チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

プロジェクトを組む

2011年05月19日 10時26分28秒 | 日記
かねてチャコちゃん先生は
「セリシン」のついたままの糸で織ったきものを着るべき
と考えていて
先ず自分自身もそういう布を探して16年着続け
やはり「セリシン」をとらない布は素晴らしいと思った

そういう思いに至ったきっかけは
皇女和宮の衣装の数々を手にとって触ったとき
いままで著名な染織家のきものや
いいと思っていた高価なきものとは全く違う触感であったことが原因

いつまでもこの布に包まれていたい言う安心感
多分記憶にないが母のお腹の羊水の中で
たゆたっていた感覚かもしれない
そんな心地よさを感じた

こういう布はどうしたら出来るのだろうか
色んな染織家に話を聞きそして自分でも意見を言って試してみた
そして或る日
四国愛媛の野村町で「塩漬け繭」を作っている染織家が居ると
白生地の大竹さんに伺って連れて行っていただいた

そこでさわった感触が皇女和宮の布と似ていた
早速丁子で染めたものと夜叉で染めたものを作っていただいた

一反の軽さは400グラム
ぬめっとして艶がありしかもシワが取れ易い

「セリシン」は無用とばかり
薬品を使って無理やり落としてしまうのが当たり前の業界
これは大量生産、大量消費に向けた政府の政策によって
「本当のきものづくり」を捨てさせられた時から始まった

糸はどうでもよい
とにかく安ければいい
そしてきものもフアッションとして流行を作る
それには人の手によるものより
機械でジャンジャン作ったほうが簡単
こんな考え方が戦後ずっと続いてきた

「きものは素敵、いいものです」
と誉めそやしてーー

その陰で手でしっかり、真剣に作るきものは
ドンドン姿を消してしまい
「今のきもの針金みたいね」
とおっしゃる年配者も多い
「もう重くて着られない」
昔の着物が店先に並ぶリサイクルショップが流行るのもうなずける

日本人は肌が喜ぶ触感をまだ持っている国民だ

というわけで
野村町から信州に仕事場を移した志村明さんと秋櫻舎、
そして蚕業技術研究所の研究者達のアドバイスを受けながら
セリシンをつけた糸作りをして
みんなが皇女和宮と同じように心地よい布に
身をゆだねるようなきもの生活を送って欲しいというプロジェクト

来年の
何だかまだ先のようだがーー
昨日は糸の元になる蚕は「玉小石」つまり生まれも育ちも日本の蚕
玉ちゃんに決めて来春からいよいよスタート

たのしみ!

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野に置けーーー

2011年05月18日 09時19分03秒 | 日記
雑草の花がピンクや黄色であまりにも可愛いので
切花にして活けた
その瞬間は楚々として美しかった
そう
一日にして枯れてしまった
「あなた達はこんな風に飾ってはいけないのね」
それぞれお役があることがわかった
其れが自然の法則

野にあってこそ美しい
いまは野いちごが黄色い花をつけている
この植物も蔓延るので今までは
目の敵のように取り去っていたが
あの3・11以来
命あるものはたいせつにしようという思いに駆られ
そのままにしてある
やがて赤い実を付けるであろう

たぶんそういう蛇さんが食べるイチゴも
私達が口にしなければならないときがやってくる
どういうわけか
今年は桑の木も実をつけてきた
こちらはいまだに渡っていかないヒヨドリの餌になっている
それもよかろう
みんな命あってこそだもの

野にいて元気が良かった
というより頼もしいと思っていたカンナオト
ヤハリ座敷に上がって来てはいけない御仁だった

浜岡原発の停止も
後先考えず人気取りのためにやったことが今わかった
ポイントを抑えるのが上手
これはヤハリ野党根性

野に戻ってその場の才能を発揮して欲しい
雑草の花が座敷でしおれたのを観て
つくづく思うチャコちゃん先生であった
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自己の解放

2011年05月17日 11時32分34秒 | 日記
映画「ブラック・スワン」を見る
己の敵は己の中にある
ということが良く分かる映画

「白鳥の湖」のバレエ映画よ
と誘われていったのはいいが
バレエを堪能するのではなく
映画は己の中の幻想とか弱い部分を穿り返していく

数日前
友人達と「敵はいつも自分の中に居るね」
という話をしていたので
其れが正解であったことを証明されたような感じ

人は人生の中で一度は自分の中のどろどろしたものを
全部たたき出し
テーブルの上に広げて検証をしなければいけないと思う

安易に自己の解放をするべきではない
あのひと「カムイングアウトしちゃったわね」
と人に己のことをイロイロとしゃべってしまう人もいるが
自分と真摯に向かい合った人は
その時点でもう己を解放していると思う

