きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

資本主義の病巣 日本をカットした日産④ 組合つぶす「暴力工場」

2019-01-25 13:11:09 | 経済・産業・中小企業対策など
資本主義の病巣 日本をカットした日産④ 組合つぶす「暴力工場」
2017年9月に日産自動車で資格のない検査員が完成検査に従事していた問題が発覚しました。
完成検査員は法令違反を認識した上で不正を黙認していました。西村あさひ法律事務所がまとめた検査不正に関する報告書(17年11月)は、労働者が声を上げられない職場環境が背景にあると指摘しました。
「多くの完成検査員が『内部通報すると、報復される可能性があると思った』などと述べている」
日産は、労働者の権利を求めてたたかう労働組合を徹底的に弾圧してきました。その結果、労働者が声を上げられない職場が作られました。



日産村山工場の閉鎖の中止を求めてJMlU日産自動車支部が開いた集会=1999年12月23日、東京都武蔵村山市の村山工場近く(同支部の境繁樹さん提供)

30分も罵声浴び
歴史はさかのぼります。
1967年1月初旬。入社4年目の坂ノ下征稔(さかのした・まさとし)さんが日産の荻窪工場で働いていたときでした。
昼休み前、自分の机で仕事をしていると突然、30~40人の従業員に囲まれました。「やめろ」「出ていけ」―。組合員として活動することを責める罵声を浴びせられました。30分間続き、昼食はとれませんでした。約1カ月間続きました。
全日本金属情報機器労働組合(JMIU)日産闘争支援共闘会議が91年に作成した冊子は、当時の弾圧の様子を記しています。
「1967年年頭から、日産の各工場は『暴力工場』と化しました。昼休みおよび定時後、第二組合幹部を先頭に数十名の労働者が組合員を取り囲み、口々に罵声を浴びせ、足を踏む、蹴飛ばす、体当たりをする、ひどいところでは押し倒すなど暴力のかぎりをつくしました」
65年5月末。日産自動車とプリンス自動車工業の合併が発表されました。「国際競争力」を高める目的で通商産業省(経済産業省の前身)が直接日産に指導して進めました。
合併時に問題となったのは労組の運動方針の違いでした。プリンス自動車の労組は伝統的な「たたかう労組」。一方、日産労組の成り立ちは、当時ストライキなどを行う第一組合をつぶすために会社が作らせた第二組合です。代表的な「労使協調」の組合でした。
62年3月には追浜工場に労使協調を象徴する碑が建てられました。その名も「相互信頼の碑」。碑文には次のように刻まれています。
「闘争の嵐が吹きすさぶ憎しみの泥沼には、幸福の『青い鳥』は飛んでこない」
「労使の相互信頼、それこそが日産の源泉であり誇りである」
日産労組は、労使協調路線へのくら替えをプリンス労組に要求。断ると組合員への差別や集団暴力の嵐が巻き起こりました。
元組合員の須藤新一郎さん(78)も被害者の一人です。昼休みに約50人に囲まれ、「やめろ」「ウジ虫」と罵倒されました。日産と関係のある親戚が父親を訪ね、「息子の将来はない。やめさせろ」と脅しました。

検査不正重なる
JMIU日産自動車支部委員長としてたたかった坂ノ下さんは指摘します。「組合をつぶすことで『逆らっても駄目だ』という風土が作られた」
「たたかう労組」を弾圧して作り上げた組織風土を利用してリストラを強行したのがゴーン被告でした。
1999年。ゴーン被告の手によって発表された「リバイバルプラン」は村山工場閉鎖の同意をとりつける目的で、一部の労組幹部だけに発表前に説明されました。工場労働者や地域住民にはプランをひた隠しにし、JMIU支部との事前協議には応じず差別的な対応をしました。労働者の声を聞かない風土の弊害は、度重なる検査不正となって現れました。労働者が築いた日産ブランドの失墜をもたらしました。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月23日付掲載


「労使の相互信頼」とはよく言ったものです。いわゆる「労使協調」労働組合。会社の経営方針を労働組合が肩代わりして組合員に宣伝する。
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資本主義の病巣 日本をカットした日産③ 工場閉鎖で狂った人生

