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震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

名人 実戦教師塾通信八百六十四号

2023-06-09 11:36:15 | 思想/哲学

名人

 ~深遠と孤独~

 

 ☆初めに☆

藤井君が、棋聖のタイトル防衛戦第一局で勝利しましたね。海外戦はもちろん、藤井君が海外に行くのが初めてだったそうで。少し考えれば、二十歳で海外旅行が初めてというのは、今どきでもそんなに驚くことではないのでしょう。私たちが改めて思うのは、そんな暇が藤井君にはなかったし、そんなことをしようとも思わなかったのだろうということです。藤井聡太の奥深さがどこまで続いているのか、とてもとても分かるとは思えません。でも、私たちが藤井聡太という出来事に一体どんなことを感じているのか、それは何とか出来そうだし、やってみたいと思います。

 

 1 千年のボードゲーム

 藤井聡太なる中学生がメディアを賑わし、将棋教室へと子どもたちの申し込みが殺到した。子どもたちの親が喜んでいる。引きこもりだ課金だ睡眠不足だ、と目の敵にされるゲームとはえらい違いだ。課金こそないものの、子どもが入れ込み過ぎで生じる出来事は共通しているが、小学生の藤井君の頭が将棋で充満してて、どぶに気づかず落ちてもお叱りが出ない。将棋はインドで生まれ、遣唐使が伝えたとされる超絶的歴史を持つ。いまの形になったのは室町から江戸らしいが、大切なのは数百年に渡り将棋の形に大きな変更がないことだ。将棋盤は変わらず長い年月、多くの人を迎えてきた。ゲームは事情が異なっている。同じカテゴリーでもソフトが次々と発売される。高額なゲーム機(ハード)もバージョンアップされる。オンラインゲームでは、課金なるシステムも誕生し親を蒼ざめさせた。ゲーム世界の向こう側には、業界という欲望が控えている。教室やアプリやという支出なら将棋でも考えられるが、初心者&楽しむというレベルなら、厚紙を切り抜いた将棋盤と駒で用は足りる。しかも、戦いの奥深さにおいて、厚紙は柘植(つげ)の将棋盤と変わることがない。世代を超えたこのゲームで、大の大人が子どもに向かって「負けました」と、頭を垂れる。藤井聡太の姿を見て今、大人まで将棋を思い起こしているのである。

 そういう点から、将棋を「生産性がない」と、国会議員の誰かさんやゲーム業界は言うのかもしれない。もしかしたら、良く言う「社会のため」「人のため」というのがどんなことなのか、いま検証されているのかもしれない。藤井聡太は発光ダイオードを発明したわけではないし、平和や地球温暖化防止のために活動しているわけでもない。確かなことは、子どもも大人も藤井聡太を応援し、多くの人が藤井聡太の活躍に感動していることだ。私たちが力をもらうのは、どのようなことによってなのか、いま改めて教えられている。

 

 2 生きる

 未だに藤井聡太の負けず嫌いが話題になる。しかし師匠の杉本昌隆が言うように、これが変わった。もともと相手を褒めることの少なかった藤井は、いつの頃からか「タイトルを取ること以上に、対局を生かして成長につなげることが大事と思っている」(王将獲得後の発言)と言うようになったような気がする。名人を得た後、残ったタイトル(王座)にどう臨むかという質問へ「一つでも上を目指す」との答えは、王座をさすのではない。王座の挑戦権を目指すと言っている。せわしく無責任な私たちを制するものが、そこにある。私たちも気づき始めているが、良く言う「次の目標」というものが、恐らく藤井聡太にはない。あるのは、無限の深みを持つ将棋という宇宙の奥に、少しでも踏み込みたいという決意である。将棋の差し手は、有利不利や勝ち負けという結果を越えて、お互いにある完成品に近づく作業をしているかのように見える。渡辺名人が「いい将棋を指したい」と繰り返し言っていたのも、王将戦でストレート負けした時の「もうちょっと何とかしたかった……残念はもちろん違うし……」もそうだ。

「彼らは日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在を殆ど認めていなかった。彼らにとって必要なものはお互いだけで、そのお互いだけが、彼らにはまた十分であった」

「彼らは……都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を棄(す)てたような結果に到着した」

私は唐突に、漱石の『門』を思い出した。これは宗助とお米の孤独で貧しく幸福な暮らしを書いた、物語の後半のくだりだ。もちろん、ふたりが抱える後ろめたさのもたらす孤立感と、棋士たちの孤高を並べるつもりはない。しかし、私たち(間違いなく「私たち」だ)が生きる時に抱え込む頼りなさは、本質において全員変わりない。そして私たちの、この頼りなさへの対処の仕方に、優れているも貧しいも存在しない。『門』最後の方の部分だ。

「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らずに済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」

藤井聡太の「(自分の)負けにしている」「途中で何度も分からなくなった」「困難な局面が多かった」等の言葉が謙虚さから来るのでなく、本音であることにも私たちは気づき始めている。不幸ではないにせよ、門の前で立ちすくむ宗助のような姿をした藤井聡太に、私たちは恐らく共感をして声援を送っている。

 

 ☆後記☆

いつか書きたいと思ってますが、将棋と武術は似ています。対する相手と完成品を目指すように「仕合う」のです。これが「試合」の原型だったのです。断りますが「型」試合を言っているのではない。武術の場合、命がかかりますが、将棋も命がけなのかもしれません。仮に致命傷の事態が発生しても、スポーツの空手や格闘技と武術は違うのです。

3年前、藤井君が王位戦の第二局を戦う北海道までの飛行機は、小さい頃に乗って以来だったそうです。「緊張しました」との言葉は三陸鉄道運転の時と同じく、また初の海外旅行も、みんなみんな初々しい。

関東、梅雨入りです。台風もいやですね

今年もむくげ?が咲き始めました。しばらくの間、可愛い姿を見せてくれます


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