自己を解放をしないと
自己破壊につながっていく

でも自己の解放って
自分自身をとことん見つめないと出来ないし
真剣に何かに取り組まないと無理のような気がする

なるほどと
考えさせられる映画でしたな

ところで映画といえば
わが秋櫻舎では「映画コスモス」を始める
みんなで映画を見てその時代のことまた登場人物の心理などなど
色んな角度で語り合ってみようという趣向

さらには「マナーコスモス」も
「ブラック・スワン」見ても思ったが
人は骨を意識することによっていい姿勢になるのはもちろんだが
骨の動きを知ることで贅肉も付かないことがわかる
更に骨を見つめることで成人病ともご縁がなくなる

骨様のことをこの「マナーコスモス」で勉強をしたいと思うのである
いまチャコちゃん先生は
「きもの解体新書」という本に取りかかっているが
その中のこともお話できレバーーーなどと

そうだ日にち
5月21日 14時から「マナーコスモス」
    17時から「映画コスモス」
    参加費 3150円 茶菓子付き

お待ちしています
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寒冷期

2011年05月16日 10時19分08秒 | 日記
どうも地球は寒冷期に入ったらしい
何事も頂点になると下るしかないが
温暖化と騒がれていたが
二酸化酸素が悪玉になっていたけれども
温暖化はそのせいばかりではない
宇宙の計画だったかもしれない

周りを見渡しても
世の中が確実に変わってきた
世の中というより人の意識が変化

お金お金と追いかけてきたけど
「お金って何ぼのもの?」
という感覚になって来た
お金がお金を生んだ世界は確実に斜陽の道を歩んでいる

お金を使わないで楽しく暮らす知恵を出し合う
そういうことのお集まりが増えている
昔の人の知恵に驚く毎日だ

日本はかの国からコテンパに魂を抜かれてしまったが
このたびの災害で
東北の人たちのよき日本人の立ち居振る舞いに
日本人の魂を思い出した人も多いように思う

日本の恥部があまりにもあからさまになったのは
カンナオト君を始め
周りのふにゃふにゃ政治家のお陰

いよいよ寒冷期
毎年立夏を過ぎると単でも暑かったが
今年は袷でちょうど良い
気温は25度とか発表されているが
風はさわやか
太陽暦も宇宙のめぐりと合わなくなっている

極秘のレポートを読ませていただいた
アメリカペンタゴンが極秘に学者に研究させた今後の気象
2011年から寒冷期に入るとハッキリ書かれていた
日本は気持ちが一つになりやすい民族なので
寒冷期になっても一番堂々と生きていける国だと
ホントにしよう

自給自足を徹底した方が良い
休眠反を再使用するべき
今からでも遅くない
山にぶなの木を植えて綺麗な水を確保すべし

資源の乏しい日本は
協力して資源を大事に使いたい
今そこにきている寒冷期
きものがますます重要になってくる
チャコちゃん先生の我田引水と笑わないでおくれ

絹は自ら浄化、洗濯を頻繁にする必要が無い
そうすると貴重な水や電力を使わないですむ
宇宙と共存共栄するものが見直されてくる

自分できちんと生き
じぶんでいいエネルギーを発散することが必要のようだ
何人にも依存しないで自分で考えるときが来ている

当方は薔薇の花がまっ盛りで美しい
その陰にちゃんと野菜の種を新月に撒いたもんね
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続けるということ

2011年05月15日 14時04分40秒 | 日記
声楽のレッスンを重ねてボツボツ20年
途中8年ほどオサボリしたので12年か
そしてバレエも5年目に入った

和ごとに全く向かないのが面白い
お琴や御仕舞い謡曲にも手をつけたが
というよりこちらは親の勧め
親には絶対に反抗したいという性格のため
和事は結局続かない

ピアノは先年
「ピアノが物置き場になっている!」
と怒られ寄付されてしまい全く鍵盤とおさらば
といってももともと続いていない
仕方がない

この続くということは好きでなければダメだ
「好きこそ物の上手なれ」
というけれど
チャコちゃん先生の場合
「上手」にはなかなかならない

ではなぜ続くのかと考えてみた
声楽は腹から声を出すことが気持ちよい
バレエは音楽に乗って体を動かすのが心地よい
「上手」を目指さず
心地よさを感じたいことが続けられる原因だろう