2019-01-24 13:44:39 | 経済・産業・中小企業対策など
資本主義の病巣 日本をカットした日産③ 工場閉鎖で狂った人生
JR立川駅からバスで約20分。住宅街の中に突如、広大な空き地が現れます。2001年に閉鎖した日産自動車の村山工場跡地です。
東京都武蔵村山市に位置し、広さは約140ヘクタール。東京ドーム29個分です。閉鎖前には約3千人の労働者が働いていました。スカイラインやローレル、マーチなどの人気車を世に送りだしました。

怒号がとび交う
正門跡地を眺める元労働者の内野操(みさお)さん(77)。
「ここで閉鎖反対のビラを配りました。閉鎖で辞めざるを得なかった人はどれだけ悔しかったか」
1999年10月18日。村山工場では、すべての労働者がモニター画面の前に集まるよう指示されました。経営危機に直面する日産ヘルノーが送り込んだカルロス・ゴーン前会長が映し出され、「リバイバルプラン」を発表しました。
「村山工場での車両生産を2001年3月に中止します」
「ふざけるな」「畜生」。社内放送を聞いた労働者から怒号がとび交いました。
まさか村山工場が閉鎖されるとは―。予想外の発表に境繁樹さん(76)は混乱しました。村山工場は主力車種を生産し、都心に近い好立地でした。「他の工場も人が余っているはず。村山工場の労働者を受け入れられるのか」。胸を締め付けるような不安に襲われました。
リバイバルプラン発表後は、製造中の車のフロントガラスが割れたり、車体がへこんだりする事件が起きたといいます。
「長年働いた労働者にとって工場閉鎖は衝撃だったのだと思います」
当時、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)日産自動車支部委員長だった坂ノ下征稔(さかのした・まさとし)さんは振り返ります。



スカイライン発祥の地の碑の前で語る内野さん=東京都武蔵村山市


日産自動車の村山工場跡地近くの店舗=東京都武蔵村山市

退職や異動で…
工場閉鎖によって退職や単身赴任、長時間の通勤を余儀なくされました。
境さんは座間事業所(神奈川県座間市)に転勤を命じられ、通勤時間は2時間半になりました。午前6時半に家を出て、帰宅できるのは午後9時でした。家族と一緒に食卓を囲むことはできなくなりました。
日産リストラ対策現地闘争本部の資料によると、リバイバルプランで退職を余儀なくされた人は520人以上。異動先は栃木工場(栃木県上三川町)が1010人、追浜工場(神奈川県横須賀市)が710人、座間事業所が117人でした。多くの労働者の人生が狂わされました。
工場閉鎖は地域経済にも大打撃を与えました。“日産通り”と呼ばれ、栄えた正門前にある都道55号線。空き店舗が目立ち、かつての面影はありません。
村山工場跡地の近くで中華料理屋を営む女性(70)は「寂しいですね」と顔を曇らせます。周辺には酒屋やすし屋などが軒を連ねていましたが、今はほとんどありません。工場閉鎖で売り上げが10分の1に落ち込みました。
「30年間店を続けたけど、そろそろ閉めようかと考えています。悔しい」
購買コスト20%削減、2万1千人の従業員削減などの目標を掲げたリバイバルプランは、1年前倒しで達成されました。人員削減は2万9千人と超過達成しました。坂ノ下さんは声を振り絞っていいます。
「ゴーンの目に労働者は映っていなかった。労働者や下請けを犠牲にして、利益をあげることだけを見ていた」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月22日付掲載


日産の村山工場の閉鎖。140ヘクタール、東京ドーム29個分の敷地。約3千人の労働者が、転勤、長距離通勤、退職に。
とばっちりをうけたのは、労働者だけではない。地元の業者もお得意さんがいなくなって、営業が大変。
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資本主義の病巣 日本をカットした日産② 膝腰痛め2度の解雇

2019-01-23 13:01:38 | 経済・産業・中小企業対策など
資本主義の病巣 日本をカットした日産② 膝腰痛め2度の解雇
「ぼろ雑巾のようにされました」
日産自動車横浜工場で働いていた岡田知明さん(44)はゴーン流人減らしの暴風雨に襲われた一人です。

