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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

資本主義の病巣 日本をカットした日産③ 工場閉鎖で狂った人生

2019-01-24 13:44:39 | 経済・産業・中小企業対策など
資本主義の病巣 日本をカットした日産③ 工場閉鎖で狂った人生
JR立川駅からバスで約20分。住宅街の中に突如、広大な空き地が現れます。2001年に閉鎖した日産自動車の村山工場跡地です。
東京都武蔵村山市に位置し、広さは約140ヘクタール。東京ドーム29個分です。閉鎖前には約3千人の労働者が働いていました。スカイラインやローレル、マーチなどの人気車を世に送りだしました。

怒号がとび交う
正門跡地を眺める元労働者の内野操(みさお)さん(77)。
「ここで閉鎖反対のビラを配りました。閉鎖で辞めざるを得なかった人はどれだけ悔しかったか」
1999年10月18日。村山工場では、すべての労働者がモニター画面の前に集まるよう指示されました。経営危機に直面する日産ヘルノーが送り込んだカルロス・ゴーン前会長が映し出され、「リバイバルプラン」を発表しました。
「村山工場での車両生産を2001年3月に中止します」
「ふざけるな」「畜生」。社内放送を聞いた労働者から怒号がとび交いました。
まさか村山工場が閉鎖されるとは―。予想外の発表に境繁樹さん(76)は混乱しました。村山工場は主力車種を生産し、都心に近い好立地でした。「他の工場も人が余っているはず。村山工場の労働者を受け入れられるのか」。胸を締め付けるような不安に襲われました。
リバイバルプラン発表後は、製造中の車のフロントガラスが割れたり、車体がへこんだりする事件が起きたといいます。
「長年働いた労働者にとって工場閉鎖は衝撃だったのだと思います」
当時、全日本金属情報機器労働組合(JMIU)日産自動車支部委員長だった坂ノ下征稔(さかのした・まさとし)さんは振り返ります。



スカイライン発祥の地の碑の前で語る内野さん=東京都武蔵村山市


日産自動車の村山工場跡地近くの店舗=東京都武蔵村山市

退職や異動で…
工場閉鎖によって退職や単身赴任、長時間の通勤を余儀なくされました。
境さんは座間事業所(神奈川県座間市)に転勤を命じられ、通勤時間は2時間半になりました。午前6時半に家を出て、帰宅できるのは午後9時でした。家族と一緒に食卓を囲むことはできなくなりました。
日産リストラ対策現地闘争本部の資料によると、リバイバルプランで退職を余儀なくされた人は520人以上。異動先は栃木工場(栃木県上三川町)が1010人、追浜工場(神奈川県横須賀市)が710人、座間事業所が117人でした。多くの労働者の人生が狂わされました。
工場閉鎖は地域経済にも大打撃を与えました。“日産通り”と呼ばれ、栄えた正門前にある都道55号線。空き店舗が目立ち、かつての面影はありません。
村山工場跡地の近くで中華料理屋を営む女性(70)は「寂しいですね」と顔を曇らせます。周辺には酒屋やすし屋などが軒を連ねていましたが、今はほとんどありません。工場閉鎖で売り上げが10分の1に落ち込みました。
「30年間店を続けたけど、そろそろ閉めようかと考えています。悔しい」
購買コスト20%削減、2万1千人の従業員削減などの目標を掲げたリバイバルプランは、1年前倒しで達成されました。人員削減は2万9千人と超過達成しました。坂ノ下さんは声を振り絞っていいます。
「ゴーンの目に労働者は映っていなかった。労働者や下請けを犠牲にして、利益をあげることだけを見ていた」
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年1月22日付掲載


日産の村山工場の閉鎖。140ヘクタール、東京ドーム29個分の敷地。約3千人の労働者が、転勤、長距離通勤、退職に。
とばっちりをうけたのは、労働者だけではない。地元の業者もお得意さんがいなくなって、営業が大変。

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