お陰でもともと弱い気管支が丈夫になり
余り咳き込まなくなった
バレエでは足の先、手の指の先に神経を使うようになり
捻挫をしなくなった
躓くことも無い
きちんと歩けているんだなということがわかる

先日の友常先生の話の中にも
「熱中すること」それが顔を張るがんばることだとも
おっしゃっていた

声楽では声の出し方と骨の関係を教わる
バレエでも骨は大事だ

人間って
幾つになっても体が進歩する
それは骨を意識して使うことでもあるらしい
ユングが言う潜在意識を私はマダマダ使っていない
村上先生のおっしゃる
「遺伝子オン」も作用していない
これからだ

友人が太らないように潜在意識に呼びかけていたら
食べ物に注意しなさいというメッセージが来て
朝は7時まで 昼は12時から1時 夜は7時まで
しかも和食中心に食を切り替えたところ
Ⅰ年続けたらすっかりスリムになり快食、快便、快眠と

チャコちゃん先生も食をちゃんとしろ
というメッセージを受けているのだが
こればかりは続かない 
目が卑しい
ここが出来れば覚醒できるのになあ
前に千日回峰された阿闇梨様に取材した折
「最後に残る欲望は」
とお聞きしたら
「食」
とおっしゃった

だから自分も一緒とは思わないがーーずうずうしい

食を加減すれば体全体が心地よくなるのはわかっている
ああ悩ましい




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勇猛心

2011年05月14日 09時52分05秒 | 日記
昨日大和古流21世当主友常貴仁先生に
勇猛心について伺った
詳しくは「剣道日本」で連載中の第27話を読んでいただくとして

チャコちゃん先生は
勇猛心というのはどちらかといえば
後先考えず思いつきで勇敢に行動すること
字が示すように猛々しく火中の栗を拾う心と考えていた

しかし全く違う
当主の勇猛心は勇ましく励み
其れを決定するときの心を言うとおっしゃいます

まず励まなければならない
努力と言っていいかもしれない
己の言動に責任を持ちそのことを実行する

恥知らずな責任逃れや裏切りは
勇猛心のかけらも無いのでこの世から消えて欲しいとまでーー

こういう勇猛心は
幼少の頃から鍛えないと身にも付かない
我が日本は戦後66年かの国に骨抜き教育を進められ
勇猛心を育てる親や師匠がほとんどいなくなり
今日のようなふにゃふにゃ人間ばかりになってきているーーと

またチャコちゃん先生のマチガイを質していただいたのは
「頑張る」ということ
チャコちゃん先生はがんばるは「我を張る」ということで
肩に力が入り何も見えなって力むだけのもの
だから頑張るより「楽しく行動しよう」という方がいい
と思ってきた

でも「楽しんでやりましょう」「ワクワクしましょう」
という言葉にも一本筋が入っていないような
腑に落ちないような気持ちでいた

お互いに我を張っていても
いなしたり、すかしたりして調和点を見つけ解決をする
だから頑張ることは
自分の道、相手の道がよく理解できていいのだと
我を張るから達成も或る

大和古流の「がんばる」は「顔(がん)を張る」という
己を己としてしっかりと確立して己を主張すること
顔を張ると気を張る
そうすると自分の構えーー自分らしさーーーがでる
深いですなあ

がんばるの反対は「面倒」
チャコちゃん先生常に「そんなのめんどくさい」
といっている。ハイ反省
面倒くさいは面が倒れる、つまり顔がなくなるのですぞ
顔がつぶれるのだ
疲れるのは勇猛心が無いからだ

「きものを通して国づくりをする」
と今年の初めに大見得切ったのだが
面倒くさがってはいけない。つらを伏せてはいけないのじゃあよ
ピリリ、キリッ、シャキッ

やりたいことは自分で決めることも勇猛心

日本語というのはとても意味が深い
日本語を話しながらも間違った解釈も多いと気がつく

6月3日のナイト・コスモスでは
「戦後の日本教育」と題して
日本語教育の研究家大島楯臣さんにお話を伺うことにした
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文楽の演目

