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ロシアの革命から100年  実戦教師塾通信五百七十号

2017-10-20 11:13:33 | 思想/哲学
 ロシアの革命から100年
     ~ソビエト成立とレーニンの苦悩~


 ☆初めに☆
選挙関連のニュースを見て、自民政権が単独で安定多数となった景色を想像して、ブルーになってます。自民の中で湧(わ)いてきた議論も中断されるという絶望感は、なんだかもうってやつですね。
 ☆ ☆
そんなニュースの間で、選挙後に日本共産党が名称を変えるなんて噂もあるんですね。「ヨーロッパに幽霊が出る」で始まる、『共産党宣言』が発表されたのが1848年。明治維新の20年前です。ソ連が崩壊して旗も名称も旧ロシアに戻ったのが1992年です。
今回は別な視点で、ロシアの革命を考えようと思います。

 1 西ヨーロッパの知的伝統
 読者の皆さんは、もちろんマルクスをご存じでしょうが、さきほど取り上げた『共産党宣言』は、マルクスともうひとり、エンゲルスの手によって書かれたものです。

       これはカール・マルクス
そのエンゲルスの主張に、注目すべきものがあります。マルクス/エンゲルスが編集していた『新ライン新聞』紙上に、それはあります。『共産党宣言』を発表した年の文章です。
「……最も未開な文明段階を……文明らしき段階にむりやり引きずり込まれた…諸民族は生存能力を持たないし、決して独立なんかできないであろう」
こう言われると、1868年に諸外国勢力から「むりやり」開国された私たちの国はまずいな、などと思ってしまう。しかし、エンゲルスは容赦なく続けます。
「歴史の歩みによって、無慈悲に踏みつぶされたこれら民族の残骸(ざんがい)、民族の屑(くず)は、完全に根絶やしになるまでは、反革命の狂信的な担(にな)い手であることをやめない」
この場合「反革命」とは、歴史の自然な流れに逆らうものを言っています。信じられないことですが、民族には「選ばれたもの」と「屑」がいる、とエンゲルスははっきり言っているのです。
 マルクスたちに多少とも影響を受けたものは、この事実をしっかり見ないといけません。実は西ヨーロッパの知的伝統は、多様性を認めて来ませんでした。フランス語の傲慢(ごうまん)さを私たちは知っています。しかし、それ以前の傲慢はラテン語だったこと。後に歴史から消滅したラテン語のことも、私たちは知っています。文化/言語は選ばれたものであるべきだとヨーロッパは思い、目指してきました。いや、わが国においても「方言追放」の歴史があったこと、続いていることを思い起こすと分かりやすい。民族もそうなのだと、エンゲルスは言っているのです。同じ人が、
「万国の労働者、団結せよ!」(『共産党宣言』より)
などと言っている。
 エンゲルスは、「民族が『屑』でも、中にいる労働者は『屑』ではない」と言っているわけでもない。彼らはやっぱり、
「ドイツこそが歴史の必然的発展の最高段階の国だ」
としたヘーゲル、小池都知事のおかげで思いがけなく脚光(きゃっこう)を浴びた、ヘーゲルの思想で育った人たちなのです。

 2 革命下の言語
       1917年、ロシアに革命が起きました。

さて、革命後のロシアには大量の少数民族が登場しました。エンゲルスのいうところの「屑=劣性民族」です。言語で言えば、それまで皇帝/将校たちの言葉以外は、すべて埒外(らちがい)だった。しかしそこで革命が起こってしまった。
 「ソビエト」とは「自治区(自ら治める区)」という意味です。それらが連合したものを「ソビエト連邦=ソ連」と呼びました。つまり「自治区」においては、それが少数民族の地域だとしても、生活や言語は彼らのものだったはずです。レーニンたちはどうしたでしょう。

  群衆の前で演説するレーニン。右横の軍服はトロツキーです

ご存じの通り、スイスは今でもドイツ語フランス語など、四カ国語を公用語としています。レーニンは、この「小国スイス」を例に話します。
「(スイスは)三つもの言語があることで損をしてはおらず、得をしているのである。スイスのイタリア人が、議会でしばしばフランス語を語っているとしても……野蛮な法律に強制されてそうしているのではなく……市民が多数のものによくわかる言語のほうをえらんでいるにすぎない。………それよりはるかに雑多な民族をかかえた、おそろしくおくれた『広大な』ロシアが……いろいろの言語のうちの一つのために……自国の発展を妨(さまた)げなければならないのか? いろいろな言語のうちの一つを押しつけることがやめられれば……たがいに理解し合うことをまなぶであろう」(レーニン全集第20巻「1913年のテキスト」から)
言語の中央集権に反対したこの主張は、どうも「言語学者スターリン」の影響で話されているように思えます。スターリンは1904年、
「ロシアの異民族のプロレタリアが、母語で学び……はなすことをほとんど禁止されている事実が、諸君を憤慨(ふんがい)させているのか? それは憤慨すべきことだ!」(『マルクス主義と民族問題』より)
とすでに言っています。レーニンは革命渦中で、民族問題をスターリンに丸投げしたと、確かに聞いています。
 レーニンは、多くの「屑」民族の言語は保障されるべきだ、と結論づけたのです。

 3 レーニンの苦悩
 革命後、ソ連は世界中から兵を差し向けられます。「労働者政権」なる怪物を世界中が恐れたのです。もちろん、既得権を剥奪(はくだつ)された旧ロシアの皇帝/将校/富農層たちも黙っていません。イギリス/フランス/アメリカ/チェコ/トルコ、そして日本もソ連をつぶそうと軍隊を送りました。白軍(革命から追い出された旧ロシア勢力)は、それらの国々からの援助をバックにして戦った。ついでながら、よく聞く「白系ロシア」とは、この名残(なごり)です。「革命=赤色」に対する「反革命=白色」のことです。
 革命後のレーニンの苦難を書いて、この稿を結びます。
 十月革命のあと、新政府は将校を選挙によって選出、すべての階級は廃止という、軍隊の民主化を実現しました。しかし、押し寄せた諸外国と旧ロシアの軍隊の前に、この民主化政策は、自由で大量な脱走兵を生んだのです。仕方なくやったことは、赤軍の志願制から徴兵制への移行でした。
 農民からの、ほぼ強制的と言える穀物の割り当て徴発制は、革命を守り抜くという路線から出たものです。しかし、規模がとてつもなく大きい内戦です。農業だって疲弊(ひへい)したのです。

農民からの大規模な反乱が起こって、レーニンは気がつくのです。穀物の徴発制は廃止されます。


 ☆後記☆
とまあ、しり切れとんぼで終わります。あとはみなさんご存じのように、ソ連がかろうじて生き残った原因として、十月革命の世界にもたらした衝撃があったということです。ドイツやイタリア、そしてアメリカなど、世界中に社会主義(または労働)運動が起こったことです。それがこの革命をサポートしたのです。
今回は、エンゲルス/ヨーロッパの「優生思想」に注目してもらえれば、と思って書きました。
 ☆ ☆
先週お知らせした岡崎さんとの対談、早々アップされました。http://freejournal1.wixsite.com/kotoyorimasato/untitled
なかなか好評なようです。
良かったら聞いて(見て)ください。
 ☆ ☆
え~と、楢葉の渡部さんがいよいよ子牛を三頭、競(せ)りで落としました。おめでとうございます!
酔っぱらって電話して来てくれて、嬉しいな。きっと7年近くの苦労を噛みしめているのです。
今日から福島に行ってきます。牛さんやお祝いのダルマさんとのショット、撮ってきますよ。

   久しぶりにゆとりの時間。手賀沼「野菜のレストラン」です

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