宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

クンバカ ~ ヨーガ瞑想

2013年04月07日 | ヨーガ瞑想

ヨガの呼吸法のうち、「代表格」とされるのは、「呼吸をしないこと」、つまり止息。これは、逆転の発想かも。ダンサーに例えれば、「ボクは、最高の踊り方をマスターしました。それは、踊らずにジッとしていることなんです」というようなものだ。

でも、何時間も動かずにジッとしているのは、逆に難しくて、実は上級者むけのパフォーマンスだったりする。それと同じく、息を止めている「クンバカ」(止息法)も、実は難易度ウルトラC級の呼吸法なのだ。

というのも、インド人の修行者の、息の止め方が半端じゃない。顔が真っ赤になるなど序の口で、しまいには痙攣(けいれん)を起こし、泡を吹いてブッ倒れかねない。この「呼吸法」に恐れをなして、入門者が逃げ帰るほど。

お釈迦さまも、六年間の苦行時代には、このクンバカを猛烈に行じたことが知られている。あるときは、呼吸を止めすぎて、そのまま心臓も停止してしまい、神霊たちに「ゴータマは死んだ」と言われた•••。

もちろん、現代人は通常、そこまでやらない。ひとつには、古代インド人は、「酸素」を知らなかったこともあるだろう。「空気中には酸素があり、これがモノを燃やしたり、身体を動かす原動力なのだ」というのは、現代人にとっては科学常識だけど、これは意外と難しいことで、近代ヨーロッパ人がこれを発見するまでは、散々な試行錯誤が必要だった。古代人には、知るよしもない。だから、「呼吸」というものを、過剰に神秘化しちゃった面はあるだろう。

でも、それを現代の日本でもやる人はいる。個人的には、クンバカというと、どうしてもオウム真理教の「水中クンバカ」を連想してしまう。オウム真理教では、プールみたいなデッカい特設水槽に、人が入って、中で手すりにつかまってジッとしていた。今でも、ネットで動画を見ることができる。麻原彰晃に「お前が入れ!」と言われた井上嘉浩が、特設水槽に潜って手すりにつかまってはみたものの、すぐにギブアップして出てくる。「この、クン馬鹿ヤローッ!!」と尊師に怒鳴られた井上嘉浩は、「心臓が止まっちゃいました•••」と、文字どおり苦しい言い訳。

かつては、この水中クンバカがテレビに出て、「さすがは、オウム真理教。ムチャクチャやっとるな~」と、世間の一般人はアキレていたのだが、これはインドにもそういう伝統があるのは事実で、インド人はガンジス川に潜って息を止める。もちろん、ガンジス川とは限らず、どこの川や池でもいいんだけど、やっぱり聖なるガンジスに潜るのがベストだろう(笑)。だからと言って、それを現代の日本でやるというのも無理があるのだが•••。

そういう極端な例はさて置いて、通常のクンバカは、呼吸の合間にしばらく息を止めるだけの、無理のないものだ。

「なぜ、息を止めるのか」という疑問に対する答は、「息を、生命エネルギーそのものと見て神聖視していたインド人が、生命エネルギーを体内にたくわえようとしたから」というのは、もちろんなんだけど、それだけではない。それ以上に、「息を止めること」と、「精神を集中すること」とは、切っても切れない関係にある。

もともと、精神集中するときに息を止めるのは、日常生活でもアリガチなことだろう。スポーツでも、そういうことは、しょっちゅうだ。弓道みたいに、一瞬の緊張が極点に達する種目では、なおさらのこと。人は、集中すると、無意識に息を止めてしまう。呼吸をいかにコントロールするかに大きく左右されるのは、ヨガもスポーツも変わらない。

瞑想も同じだろう。筆者は、「雑念を排除して、集中力を強化する瞑想」(・・・こういうのを、サマタ瞑想と言います)が大好き。これをやっていると、気がついたら、息がしばらく止まってることがよくある。苦しくなって、初めて気づく。

もし、気づかなかったら、どうなるのか。そのまま、一足お先に昇天かなあ•••(怖)。

上に書いたような極端な例はともかく、通常のクンバカは、たとえば「右の鼻からゆっくりと息を吸い、そこで数秒間だけ呼吸を止める。そして、左の鼻からゆっくりと息を吐き出します」とか、「お腹をふくらませながら、ゆっくりと息を吸い込み、そこで数秒間だけ息を止める。そして、お腹を引っ込めながら、ゆっくりと息を吐き出します」とか、そういう感じ。呼気と吸気の間、しばらく息を止める程度なんで、ちっとも危険じゃありません。このブログ記事が誤解を招いたら申し訳ないので、付け加えておきます・・・。
 
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