2011年05月13日 13時47分31秒 | 日記
文楽の魅力は
太夫、三味線、人形遣いの三位一体の演技が整ったとき
人に感動を与える

不思議だと思う
こういう芸術が日本にあることがーー

どうも日本人はややこしいことを
一つに見せていくことが得意のようだ

昨日は久しぶりに
「生写朝顔話」を観る
この話はもう4回だ
簑助師匠の朝顔が一番心引かれる

一目で恋に落ちた朝顔が
二度目の再会に乙女らしい積極性と恥じらいを見せ
恋しい人を追って
流浪の旅をかさねあえない哀しさに泣きつかれ
盲目になって琴と歌を座敷で歌って生計を立てる

その姿を肩や首の細やかな動かし方で切なさを見せる
人形だとわかっているのに
観ている方も感情輸入してしまうほど涙を呑む

恋人と行き違いながらも最後は期待の或る終わり方だが

「越すに越せない大井川」
というセリフがいまだに残るほどの名場面の大井川で
ある特効の薬で目が見えるようになったとき
その喜びにみちた若々しい演技に
観客は一緒になってその幸せに喜ぶ

しかし
「この人」と決めたら
そのいとしい人に操をたて
都中を探して歩く女心
そしてその相手も運命に流されながら恋人を思い独り身で居る

こんな男女がいまどき居るかいな
と思うのが文楽の演目

心根は今も昔も同じなのだと思うが
自分の気持ちをハッシと掴んで行動する人が少ない
いつも迷う
自分が信じられないので相手も信じない
だから
適当なところで手をうってしまう

文楽では
相手の心変わりがあれば命を絶つという明快さ
あくまで自分の意思を自分のために貫く

こういう社会人離れしたところが
時代を超えて演じられていくのだろう
「同じ演目何回も観てよく飽きないね」
といわれるが
太夫、三味線、人形遣いの三者がいつも同じでないので
それぞれの表現方法を味わえて面白い

劇場のロビーでは
桐竹勘十郎さんが「お園」を遣って
募金活動をしていた
美しいお辞儀につられみんな何がしかの義捐金を箱に入れている

勘十郎さんは「お園」ちゃんが好きらしい
何かというと連れて歩いているぞ
何年か前「比佐子つれづれ」のかいでも
「お園」ちゃんと一緒にいらして
美しい仕草をイロイロ見せてくださった

文楽人形のような美しい着物姿の女性は
確実に減っている
一途な思いを持った女が美しい

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映画・コスモス

2011年05月12日 11時02分52秒 | 日記
5月、こんげつから第三土曜日は
「映画・コスモス」の日とした
あの地震でテレヴィが棚から落ちて故障し
「もうテレヴィの無い生活にしよう」
とテレヴィとの決別をみんなに告げたのだが

ま、もともと余り観てはいなかったがーー

停電騒ぎ、あまりの大災害に
これから私達はどう生きていったらよいか
温故知新古きを尋ねなければいけない
しかしここの所のつれづれでは
戦前を知っていらっしゃる先輩諸嬢が体調を悪くして欠席がち

それでは知恵を出し合っている戦後すぐの映画に学ぼう
ということになり
早速ヨドバシカメラにテレヴィジョンの購入に出向く

地震の後ずいぶん単価が低くなっていて
何とかゲット

まずは小津安二郎の映画に焦点
「東京物語」のヴィデオを借りてきて
言葉使い、雑巾の絞り方、掃除のやり方、お箸やお茶碗の持ち方
お茶の入れ方、お辞儀の仕方、歩き方などなどなど
トウゼン着物姿の女優が多いので
きものの着方が職業によって違っていることもわかる

筋を追うのではなく
この時代の日本人の暮らし方立ち居振る舞いを学んで
今後の私達の生き方の参考にしようというわけだ
そして人間の物の考え方も学ぶ

「勿体無い精神」を学んでいけば
バブル期に青春だったセキドや
お勉強ばかり高学歴を目指さなければいけなかったヨシダ
団塊世代で親や先生の手が回らず
しかもアメリカ文化に毒された青春のタナカ
我がスタッフの中だけでも本来の日本人に近づく

チャコちゃん先生が完璧ではなく
厳しい親姉兄、怖い先輩達に鍛えられたことが
これからの世に役立つことで社会に対しての恩返し

ヨシダはそういう目で映画を見るのではなく
すっかり映画の筋に入って泣いていた
ま、彼女は芝居を観ても泣かない日はないがーー

我が最首をみても
考え方言葉行動があまりにも雑
あの時代があのような男を作ったのだと思う

日本には素晴らしいお手本がある
それは皇室
このたびの天皇皇后の行動は
私たちに「愛と優しさ」を思い起こさせてくれた

お二人の行動は
次を担う皇太子夫妻にも
また我が総理を始め国家議員、官僚、マスメデイア、経済人にも
深く影響を与える行動であった
どれだけの人が感じるかは別

というわけで
わずかな人数でも本来の日本人に立ち戻って欲しいと
こういう時間を設けたわけですよ

5月21日土曜日 2時からマナー・コスモス
        5時から 映画・コスモス
        3150円 茶菓子付き
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ナンネル・モーツアルト

