チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 32

2018年10月12日 22時01分51秒 | 日記
奄美大島の組合長さんは私のうるさい質問に対して
大島の生き字引ともいわれている専務理事をあてがった
彼は本当によく丁寧に無知な私の質問に答えてくれた
そしてその後彼が亡くなるまで私達の友情は続いたのだ(厚かましいけど友情だわ)

一番大きな質問
紬糸を使っていないのに何故に大島紬というのか
の答えは
「大島紬の真髄をついてきたね」
が開口一番であった

ここ奄美大島は古代から織の産地として名を馳せていた
特に芭蕉布
「まてまてそれは何」
バナナの木茎や繊維を着物に使う、実の成る芭蕉ではない
芭蕉の山はいたるところで見受けられた

そういえば昨夜酔った男が私に
「バッちゃまつけるからよめもろて」
と歌いながら絡んでいたが
バッちゃまというのは芭蕉の山で不細工な女の子に芭蕉の山をつけるから嫁にもろうておくれ
という意味のようだ

「あらー私ブサイクなんだわね」
「気にしなさんななにかかまってみたかったんだわ」(気があるんだな(笑)きっと)
後にその絡んだ男がいろいろと便宜をお図ってくれるようになった

さて
奄美大島は山繭、苧麻、芭蕉、木綿、蚕の糸による手紡ぎの織物を作っていた
浮織とか綾織の美しい織物はインドや中国の職人たちから教わったものだという
そしてそれらの布の一部を見せてくれた

しかし奄美大島で黒糖が生産されるようになったら薩摩藩は織より黒糖に力を入れてややこしい浮織とか綾織を織っている手間の時間がなくなり
簡単な手くくりの絣柄が多くなったのだという

竜郷、今里、笠原、徳之島、喜界島とそれぞれの場所で独自の柄が誕生した
庶民は絹織物を着てはいけないという薩摩藩からのお触れのあとは芭蕉布とカラムシの布が主流になり
細かい絣の絹の布は輸出用として島の経済を担ったそうだ
桑や蚕に税金をかけたのも薩摩藩

島流しにあった西郷隆盛がその税金を外す運動をしてくれたのだという
だから島の人にとって西郷隆盛は恩人しかも産業の発展に知恵を出してくれた
「島の女に手を出した」みたいなことだったと思うがそれも大きく許したのだろう
むしろ島の人間として親しみを持ったのかもしれない

薩摩藩に牛耳られていた島民は
明治維新で開放され27年には絣締め機が完成されて今までの手くくりの絣から一気に同じ柄の絣が16反できるようになって大島紬は大量生産の道を歩むことになった

絣締め機には生糸が順応するのでこのときからつむぎ糸は使われなくなったという
ほとんど大島紬の歴史を聞いたようなもので染織資料を見せていただきながらの説明に納得した

「チャコいいかげんにぼつぼつデザインを決めようぜ」と編集長
そうでした  (つづく)


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