あらためて思う
108歳まで生きた天海和尚、家康の時代から家光の時までに江戸の風水を完成
あらためて江戸城に立つとそのすごさに驚愕する
風水の中で最も力を呼ぶ「四神相応」という配置がある。つまり北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎
京都の御所もこの配置で2000年栄えている。天海は天台宗で比叡山にいたので、この配置は骨の髄にしみわたっていたのだろう。
この配置は東西南北が崩れていてもよい、自分が座り顔を向けているところが朱雀、つまり目の前が広がっていればよい
机の位置などこの「四神相応」に倣うと落ち着くし、仕事も速やかに進む
「四神相応」が取れない場合は「背山臨水」でもいい。自分の背中を庇護し、前を広げる。戦国大名が座る位置は常に「背山臨水」であった。背中に屏風を立てていた大名も数知れず
江戸城の天守閣は背中は高尾山、前は東京湾、東に大川、西に富士山の流れをくむ大地。そして変化の激しい地に寛永寺、そのその気の通り道に増上寺で江戸の町の気を整え、更に平将門の兜や鎧、体の一部などを北斗七星で抑え、それらをまつる神社を建立、その上五色の不動明王を配置、目黒不動などその代表、その力によって、それぞれの場所に見張り番「見附」をおき、江戸の町に「魔」が入り込まないような配慮をした。
江戸が栄え、東京が中心になったのはうなずけるー--がいまこの配置が日々壊されている。東京から経済が文化が消えていく日も遠くない状況
何事も永遠ということはないので、其れもまた時代の移り変わりかもしれないと思う。そうやって人も時代も変わっていく、これがまた人間の営みなのであろう
ついでにあの江戸城の大奥跡は太陽が燦燦と照り付ける芝生になっていて、諸々のどろどろした女の戦いも、すべて光の中で穏やかに時が過ぎていた。松の廊下跡も今は鬱蒼とした樹木に覆われていた
それにしても、西郷南洲と勝海舟が救った江戸の町、お互いに敵視と勝海舟ていたら、フランスとイギリスの戦争の場になっていたやも知れぬ、風水の効力が300年は続いたのであろうか