2011年05月11日 11時27分48秒 | 日記
あの天才作曲家のモーツアルトの姉ナンネル
作曲の才能は小さいときからモーツアルトより優れていたらしい
しかし当時の音楽界では
女の作曲家などは認められないし
才能があることすら家族にとっては恥ずかしい
弟モーツアルトの伴奏者として旅を続ける毎日

公の場所には男装をしていく
そういえばそのあとの時代の小説家ジョルジュ・サンドも
男装をして文学界をのし上がってきた

映画では
男装してルイ15世の皇太子に会いその才能を認められるが
後に女とわかり悪魔呼ばわりされてしまう

女に生まれたばかりに
と才能豊かな女達がずいぶん泣き沈んだ

そこへ行くと
我が日本の平安時代は女の文学の才能が冴え渡っていて
誰もとめようともせず
その才能を開花することが出来た

しかしその後は男の権力争いの影に追いやられ
才能のある女は男を牛耳ることに能力を発揮する
其れを「内助の功」などときれいごとで持ち上げる

其れとわからぬように操縦する女性は男より遥かに賢いが
いちいち自分がやっているという態度にでられると鼻白む
ただ醜い

過去もゲンダイもそして未来も
いろんな女が生息する
女の正しい生き方なんて言うのは無いかもしれないが

ナンネル・モーツアルトが両親、社会の才能つぶしの中にあって
弟の才能を伸ばしきることこそ自分の務め
と思い切るところが心痛む
そして彼女のお陰で私達は天才の音楽を今でも聴くことが出来る

ナンネルの才能を奪ったのは時代だったのだろうか

後にナンネルは晩婚で結婚生活に入るが
一度自分を殺した人生はもう光がやってこなかった
余り幸せな老後ではなかったらしい

これという才能の無いチャコちゃん先生ではあるが
男女平等という時代に生きていて
(本当は男社会で男の権力争いの中で生きているのだが)
男と同じように権力をかさに着てものをいっている女を
決して見よいものではないと思うし

男の陰にいて生き生きと生きている女性を美しいと見るし
現在は色んな女と出会えてそれもまた面白いし

そういう社会の中で
本当に自分を生かしきっているのだろうか
生かしきるというのはどういうことなのだろうか
と考えてしまう映画を観てしまった

重い

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花祭り

2011年05月10日 14時47分38秒 | 日記
旧暦の今日は4月8日花祭り
お釈迦様が
「天上天下唯我独尊」
といったとかーーー

何はともあれ旧暦の今日当たりは花がいっぱい
当方のベランダも
薔薇が一斉に咲き始めて気分が浮き立つ

いつも思うのだが
「花」は一つの言い方だが
花の種類のなんと多いこと
薔薇の木には決して百合は咲かない
遺伝子がちゃんと心得ているのだ

人間から猫が生まれないのと一緒

なんてバカなことを考えているのか
だけどバラの中でも単や八重と種類があり
それも毎年間違えない

なんとも不思議だと久しぶりに買ったココアを飲みながら観続ける

だから人も同じじゃあない
みんな違ってそれがいい
自分と同じ考えを持つ人のみを周りに置きたがるのね
権力者は
権力もって何ほどのことがあろうか
権力の鎧を着て
きっと重くて疲れ果てるであろうに

そんなことまで思ってしまう

ところで
悩ましいまでにアメリカは自分の思うとおりの日本人を作ったが
それで満足しているのだろうか
もっともっと奴隷化したいのだろうか
奴隷になっても
主を尊敬し無い人が多ければ
主は其れでもいいのだろうか

心に曇りの無いことが最も幸せ

花を見ていると
なんだか素敵な明日が来るように思ってしまう
思うことはきっとかなう
日本はとても素敵になっていくだろう
どんな人がどういっても
日本人は日本を捨てないもの

少なくともチャコちゃん先生は
自分の場所からは離れない

つまりは唯我独尊ですから

今日は旧暦の花祭り
そうそう
きもの365日の日記を始めましたぞ
中谷比佐子 粋。モダン 検索ーーーね
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