【威容示す鬼瓦や相輪、大量の唐三彩や奈良三彩も】
奈良市埋蔵文化財調査センター(奈良市大安寺西)で秋季特別展「甦(よみがえ)る大寺―大安寺発掘調査成果展」が開かれている。大安寺は天皇発願による最初のお寺、百済大寺や大官大寺を前身とする官寺筆頭の大寺(おおてら)。旧境内全域は国の史跡に指定されている。奈良市教育委員会による30年余の発掘調査の結果、その壮大な規模などが次第に明らかになってきた。26日まで。
伽藍配置は「大安寺式」と呼ばれるもので、北から講堂、金堂、中門、南大門が一直線に並び、その南側に東西両塔が立っていた。百済大寺とその法灯を継ぐ藤原京の大官大寺の塔は九重塔だったが、大官大寺が平城京に移転した大安寺は七重塔になった。それでも奈良時代の塔としては東大寺に次ぐ規模で、その威容は西塔跡から出土した鬼面紋鬼瓦(上の写真㊧)や塔頂を飾る相輪の水煙、風鐸(㊨)などの巨大さからもうかがうことができる。
大安寺は平安時代以降、数度の火災によって壮大な伽藍を焼失した。金堂と講堂跡の間の焼土層からは唐三彩の陶片(写真㊧)が多く見つかっており、昨年の調査でも新たに約80点が出土した。ほとんどは方形・中空の「陶枕(とうちん)」の破片で、大安寺の造営に携わった僧で遣唐使の道慈が718年の帰国時に持ち帰った可能性が高い。旧境内からは唐三彩の制作技術を基に作った国産の奈良三彩(㊨)もこれまでに250点以上出土している。
大安寺小学校の校舎解体に伴う昨年の発掘調査でも新たに焼土層が見つかり、布地に刺繍を施す繍仏に使われたとみられる金糸やガラス片、水晶玉、仏像の螺髪などの遺物が出土した(写真㊧)。同時に出土した土器片から焼土層は1017年の火災に伴うものとみられる。伽藍東側からは「東院」と書かれた墨書土器が出土した。この土器から奈良時代末期に桓武天皇の弟だった早良親王が住んだ東院が近くにあった可能性が浮上している。