谷風便り

つれづれなるままに
よしなし事を、書きつづります

ふるさと(呉市)を訪れました(大和ミュージアム)

2010年11月28日 13時16分57秒 | Weblog
 平成22年11月28日(日)我が八千代、穏やかに晴れています。
 小生、風邪のため自宅ひきこもり中です。皆様もどうぞご自愛下さい。
さて本題です。
 11月5日呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」(呉市宝町5-20所在)へ行きました。大和ミュージアム海側大和波止場から撮った呉湾です。


 大和のふるさと:この造船所で大和が建造されました。(同じく大和波止場から望遠レンズで撮影しました。)


 この建物が大和ミュージアムです。早朝に撮った写真です。


 入館するとすぐそこに世界最大の戦艦「大和」の模型があります。


 「大和」進水式(昭和15年8月8日)の写真です。
 神職をしていた父親から進水式のお祓いをしたと聞いたような記憶があります。
 父親が勤めていた亀山神社は、呉市の氏神様です。
 亀山神社のホームページには~呉鎮守府開庁以来、歴代司令長官は、着退任の際報告祈願に参拝、また港の出入の艦船の将兵もまたその都度参拝、航海安全武運長久を祈願する慣習が終戦時まで続いた。~と記載があります。お祓いした可能性はあると思います。


 左上は、戦艦「大和」竣工後関係者に配られた、皇紀2600年記念の有田焼の「風鎮」です。橿原神宮と皇居二重橋が描かれています。
 右下は、戦艦「大和」進水記念「湯呑」です。記念品として配られる予定でしたが、機密保持のため配布が禁止されたそうです。しかし関係者が持ち帰っていました。



 全長26.3メートル、10分の1の戦艦「大和」です。


 伊号第401潜水艦です。~呉海軍工廠の潜水艦技術の粋を集め建造された「伊400潜」の2番艦です。アメリカ本土攻撃用の特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載し、海底空母といわれました。南太平洋のウルシー泊地を攻撃途中終戦を迎えました。昭和35年にアメリカの原潜「イーサンアレン」が建造さえるまで世界最大の潜水艦でした。~


 山本五十六元帥の絶筆です。達筆で小生には、読めません。


 左上「東郷平八郎が愛用していた海中時計」です。
 右下「呉海軍工廠刻印入りのアルミ製弁当箱」です。


 左上~89式飛行艇、右下~91式飛行艇です。皇紀2589年(昭和4年)の下二桁から89式と名付けられています。


 左上~艦上爆撃機「彗星」です。
 右下~局地戦闘機「紫電改」です。


 原子爆弾が広島に落とされた時の写真です。呉市から撮ったものと思います。
 原爆で従兄が命を落としました。


 特殊潜航艇「海龍」(後期量産型)です。


 特攻兵器「回天」十型(試作型)です。回天は、人間が魚雷を操縦しながら、目標とする艦艇に体当たりする特攻兵器で、「人間魚雷」と呼ばれていました。


 多聞隊として伊号第366潜水艇で出撃、突入した成瀬謙治中尉(戦死後、少佐、海兵73期)の辞世です。


 零式艦上戦闘機六二型です。皇紀260年(昭和15年)に正式採用したから式と名付けられています。


 大和ミュージアム海側にある芝生広場です。犬が海に向かって歩いています。

 ミュージアムで買ったパソコンのマウスパッです。
 五省(ごせい)とは、江田島の海軍兵学校において、生徒がその日の行いを反省するため自らへ発していた5つの問いかけのことです。
 太平洋戦争後占領したアメリカ海軍の幹部が五省の精神に感銘を受けてアナポリス海軍兵学校に英訳文を掲示したそうです。海上自衛隊などでも日々の行動を自省する標語として用いられているといいます。


 電車に乗る時間が迫っていたので、駆け足で見学しました。もう一度機会があればゆっくり見学したいと思います。
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ふるさと(呉市)を訪れました(谷風山淨光院・二河峡)

