実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

自由 実戦教師塾通信九百十九号

2024-06-28 11:38:54 | 子ども/学校

自由

 ~同居する「孤独」~

 

 ☆初めに☆

学校からの依頼としては久しぶり、研修会で話をすることになりました。職員向けに、生徒指導の話をして欲しいというのです。アンケートで日々の悩みを聞いてもらいました。昔も今も、先生(大人)の悩みは同じです。でも、昔と今とでは、子どもは全く変わってしまった。そのことははっきり伝えようと思っています。今回は子どもや社会の周縁事情を書くことにします。「正解」までは書きません。いつも長い風呂敷拡げですが、更に長くなります。

 1 『隆明だもの』

 吉本隆明の長女・ハルノ宵子が、昨年暮れに『隆明だもの』(晶文社)を出版した。同じ晶文社で刊行中の『吉本隆明全集』に挟まれている月報を加筆訂正したものだ。著者はもともと漫画家だし、掲載されている挿絵は「父親」が言ってた通り味わいがある。吉本ファンにとっても、読み込みを必要とする文章は捨てがたい、のかもしれない。

知られざる吉本の姿は、吉本ファンにとって衝撃的だったのではないか、などと書く書評家もいた。一体なにを分かってるというんだ。さながら自身の身体ではないかのように崩れて行く姿は、晩年の、ほぼインタビューによる著書が示している。だから、おびただしい薬やオムツのこと(写真)も知っているし、雑誌『dancyu』の巻頭・連載エッセイには、思い通りにならない自分の身体がもとで家族にどんな仕打ちをして来たか、控え目ながら書いている。ハルノさん大変だったなぁとは思うけれど、吉本最後の姿が醜悪だったなど思うはずがない。身の下話はともかくも、思想的な「過ち」まで突っ込まれれば、いやぁ、ハルノさん、勘弁して下さいよと半畳を入れたくなるわけである。

 この『隆明だもの』に、今回の記事と繋がるところがある。吉本さんは「自立」(知らない人のために断るが「自律」ではない)を掲げ、揺るぎなく表現者として生きた。知らず知らず群れてしまう私たちの習性が、吉本家の出来事の中に示されてる。これを読めば、ハルノさんは紛れもない「父」の継承者であるのが分かる。

「父に刷り込まれたのは、『群れるな、ひとりが一番強い』なのだ」

ブログの読者のために例を挙げると、いじめる人間にもいじめられる人間にも加担するな、ということだ。「傍観者はいじめる側にいる」考えの学校関係者には、目の玉が飛び出そうなものだろう。白か黒かじゃねえだろ、もっと考えなきゃいけないことがあるだろ、という「当事者」の場所が「自立」なのである。だから、「ひとりが一番」と言う吉本を周囲は決してひとりにせず、常にどこかで反論・議論が絶えなかった。ハルノさん曰く、吉本は「誰にでも懐を開いているように見えて……誰も許していなかった」。かくも、「自由」でいることは「孤独」なのだ。

 2 「ひめごと」という「孤独」

 現在の家族・子どもの土台は、1970年代後半から十年で出来あがってる。本にこそ書かなかったが、好きなだけ話してくださいとレクチャーを依頼された時、初めの部分で必ず言うことがある。固定電話の普及である。その普及率が50%を越えるのが、1974年だ。それまでの地域・家庭・子どもは、どんなだったのか。子どもが学校で蹴飛ばされたと、泣いて帰って来た。母親は剣幕を変え、速攻で我が子の手を引いて抗議に向かう。道々、子どもの話を聞くうち、さっきの興奮が止んでくる。実は子どもの方も、いつの間にやら冷静さを帯びている。さっきと話が違うんじゃないかという母親の問いに、子どもはうなずく。そして、来た道を親子は戻るのである。これが時代をさかのぼった話だ。親子が向かっていたのは、多くが学校ではなく相手方の家だった。電話が登場して、事態は一変する。興奮覚めない子どもから聞いた話に激高した親は、感情が赴くままに話すことが「強いられた」。電話で叫ぶ母親の話を「ホントは少し違ってる」思いで聞く子どもは、母親と共に、もう引き返しようがなくなっている。

 とてつもないスピードで、社会が変容していた。丁寧で時間をかけた、そして「子どもは大人(自分)たち皆で育てるもの」という認識が、この時代まではあった。便利になることと引き換えに、私たちが失うものは大きかった。それまでのコミュニケーションが、根底から崩れようとしていた。その日に必要な味噌や醤油が足りない時、この時代だったらお隣さんから工面していた。「スープを冷めないうちに届けられる」場所に「ご近所」はいた。それらを含め、固定電話は人々の「外に出る機会」を大きく減らした。そして同時に、子どもを巡って起きるいさかいは、エリアが拡大した。そこの仲介役として、学校がおもむろに登場する。「学校」が「学校化」する瞬間を迎えたと言っていい。90年代になるまで、この勢いは止まない。私たちはその中で、幾多の便利と「自由」を手に入れる。しかし、「自由」が意味するものは、単純ではなかった。やはりここでも、人々は大切なものを手放す。

「他の動物には無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ」(『斜陽』)

「ひめごと」が「出来るようになった」小さな子どもを見たら、作者の太宰は「こんなケツの青いガキまで⁉」と笑うだろうか、呆れるだろうか。あれこれと心配し干渉してくる大人がいない「自由」な世界では、「ひめごと」が「ひめごと」ゆえ、処置は自分がしないといけない。それがきついと思う時、人は「孤独」を抱える。今の子どもたちが、年齢に見合わない「孤独」を抱えているのは間違いない。そのことを大人は繰り返し確認しないといけない。

 

 ☆後記☆

例を挙げると、バイクって一番「自由」な乗り物だと思っています。でもあれは、ボディ(車体)という、自分を守ってくれるバリアがないんです。自分の身体は自分で守らないといけない「孤独」を強いられる乗り物なんです🏍

 ☆☆

鹿児島県警を巡るあれこれ、面白いですね~ 盗撮容疑の件は、23年の12月に発生。でも、この警官(巡査部長)が逮捕されたのは半年後。本田前部長が退職後に、フリーの記者に告発資料を送った後のこと。さらに本田前部長は、この盗撮警官逮捕の直後に、同じく逮捕。公文書漏洩とあっては、逮捕も免れない? 現職警官の女性ストーカー事件も「職員を処分し、必要な対応が取られている」と、それがアナウンスされないのも「被害者に迷惑が及ぶのを避けるため」とは、野川本部長必死の会見です。繰り返されている「隠蔽かどうか」のやり取りが良くないですね。決定的なのは、私たちに「一体どんなことがあったのか」分からないことです。それがない限り、私たちは「隠蔽」の有無に到達出来ません。メディアの「何があったのですか?」を待っています。更に面白いことが続いています。大阪地方検察庁でトップの元検事正が、性的暴行の疑いで逮捕されました。5年前の事件の容疑者を逮捕するのは、異例のことなんだそうで。鹿児島の激震をもろにかぶった、と考えるのが自然でしょう。

これは贔屓(と言ってもそれほど通ってない)の和食処『和さび』。開店十周年です。これからも美味しい温かな料理を、よろしくお願いします🍶🐡


最新の画像もっと見る

コメントを投稿