体に大きな負担
派遣社員として働き始めたのは2004年9月。主な仕事は「持ち回り」でした。5キロ近い部品を両手に持ち、溶接機械に運んで設置する作業です。小走りで1日に10キロメートル移動し、足の裏や膝に痛みが走りました。
溶接した部品をクレーンに設置する作業にも携わりました。重さ20キロ超の部品を1・6メートルの高さまで持ち上げ、腰に大きな負担がかかりました。
忙しい時は朝8時から12時間働きました。仕事を極めたい。毎朝6時半に出勤し、生産計画などを頭にたたき込みました。疲れ果て、休日は寝て過ごしました。仕事ぶりが評価され、課長表彰を何度も受けました。
07年9月。工長に呼び出されました。「試験を受けて正社員にならないか」。自分が認められた―。二つ返事で引き受け、束の間の達成感に浸りました。
体はすでにぼろぼろでした。痛む腰や膝。湿布や塗り薬、鎮痛剤でごまかしていました。「正社員の話が白紙になるかもしれない」。けがを工長に報告できませんでした。



岡田さんが勤めた日産横浜工場の申し送り帳

いじめの指示も
「使えない」と判断された人はいじめられて追い出されていました。「少し厳しくしてやめてもらってもいい」。派遣社員へのいじめを上司が社員に指示する姿も見ました。昼休みに突然辞めた派遣社員は社内で「脱走者」と呼ばれました。
しかし、過労にきしむ身体の痛みは限界を超えていました。階段を上るのもつらくなり、タクシーで通勤するようになりました。
08年2月中旬。在庫に余裕があると聞き、休養をとりました。
通院すると「こんなになるまでなぜ我慢したのか」。
医師に叱られました。右ひざ関節炎、腰椎椎間板症(ようついついかんばんしょう)、足底腱膜炎(ていそくけんまくえん)。診断書に三つの病名が記載されました。療養後、工場に向かうと契約解除を告げられ、抗議は通じませんでした。
足の裏の刺すような痛みは完治しません。でも生活しなければ―。派遣先から紹介された日産車体湘南工場(神奈川県)で働きました。リーマン・ショックを口実に09年3月に再び解雇されました。
日産で派遣切りにあった4人と、正社員化を求めて裁判をたたかっています。ゴーン被告のニュースを見ると怒りが込みあげます。
「隠した役員報酬は90億円だと言われています。信じられない。年収300万円の労働者を何人雇えるのか」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月21日付掲載


日産でも、アマゾンの配送倉庫での過酷な肉体労働の様なことが行われていたのですね。
労働者を育てるのではなく、即戦力にならないと切り捨てる体質ではダメです。

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資本主義の病巣 日本をカットした日産① 「死ぬ気でやれ」と叱責

2019-01-22 13:22:35 | 経済・産業・中小企業対策など
資本主義の病巣 日本をカットした日産① 「死ぬ気でやれ」と叱責
1月1日午前0時。除夜の鐘の音が東京拘置所を包みました。外気は冷たく、気温は3度。面会所出入口の前を、初詣に向かう住民が歩いていきます。「カリスマ経営者」と持ち上げられた日産自動車のカルロス・ゴーン前会長はそのとき、拘置所の単独房で年を越しました。
前会長の逮捕、起訴。社史に類例のない大事件に日産は揺れています。



カルロス・ゴーン被告が年を越した東京拘置所=1月1日午前0時、東京都葛飾区

1日12時間働く
「コストカッター」の異名をとるゴーン被告がカットしたのは日本でした。日本の労働者を減らし、日本の工場を閉鎖していきました。人員が減った工場の労働環境は凄惨を極めるようになりました。
「最近玉の出(生産効率)が悪い。死ぬ気でやって下さい」
「2、3人死んでもいいので頑張って」
業務状況を共有するための「申し送り帳」に日産横浜工場の工長(作業責任者)や班リーダーは悲鳴のような叱咤激励を書き記しました。岡田知明さん(44)も、生産目標を達成できない日には決まって「死ぬ気でやれ」と叱られました。腰と膝を壊して階段を上るのもつらくなり、派遣切りのストレスで睡眠薬を手放せなくなりました。
2004年9月から3年半、派遣社員として働きました。車の足回りの製造ラインで溶接設備に部品を設置するのが仕事でした。
繁忙期の労働時間は1日12時間に及びました。ノルマを達成しないと帰れない。休憩時間はかろうじて水分補給ができる程度しかとれず、座ることもできませんでした。