2010年11月24日 10時47分50秒 | Weblog

 平成22年11月24日(水)、我が八千代、晴れてきました。
 散歩道の山茶花も咲き始めました。
さて本題です。
 11月3日~5日「ふるさと呉市」へ帰りました。
 住む人もいない実家のある二河峡の入り口です。子供のころ正面の山へ朝早く母親と松茸取りに行きました。毎日竹籠に一杯取りました。学校の弁当のおかずは、毎日松茸でした。(もっと美味しいものがほしかったです。)
 左側のカーブのあたりは、さびしくて幽霊がでるとの噂が立ち青年団の方が見回りをしました。


 呉駅から実家へ帰るときタクシーの運転手さんに「二河峡の赤い橋のところ」で通じます。正月には、この橋の上から凧を揚げました。橋の名前は上二河橋と思います。川は二河川です。卒業した学校の校歌一節にもありました。
 左に桜の木が写っていますが、小生が上京する前の年(昭和33年)植えられたものです。(桜並木になっています。)


 赤い橋の上から撮りました。我が家は、左方にあります。この川で鯉、鮒、ハヤ、ウナギなどを取りました。釣るのはハヤだけで、鯉などは潜ってヤスで突くのです。
 子供のころ、鮒は釣れない魚と思っていました。今思えば、ヘラブナはミミズでは釣れないのです。(植物食)


 実家前から写しました。この景色はほとんど変わっておりません。戦争中は、ここに木橋が架かっていました。空襲の際は、その橋を渡って対岸の防空壕に逃げていました。
 また、この堰堤の上は、「ラムネ」と呼び子供たちが泳げる場所がありました。今は、豪雨等で様子が変わり泳げる状況ではありませんでした。


 我が「谷風便り」の原点である「谷風山淨光院」です。亡き兄が建立、平成4年4月5日落慶法要が行なわれしました。そして、同年4月18日「谷風便り」第1号を発行しました。谷風便りは、B4用紙に手書きで記載しガリ版印刷していたのです。
 後方の山で松茸が取れました。


 淨光院の天井にはめ込まれた絵です。絵を描かれたのは、兄の親友で院展にもたびたび入賞されている方です。
 「谷風便り」1号に山号の由来として
 ~「こくふう」と読みます時は、「たにかぜ」とは別に、「東風、・こち(はるかぜ)」の意味があり、実りをもたらす快く期待される風のことだそうです。そのように観音様も喜びと励ましを恵まれますようにとの願いから、山号を「谷風山」といたしました。~
と記しています。


 天井画は、60枚あります。
 谷風便りの内容は、「家族のこと・子供の時のこと・仏様のこと・その他もろもろ」です。第70号(平成10年2月9日)が最後となりました。その号のお知らせ欄に「2月中旬再入院しますので今号も早く発行します。」と記載されています。(毎月18日に発行していました。)


 実家から徒歩10分ぐらいのところにある二河峡公園です。橋の脇には、水源地から呉市に運ぶ水道の鉄管があります。子供のころ鉄管橋と呼んでいました。
 はだしでこの橋を渡り山を越えて「湯たんぽ」へ泳ぎに行きました。


 子供のころ、こんな案内板はありませんでした。


 橋の傍から写しました。巨岩がいっぱいあります。この先に男滝・女滝があるのですが疲れてそこまで行けませんでした。


 上の写真の一部を大写ししました。
 ここは、「サイダー」と呼び泳げる場所でした。同級生を連れてきては、潜って滝のように流れ落ちる岩の裏側に隠れ心配させて喜んでいました。
 その他泳げる場所は、「ミカン水」「湯たんぽ」などがありました。戦争直後ですね、飲み物の名前がついていました。


