平成23年11月13日(日)我が八千代、快晴気持ち良いです。
午前中、我が団地のグリーンデーで樹木の剪定をしました。
さて本題です。
10月19日習志野ウオーク「秋山好古・騎兵の町を歩く」(産経新聞社主催・習志野市教育委員会後援)に参加しました。その2です。
秋山好古は、司馬遼太郎著「坂の上の雲」の主人公で、日本騎兵の父と呼ばれていました。連合艦隊参謀の秋山真之は実弟です。
船橋市営の習志野霊園です。かっては習志野陸軍墓地と呼ばれていました。
やすらぎの木です。
霊園の奥に旧日本軍、第一次世界大戦のドイツ軍捕虜、日露戦争のロシア軍捕虜の戦没者慰霊之碑や墓石があります。手前の碑は、記念碑です。正面の碑~日本軍人戦没者慰霊之碑 左~ドイツ軍戦没者慰霊之碑 右~ソ連軍人戦没者慰霊之碑です。
日本軍人戦没者慰霊之碑です。日本軍騎兵の墓もありました。
民間の方の墓に建立されていました。
明治天皇が「草も生えないくらい演習している様」を詠まれたお歌です。(明治20年)
明治天皇は、明治6年習志野原で行われた近衛兵の演習を御統監されておられます。(詳しくは後述)
この日のメーン陸上自衛隊習志野駐屯地です。「精鋭無比」と称えられる第一空挺団の本拠地です。
自衛隊の方の案内で駐屯地内を見学しました。
軍馬慰霊之碑です。第二代騎兵学校長秋山好古の直筆です。
当時は、騎兵学校西外柵にあったそうですが、現在の場所に移設されました。
空挺資料館です。東北大地震の際、建物が壊れ改修工事がおこなわれていました。
この建物は、明治天皇の「御馬見所」として明治44年東京目黒の騎兵学校に建てられました。大正5年騎兵学校が習志野に移転した際、移築され迎賓館として使用されていました。現在は、空挺館と呼ばれ第一空挺団のシンボルとなっています。
この日は、肌寒い日でしたが隊員の方が上半身裸で訓練に励んでおられました。
高さ83mの降下塔です。
C1訓練台で訓練が行われていました。習志野駐屯地では、毎月C1輸送機からの降下訓練が行われています。我が家からも見ることが出来ます。
この建造物も降下訓練の施設です。高さ11m:人間が最も恐怖心を抱く高さです。この塔から何度も飛び出して訓練を行い恐怖心を克服するといいます。オリンピック日本代表選手も精神力を高めるため降下訓練に挑戦するそうです。
小生、このことを知っていましたので、案内の自衛隊員の方に聞いてみました。この方は、83mの降下塔の方が怖かったそうです。
この後、駐屯地の売店で買い物や休憩をしました。
売店そばにある軽装甲機動車の駐車場になぜか猫がいました。
空の神兵之像です。
元になった像は、日本美術会員彫刻家の古賀忠雄先生が昭和17年大東亜戦争美術展に於いて朝日新聞社賞を受賞した名作「天降る像」です。
習志野駐屯地付近は、陸軍騎兵学校があった場所で、その歴史を記念して日本騎兵之碑が建立されたそうです。 習志野駐屯地の所在地は、船橋市薬円台です。習志野市でも、船橋市習志野・習志野台でもありません。
かって、習志野原と呼ばれ陸軍の演習場となっていたことから名付けたのでしょうか・・・
これで習志野駐屯地の見学は終わりました。
駐屯地前の船橋市郷土資料館にあるD51機関車です。
上写真D51の後方すぐの所に明治天皇駐蹕之處碑(「元帥陸軍大将 公爵 山縣有朋謹書」と刻まれています。)があります。(薬円台公園内)
習志野は江戸時代幕府直轄の馬の放牧場でした。当時は「下総国大和田原」と呼ばれていました。
明治6年4月30日近衛兵(長州、薩摩、土佐の兵2800人)の演習がこの原で行われました。前夜荒天でしたが明治天皇は演習地の幕舎に野営、翌日の演習を天覧されました。演習を指揮したのは薩摩の篠原国幹でした。明治天皇は、篠原の見事な指揮に感銘を受けられ「見習え、篠原に」との意味(習篠原→習志野原)をこめて「習志野」と命名されたと伝えられています。
この後、新京成線習志野駅前まで歩き午後5時過ぎ解散しました。
我が家近くの習志野が、あの「坂の上の雲」の主人公秋山好古のゆかりの地とは知りませんでした。