機械で指を切断
08年には従業員が指を切断しました。ラインを流れる不良品を取り除こうとして機械に手を挟んだのです。
「とんでもない騒ぎになっている」
当時の申し送り帳は現場の動揺を伝えています。ラインを止めてから不良品を処理するという原則を逸脱したのが事故の原因でした。「時間のロスを恐れたのでしょう」と岡田さんは指摘します。
ゴーン前会長が追求したのは「株主資本主義」でした。人件費を中心に「コスト」を削減し、増えた利益を株主に回す、株主最優先のやり方です。経営者兼株主として自ら利益をむさぼったゴーン前会長は今、被告の立場に転落しました。労働者と下請け企業が血と汗で築き上げた「日産ブランド」を地に落としました。
「検査不正やゴーンの問題で、日産の信用は失墜してしまいました。労働者をもの扱いして人減らしをしたのは大失敗です」。岡田さんは静かに語ります。
2008年2月に雇い止めされるまで3年半。岡田知明さん(44)が勤めた日産自動車横浜工場に安全管理という発想はありませんでした。危険と隣り合わせの日常でした。
08年の申し送り帳には火災を報告する複数の記述が残っています。
「朝からダクト焼け消火器2本使用で大騒ぎ」
「煙上がりました。火元わからず」
溶接設備からは有毒なガスや油を含む煙が出ます。しかし、有毒ガスを外に逃がすダクトや溶接設備の周辺にはスプレー缶、油などの可燃物が散乱していました。納期に追われ、十分な清掃時間をとれなかったためです。
「すごく汚いのが常でした」と岡田さんは話します。「設備トラブルで生産が停止したときでもなければ掃除できませんでした」
火災は社内間題となり、上司による監視が強化されました。しかし行われた対策は隠ぺいでした。
「本日パトロールあり。油などかくしてあります」
申し送り帳には防災担当者の視察の前に慌てて可燃物を隠した記録があります。納期が優先され、労働者の安全は無視されたのです。



カルロス・ゴーン被告が「日産改革」の象徴としてレバノン在住の芸術家につくらせたモニュメント=日産自動車本社(横浜市)

株主配当 20年で8倍
国内生産が激減
ゴーン被告が遂行したコストカット戦略の中核には生産の海外移転がありました。連結会社の国内従業員は過去17年間で2割減少。海外従業員は2・1倍に急増しました。国内生産台数は1983年に約247万台でしたが、2017年には99万台にまで落ち込みました。低コストの外国を利用し、先頭を切って日本に自動車産業の空洞化の危機をもたらしたのが日産でした。
こうした「ゴーン流経営」の責任を負うのはゴーン被告一人ではありません。日産経営陣が一丸となって立案し推進した経営戦略だったのです。
実行役を担ったのは西川広人社長や志賀俊之元最高執行責任者(COO)でした。志賀氏の役割は「コスト削減」など「ビジネスプランの実行を監督すること」(「アニュアルレポート2005」)でした。西川氏は13年からコスト管理の責任者を務め、人件費や原材料調達を含む自動車1台あたりのコストを削減する方針を掲げました。過度な経費削減方針によって日産は、派遣切りを繰り返し、労働者を消耗品のように扱う企業に変容しました。
一方、日産の株主への配当金は過去20年間で約8倍に増えました。日産、ルノー、三菱自動車の3社からゴーン被告が受け取った役員報酬と配当金は、過去5年間で総額約113億円。さらに毎年約10億円の役員報酬を隠していた疑いで逮捕されました。



日産自動車のカルロス・ゴーン前会長と安倍晋三官房長官(当時)が対談する「産経」の記事(2006年1月1日付)