 二つ上の写真の右上に写っている岩を大写しました。この岩の上から呉市が一望できます。岩の上に乗ると怖かったです。この傍でも松茸が取れました。


 上の橋を渡ったところから二河峡公園を写しました。ここは、第6回国体(広島:1951年)の射撃会場でした。


 今回は、実家の家財道具の整理に行きました。間もなく人手に渡ると思います。
 淨光院もそのうち更地になり人手へ・・・その時は、もう一度帰る予定にしています。

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増上寺へ行きました

2010年11月21日 11時09分31秒 | Weblog
 平成22年11月21日(日)我が八千代、晴天で暖かいです。
さて本題です。
 11月13日東京タワーへ行く途中、すぐ傍にある増上寺(港区芝公園4-7-35所在)へ寄りました。このお寺は浄土宗七大本山の一つだそうです。
 大門です。いわゆる総門、表門です。今の門は、昭和12年に造られたコンクリート製です。港区大門の地名にもなっています。
 道路の突き当たりに三解脱門が見えます。


 三解脱門(三門)です。都内最古の建造物で、このお寺の中門です。元和8年(1622年)徳川家康の助成で建立されました。国の重要文化財に指定されています。
 三解脱門とは、三つの煩悩「(むさぼり)、(いかり)(おろかさ)」を解脱する門のことだそうです。
 小生、この門を通りませんでしたが、三門をくぐったとしても解脱できるような人間ではありません。


 三門をくぐると大殿があります。
 昭和49年再建されたそうです。東京タワーが左に曲がっているように写っていますが、まっすぐ立っていました。
 わずかなお賽銭で多くのことをお願いいたしました。


 安国殿です。
 七五三の法要が行われておりました。


 鐘楼堂です。戦後の再建です。大梵鐘は延宝元年(1673年)に鋳造されています。江戸三大名鐘(上野寛永寺・浅草浅草寺)の一つだそうです。
 「花の雲鐘は上野か浅草か」芭蕉の句にあります。増上寺の鐘は、深川の草庵では聞こえなかったのでしょうか。
 


 増上寺は、徳川家の菩提寺です。
 徳川将軍家墓所の門です。この門は、旧国宝で「鋳抜門」と呼ばれ、左右の扉に5個づつの葵紋、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。
 墓所には、2代将軍秀忠公はじめとして6人の将軍の他、側室、子女多数が埋葬されているそうです。


 西向観世音です。
 子育て、安産に霊験あらたかといいます。



 千躰子育地蔵です。
 子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されているそうです。


 同じく千躰子育地蔵です。


 東京タワーの展望台から写しました。黄砂のためビル群が霞んで見えます。


 現役のころ、増上寺三門前を車でよく通りましたが境内に入るのは初めてでした。

 東京タワーについては、後日掲載します。

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ふるさとを訪れました(呉市:呉湾:てつのくじら館)

2010年11月17日 13時24分40秒 | Weblog

 平成22年11月17日(水)我が八千代、冷たい雨が降っています。
 小生、風邪をひき自宅ひきこもり中です。どうぞご自愛ください。
さて本題です。
 11月3日~5日ふるさと呉市を訪れました。
 呉駅です。昭和34年上京した当時の面影は、全くありません。呉線が単線なのは変わっていませんが・・・。


 灰ヶ峰(はいがみね)と堺川です。
 灰ヶ峰は、川の真正面の山です。標高は、呉市の郵便番号上3ケタと同じ737mだそうです。歩いて登るのは大変ですが、車で頂上まで行くことが出来ます。戦争中は、砲台がありました。展望台から見る夜景は、素晴らしいようです。卒業した片山小学校の校歌の中にも灰ヶ峰が出てきます。
 堺川は、呉市(旧市内)のほぼ中央を流れています。子供のころ母親と撮影場所付近で貝堀りしました。


 呉湾です。前の島が海軍兵学校のあった江田島です。


 大型コンテナ船NYK ALTAIR(105.900トン)です。呉の造船所で建造され9月に日本郵船に引き渡しが終わっているそうです。


 山のすぐ前の建物が、卒業した広島県立呉三津田高校です。校舎は、新しくなっています。


 卒業した片山小学校ですが、少子化のため廃校になり更地にしている最中でした。残念です。 後方の山が灰ヶ峰です。


 呉史料館「てつのくじら館」に展示されている潜水艦「あきしお」です。


 「あきしお」は、昭和60年に進水(三菱重工神戸造船所で建造)した「ゆうしお」型潜水艦です。海上自衛隊でさまざまな任務を遂行。平成16年3月除籍。同11月に日本最大の起重機船(クレーン船)に引き上げられ、呉史料館に展示されたそうです。


