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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争⑤ 疎開「おなかすいたよう」

2015-07-26 17:16:27 | 平和・憲法・歴史問題について
第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争⑤ 疎開「おなかすいたよう」

太平洋戦争末期、小学校(国民学校)3~6年生の子どもたちが親元を離れ、地方へ移住させられました。学童疎開です。東京、横浜、名古屋、大阪など全国17の都市に住む子どもを農村へ、沖縄や鹿児島の離島の子どもは本州へ、約70万人もの移動でした。

「国防力の培養」
学童疎開は、太平洋のサイパン島が米軍に占領され、B29の空襲が本州全域で可能になるもとでの方針でした。
政府は1944年(昭和19年)6月に「学童疎開促進要綱」を閣議決定しました。親戚や知人を頼る「縁故疎開」を原則としつつ、縁故がない子どもも学校単位で疎開するとしました(「集団疎開」)。45年には空襲が激しくなり、1、2年生も対象にする「根こそぎ疎開」が行われました。
その目的は、子どもを守ることではありませんでした。大達茂雄東京都長官(当時)は44年7月に開いた都下国民学校長会議で、「帝都の学童疎開は、其の防空態勢の強化であり、帝都将来の国防力の培養でありまして、帝都学童の戦闘配置を示すもの」と述べました。当時の新聞は「防空足手まとひを残すな」と報じました。足手まといの子どもを地方に移し育て、将来の兵士にするというものです。
沖縄では、地上戦に備え、九州に向かった疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、児童780人を含む1485人が亡くなるという悲劇もありました。
親と離され、子どもたちは寂しさをつのらせました。食糧不足で空腹に苦しみ、絵の具や歯みがき粉をなめる子まで現れました。
小学5年のとき、東京都豊島区から長野県に集団疎開した高橋登女恵さん(82)は、2歳違いの弟と一緒でした。「『ねえちゃん、おなかすいたよう』と弟が毎日甘えにくる。そのことを知った先生は弟を『たるんでいる』と投げ飛ばす。本当につらかった」と言います。
ボス支配、仲間はずれ、暴力…、いじめがまん延しました。不衛生から、ノミやしらみがわき、性感染症の集団発生もありました。
「うちに帰りたい」と脱走する子どももいました。東京都荒川区から福島県に集団疎開した小林奎介(けいすけ)さん(83)は当時、小学6年生。4年の男子が逃げ出し、6年生男子全員が集められ、山狩りのようなことをさせられました。「静岡に集団疎開した女子2人が貨車にもぐりこんで発見が遅れ、亡くなった事件もありました」



福島県熱海町(現在の郡山市)に集団疎開し、乾布摩擦をする荒川・第一日暮里国民学校の子どもたち=1944年(小林奎介さん提供)

次世代に伝える
いま、こうした体験を伝えるさまざまな取り組みがあります。
体験者でつくる全国疎開学童連絡協議会は証言や絵物語を掲載したホームページを開設。「戦後を戦前にしないために私たちの体験を伝え、『戦争国家』への道を防ぎたい」と阪上順夫(のぶお)会長は語ります。
前出の小林さんは、1200冊の蔵書などを持つ学童疎開資料センター代表を務めます。「子どもたちに戦争の苦労を二度とさせたくない」と仲間と一緒に資料収集や展示・語り部活動に力を入れています。

【メモ】
残留児童も3分の1「集団疎開」では、保護者は、子ども1人につき月10円の負担が必要でした(当時の大卒社員の初任給は75円)。家計が苦しく都市に残った子どもも約30万人。対象児童の3分の1以上になりました(1944年12月末)。

(君塚陽子)(おわり)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年7月24日付掲載


疎開船「対馬丸」の事件はあまりにも痛ましいものです。本来なら安全を確保するための疎開が、逆にメンタルや不衛生な問題も発生して、亡くなったりした子どももいたのですね。
コメント (2)
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