リストラし減税
株主の利益のために労働者を犠牲にする―。典型的な株主資本主義の経営手法は、日本政府が推奨したやり方でした。
株主資本主義を助長させた代表的な政策は、1999年に成立した産業活力再生特別措置法(産活法)です。企業のリストラを税制面・金融面で直接支援する法律です。支援を受けるための認定基準には株主資本利益率(ROE)の向上が盛り込まれました。
ROEは株主が払った資本金(株主資本)に対してどれだけの利益があがったかを示す数値です。1株あたりの利益があがれば、株主への配当金を増やすことができ、株が買われて株価も上昇するという理屈です。
株主の配当益と売買益を最大化するために、大企業は次々と大規模なリストラを行いました。
同法によるリストラ支援を日産も享受しました。日本共産党国会議員団の調査によると、2012年6月までに日産は少なくとも約6・2億円の減税措置を受けました。その上、1999年には産活法の前身である事業革新法を活用し、ルノーからの増資にかかる税金を約10・3億円減らしたのです。
安倍晋三首相も日産のリストラを絶賛しました。内閣官房長官当時の2006年1月1日に産経新聞でゴーン被告と対談。ゴーン被告の実績を天まで持ち上げました。
「ゴーンさんが果たされた役割は大変大きいと思いますよ。日産はルノーと提携し、ゴーンさんが来て、その結果、会社は活性化し、存続し、雇用も守られた」
「ゴーンさんの出現によりわれわれの認識は変わったように感じます」
東京地検特捜部は11日、ゴーン前会長の起訴に踏み切りました。起訴内容は、会社に私的な損失を与えたとする会社法違反と、有価証券報告書に虚偽記載をしたとする金融商品取引法違反です。ゴーン被告による会社私物化が争点になるもようです。
(つづく)(7回連載です)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月20日付掲載


日産自動車のカルロス・ゴーン前会長。「コストカッター」の異名を持つという。コストカットといってもカットしたのは生身の人間。
そして、日産の経営陣が一緒になって推進した。
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阪神・淡路大震災24周年 ビーナスブリッジで早朝追悼のつどい

2019-01-17 15:20:32 | 震災・災害・復興・地震&災害対策など
阪神・淡路大震災24周年 ビーナスブリッジで早朝追悼のつどい
震災の次の年から毎年続けてきた、神戸市中央区諏訪山・ビーナスブリッジでの早朝追悼のつどい。今年で終わりになります。

安田秋成さん_01
安田秋成さん_01 posted by (C)きんちゃん
主催者の中心、安田秋成さんです。

安田秋成さん_02
安田秋成さん_02 posted by (C)きんちゃん
衆議院議員のこくた恵二さん、参議院議員・党副委員長の山下よしきさんとあいさつ。

安田秋成さん_03
安田秋成さん_03 posted by (C)きんちゃん
NPO法人アース理事長の石原顕正さんともあいさつ。

安田秋成さん インタビュー
安田秋成さん インタビュー posted by (C)きんちゃん
安田さん。マスコミから取材攻めにあいます。「今年で最後ということですが、どういうお気持ちですか…」など…

早朝追悼集会開会_01
早朝追悼集会開会_01 posted by (C)きんちゃん
午前5時30分から、追悼のつどいが始まります。まず、安田さんから四半世紀にもわたる運動と次世代への思いを語ります。

早朝追悼集会開会_02
早朝追悼集会開会_02 posted by (C)きんちゃん
NPO法人アース理事長の石原顕正が、安田さんとの出会い、15周年で「記憶の継承」ということで希望の鐘を作ったことを語ります。

玉川侑香 追悼の詩
玉川侑香 追悼の詩 posted by (C)きんちゃん
最後に、玉川侑香さんが創作詩「4丁目のマサ」を語ります。

阪神・淡路大震災 早朝追悼のつどい20190117



希望の鐘 点鐘_01
希望の鐘 点鐘_01 posted by (C)きんちゃん
地震発生の5時46分に合わせて、石原顕正さんが希望の鐘を点鍾。

希望の鐘 点鐘_02
希望の鐘 点鐘_02 posted by (C)きんちゃん
黙とうです。

希望の鐘 点鐘_03
希望の鐘 点鐘_03 posted by (C)きんちゃん
安田秋成さんが点鍾。

希望の鐘 点鐘_04
希望の鐘 点鐘_04 posted by (C)きんちゃん
参列者が続いて点鍾しました。

アース理事長の訴え
アース理事長の訴え posted by (C)きんちゃん
最後に、NPO法人アース理事長の石原顕正さんがアピール。阪神・淡路大震災だけでなく、全国の被災者への支援をよびかけます。

阪神・淡路大震災・早朝追悼のつどい NPO法人アース理事長 石原顕正の訴え


松平晃 トランペット演奏
松平晃 トランペット演奏 posted by (C)きんちゃん
つどいはひとまず終わりましたが、松平晃さんが「上を向いて歩こう」と童謡の「ふるさと」を吹いてくれました。

阪神淡路大震災 松平晃 トランペット演奏


「早朝追悼のつどい」は、一つの区切りを迎えましたが、借上げ公営からの追い出しなどへの支援が引き続き求められます。
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