 「あきしお」の操舵室です。


 潜水艦での食事です。夜食と朝食です。


 中間食(夕食)と昼食です。


 海上自衛隊の掃海管制艇~MCL727さくしま、MCL728いえしま~です。


 こちらも海上自衛隊の艦艇です。クレーンの乱立しているところが造船所です。


 どの写真を見ても山が写っています。旧市内は、三方が山です。
 「ふるさと呉」の写真は、機会をみて後2回掲載する予定です。

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八千代菊花展へ行きました

2010年11月14日 11時40分21秒 | Weblog

 平成22年11月14日(日)わが八千代、曇り空です。
 上京して50年、昨日初めて東京タワーへ行きました。後日、掲載します。
さて本題です。
 11月8日飯綱神社(八千代市萱田476所在)で開催されている第46回八千代菊花展を見に行きました。


 菊花展会場です。後方は、飯綱神社の鐘楼です。


 妙義山(松井田より望む)の盆景です。


 反対方向から写しました。


 大菊切花単花です。各種大菊を一輪挿しにして単花で競います。
 よく枯れないものです。


 優等作品です。


 盆養(大菊3本仕立て)です。
 厚物、管物で鉢の大きさが違い、高さも決まっているようです。最も基本的な大菊の仕立て方といいます。


 優等作品です。左上・右下が管物で、右上・左下が厚物と思います。


 盛花の部です。生け花のような作品です。枯れないように工夫してあるのでしょう。


 優等作品です。


 懸崖です。
 磯菊が断崖の上から垂れ下がっているように見えるのでこの名がついたそうです。
 各枝は、一本の幹から出ています。  


 綺麗で見事な作品ばかりでした。
 大菊切花単花・盆景などという名前は、すべてインターネットで調べて記載しました。誤りがあればご指導下さい。

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安芸の宮島へ行きました

2010年11月10日 13時15分13秒 | Weblog
 平成22年11月10日(水)我が八千代、快晴です。
 早朝我が散歩道では、富士山・筑波山が見えました。
 午前中、囲碁の例会に参加しました。成績はでした。昼食は、美味しかったです。
さて本題です。
 11月3日故郷呉市へ帰る途中、宮島へ行きました。
 宮島口桟橋からJR西日本のフェリーで宮島へ渡る途中、船上から写しました。
 「世界文化遺産の厳島神社」と大鳥居です。左に写っている瓦屋根の建物は千畳閣です。



 他社の連絡船(フェリー)です。約10分で宮島へ着きました。


 宮島には、鹿が沢山います。


 丁度潮が引いていましたので、大鳥居の傍まで行くことが出来ました。


 厳島神社です。
 厳島神社の管弦祭の時、神主であった父が呉市から船で出かけていました。どんな役割をしたか分かりませんが・・・


 後方に写っているのは、五重塔千畳閣です。


 五重塔です。


 厳島神社では、七五三のお祓いをしておりました。


 厳島神社の渡り廊下から写しました。


 宮島ロープウエーで、宮島の主峰「弥山(みせん:標高535m)」の獅子岩駅まで行きました。この駅から山頂へは、歩いて約30分の道のりだそうです。 


 獅子岩駅傍の展望台から瀬戸内海の島々を写しました。
 小生の卒業した高校では、毎年呉市から船で宮島へ行き、紅葉谷公園で開校式を行いました。その後、全校生が弥山へ登りました。かなりきつかった記憶があります。


 同じく展望台から望遠レンズで写しました。広島市では?


