(さいがわ))である。四方に岩石を巡らし、通路が狭く城にたどり着くまでが至難、まさに鬼の城である。「入り口狭くして中広し」のひょうたん型で”ひょうたん城”とも言われていた。普段は麓の「溝口館」に住み、戦の時は山奥の「茅(かや)切(きり)城」に籠もった。
最後の当主となった宇都宮鎮(しげ)房(ふさ)は天文5(1536)年生まれで、大友家のお家騒動「二階崩れの変」で有名な大友義(よし)鑑(あき)(宗麟の父)の妹を正室に貰って大友氏側についていたのである。義兄弟義(よし)鎮(しげ)の一字を貰って鎮(しげ)房(ふさ)と名乗っていた。鎮房は秀吉が九州平定にやって来た時には50代であった。身長が180cmもある大男で鹿の角をも引き裂く怪力があったと言われる。鎮房は豊前企救郡長野を所領していた長野祐盛(秋月種(たね)実(ざね)の弟)と共に大友、毛利の間をうまく渡っていたのである。
豊前国随一の名門である城井(きい)流宇都宮家には多くの分家があった。野中(長岩城)、佐田(赤井城)、深水(ふこうず)、江良、加来、犬丸、西郷(不動ヶ岳城)、奈須等古くに岐(わか)れ本家との繋がりが薄くなった分家もあるが、山田輝家(山田城)、如法寺(ねほうじ)輝則(山内城)、城井信継(川底城)、仲蜂屋(馬場城・・・鎮房の姉婿)、等は代々本家の指図に従って身を処している。筆頭家老の伝法寺家も分家である。城井家を盟主とする鬼木、緒方等国衆もあり、最盛期には岩石(がんじゃく)、一(ひと)ツ戸(と)城、馬ヶ岳、香春(かはら)岳も38支城網に入っていた。
鎮房(しげふさ)・朝房(ともふさ)父子は大友氏の勢力が弱まると、1585(天正13)年鎮房は大友宗麟と決別し、島津と組んだ秋月種(たね)実(ざね)氏と共に島津側についた。そして、種実の五女竜子姫と朝房(ともふさ)の婚約が決まった。秋月氏が降伏する(種実の娘竜子が一時秀吉への人質)と鎮房は秀吉から島津征伐に出兵を命じられた。鎮房は病と称して子の朝房を代理に立て、わずかな兵しか出さなかった。又、秀吉の九州滞在中も挨拶に行かなかった。そのため所領安堵は微妙な立場であった。
※源義経は緒方惟(これ)栄(とし)に命じて豊前・豊後の一部に5つの城を築かせた。①芝崎城(現豊後高田市)、②高森城(現宇佐市)、③犬丸城(現中津市)④大畑城(現中津市)二朗惟興に守らせた、⑤宇留津(塩田)城(福岡県築城町)
※名門武家は総領息子が代々名乗る仮名(けみょう)があって、宇都宮家は「弥三郎」と称し、家督を継いだ後に「鎮房(しげふさ)」と名乗ったのである。鎮房の子息は「朝房(ともふさ)」。
※善政・・・鎮房の小姓である松田小吉の差配を受ける百姓九朗太(行商をして各所を巡っている)
「城井谷はこの世の極楽にございます。重い年貢をむしり取られることもなく、女子が犯されることもなく、童子がかどかわされることもございません。無理やり陣夫役として合戦に駆り立てられる者もおらず、陣夫役に応じた元気者には過分な褒美がくだされます。これはすべて代々のお屋形様の厚きお慈悲のたまもの。城井谷に生まれた果報を喜ばぬ者はひとりもおりませぬ」
官兵衛は、城(き)井(い)谷の宇都宮鎮房(しげふさ)他、十指に及ぶ領内の一揆勢を鎮圧するため、家臣の反対(意地?)もあったが、今度は毛利輝元に援軍を頼んだ。官兵衛のこの要請に答えて、毛利輝元は叔父の筑前領小早川隆景、吉川(きっかわ)広家(元春の子)と共に二万の兵で豊前に出陣した。
官兵衛は二万の援軍の威力で神楽(釜楽)山(城井谷に深く食い込んだところにある)に向かい城を築いて宇都宮方の動きを封じる作戦にでた。効果てき面で鎮房は兵を動かすことも兵糧(ひょうろう)搬入にも支障を生じた。城井谷を封じ込めたまま黒田・毛利連合軍は鎮房与力の城を次々に落としていった。鎮房は密使を送り国人同士の連携を模索したが官兵衛に通路を遮断されており、その様を鎮房と弥三郎(朝房)は成す術なく遠望するのみであった。
吉川(きっかわ)広家、黒田長政連合軍は先ず2月10日、池永城を攻めた。大貞(おおさだ)八幡宮神官でもある城主池永重則は部下及び大貞宮の神官850人に防戦させたが勇士は殆ど戦死。城主の嫁は果敢にも敵兵13人を切りつけた。嫡子乙次郎(3歳)を三蔵法印に託し城を逃れさせ一族20余人と共に自刃した。
2月22日、今度は福島城(田丸城)を攻めた。城主佐渡守鎮充は剃髪して降伏、出家して「祐了」と号し後、京都で教如上人について修行し、帰国して「長久寺」住職となる。
2月23日、大畑(大幡)城を攻めた。大貞(おおさだ)原に陣を構え、軍を五隊に分け合戦三昼夜、長政は火矢を打ち込んで落城(寄せて280人余死亡、城兵300人余死亡)。城主加来統(むね)直(なお)は主従5騎で伊藤田の尾根を東に向かって大友を頼り豊後に逃亡中、秣(まくさ)村の幕の峰で待ち伏せしていた秣氏の伏兵に討たれた(加来統直の子加来重基は土田村に逃げ、後の中津城主細川家に仕えた。その後帰農して後(のち)裔(えい)が続いている)。
※乙次郎は和泉国(大阪)永平寺に、長じて帰郷して宮司を継いだ。
※大畑城は源義経の築城で加来惟興から統直まで22代続いた。
4月5日、長政は3500騎を率いて、観音原の戦いで黒田に降りた上毛郡唐原村の百留氏の道案内で大野の宮に陣を敷き、長(永)岩城(旧下毛郡津民村)を攻めた。城は背後に険しい山を負い、扇山(海抜531m)の頂上に本丸がある。前は津(つ)民(たみ)川に臨んでいて、鉄平石を積み上げた”銃眼つき砲座”や石塁を持つ九州では最大規模の堅固な山城で、一人守れば1000人の者も進むことは出来ないと言われている。長政は陣地を笹が峰に移した。城主野中(のなか)鎮兼(しげかね)は豪士1550人で防戦した。長政軍一時退却の際に(放浪癖の)水野勝(かつ)成(なり)と後藤又兵衛の殿(しんがり)の功名争いは有名。長岩城からは大砲を放って合戦三昼夜、死傷者多数、数に勝る長政軍が遂に落城させた。野中一族は最後の酒宴”豊前今様(いまよう)”を謡って一同自刃した。
中津市ホームページ 耶馬溪の史跡(長岩城の物語) 絵 山根峰泉亜
※平田城址・・・白米(まつたけ)城とも呼ばれる野中氏の出城で城番は平田掃部介。長岩城落城後、栗山利安の居城となり、野中氏の残党を監視した。黒田騒動で有名な利安の子である栗山大膳が幼少期(10歳まで)を過ごした。