黒田藩と天領

2009-12-29 15:59:19 | Weblog
歴史書で馴染みの藩と天領という呼称であるが江戸時代には藩や天領という名称は公的には存在してなかった。明治維新の廃藩置県で藩というものを無くしたと歴史教科書で習いましたので江戸時代を通してそう呼ばれていたと思いがちですがそれは明治維新のころに中国の所領を表す「藩」を借りてきたもので江戸時代には黒田藩ではなく黒田家中、その家臣を黒田筑前守家来○○、黒田惣士○○と呼ばれておりました。「天領」は明治維新後に幕府領のほとんどが朝廷の領地になったので「天領」という名がついたのです。大分県日田地方は昔徳川幕府の天領であったというのは間違いで江戸時代には「御領/幕府御領地」「公領/公儀領地」というのが正しい呼び名なのです。ちなみに幕府の御領、公領は四百六十三万石余あったそうです。我々がよく用いる「黒田藩士母里太兵衛は福島公より無理強いされた大杯の酒を一気に飲み干し~」というのも便宜上使用しているだけですが、黒田惣士母里太兵衛よりやはり黒田藩士母里太兵衛のほうが何やら強そうな感じがしますね。

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3 コメント

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東照宮の御名について (シンザン)
2009-12-30 00:26:26
初めまして。黒田長政公の事について調べていて此方にたどり着きました。お尋ねしたいのですが、4月29日の記事、東照宮の「黒田筑前守藤原長政」、藤原とつくのは何故でしょうか。この頃権力者が貴族と色々関わりを持とうとしていたのは存じていますが…ネット検索では何も分かりませんでした。もしご存知でしたらお教え頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。
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Unknown (藩について)
2014-07-02 16:52:21
ペリー来航以前においても「藩」の語は徳川斉昭公や真田幸貫公の書状で用いられています。両名とも海防参与、老中という公的な役職に就いていたので公的な意味で「藩」は用いられていたと思われます。横浜市歴史博物館蔵の佐久間象山(松代藩士)の手紙にも「松代藩」「長州藩」といった語句が直筆で使用されていますので考察に値するかと思われます。
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お礼 (豊前国中津黒田武士顕彰会松本達雄)
2014-07-04 08:51:25
シンザン様、Unknouwn様。
コメント有難うございます・東照宮の鳥居の件は一度調べて納得した覚えがありますが、いま正確なお答えはできずにいます。申し訳ありません。分かればご紹介します。どなたかお教えお願いいたします。
藩についてのご教授参考になりました。有難うございました。
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