 千畳閣です。


 樹齢200年の龍髯(りゅうぜん)の松です。横に長く伸びていますが一本の松です。


 別の角度から龍髯の松を写しました。


 宮島口への帰り船から写しました。


 JR宮島口の桟橋です。


 宮島観光を終わり、故郷呉市に向かいました。

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印旛新川に架かる橋 その5(最終回)

2010年11月07日 11時37分52秒 | Weblog

 平成22年11月7日(日)我が八千代、晴れてきましたです。
 ここ数日暖かい日が続いていますが、暦のうえでは今日から冬です。
さて本題です。
 印旛新川に架かる橋を昨年夏から撮影しています。
 印旛沼から大和田排水機場までの橋を順次掲載しています。
 今回は、村上橋東葉高速鉄道新川橋梁新川大橋なかよし橋です。


 村上橋です。村上の地名からとったものと思います。


 新川と村上橋・なかよし橋は、房総の魅力500選に選ばれています。


 この付近、桜の季節には多くの花見客で賑わいます。


 村上橋の上にあるブロンズ像です。左上が「太陽」右下が「」と名付けられています。近年は、ブロンズ像の汚れがひどかったのですが今年綺麗になりました。千葉国体が開催されたためでしょうか・・・

 村上方向を写しています。


 村上橋の上から印旛沼(ゆらゆら橋)方向を写しています。


 大和田排水機場(新川橋梁)方向を写しています。


 東葉高速鉄道新川橋梁です。その向こうの橋が村上橋です。


 電車が村上駅方向へ進行しています。


 新川大橋です。


 新川で一番大きな橋なので新川大橋と名付けられたのでしょうか。


 八千代市役所方向を写しています。


 なかよし橋です。吊り橋です。


 ご覧のように歩行者・自転車専用です。


 橋の上には、カブトムシやトンボが描かれています。


 なかよし橋から印旛沼方向を写しています。新川大橋・新川橋梁・村上橋・ゆらゆら橋が見えます。


 新川大橋の上から大和田排水機場方向を写しています。写っている橋がなかよし橋で、その先が大和田排水機場です。ここまでが印旛新川で、機場の先は花見川です。花見川は東京湾に流れ込んでいます。


 元気でいれば10年後(小生傘寿になっていますが・・・)同じ場所で写真を撮り、比べてみたいものです。 

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印旛新川に架かる橋 その4

2010年11月02日 09時38分08秒 | Weblog

 平成22年11月2日(火)我が八千代、久しぶりの快晴です。
 今朝、我が散歩道から富士山を見ることが出来ました。山頂付近に雪をかぶっていました。
さて本題です。
 印旛新川に架かる橋を昨年夏から撮影しています。
 印旛沼から大和田排水機場までの橋を順次掲載しています。
 今回は、宮内橋ゆらゆら橋です。 


 宮内橋を飯綱神社から撮りました。
 この橋を渡って行くと七百餘所神社があります。神社近くのバス停の名前は、「宮内」です。神社の隣に「宮内公会堂」もあります。神社の宮内だからでしょう。


 アップで写しました。
 この橋名前は、七百餘所神社の宮内からとったのでしょうか、それともこの写真を撮った飯綱神社の宮内からとったのでしょうか。


 近くから宮内橋を撮りました。

 七百餘所神社方向を撮っています。


 宮内橋の上から印旛沼(城橋)方向を撮りました。


 大和田排水機場(ゆらゆら橋)方向を撮りましたです。
 右方は、ゆりのき台のビルです。


 ゆりのき台のビル群です。ゆりのき台は、東葉高速鉄道の開通で開けた街です。


 ゆらゆら橋です。


 ご覧のように吊り橋です。ゆらゆら揺れることから名付けられたのでしょう。歩行者専用の橋です。


 毎年こどもの日には、こいのぼりが揚げられるます。


 ゆらゆら橋の上から宮内橋方向左岸を写しました。


 同じく印旛沼(宮内橋)方向を写しました。


 大和田排水機場(村上橋)方向を写しました。村上橋の向こうの高い橋は、東葉高速鉄道新川橋梁です。

 元気でいれば10年後(小生、傘寿になっていますが・・・)同じ場所で写真を撮り、比べてみたいものです。

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