「 夷酋列像 」を紹介する展覧会が9月5日、北海道博物館(札幌市厚別区)で開幕しました。
江戸期も後半、10代将軍・徳川家治、11代家斉の時代です。
蝦夷地松前藩に「蠣崎波響(かきざきはきょう)」という家老が居りました。
12代藩主の五男に生まれ、のち家老職の「蠣崎家」の養子になります。
幼いころから「画才」があり、長じて師につき学びました。
幕府が蝦夷地を直轄領にした時期があって、そのあいだ松前藩は「陸奥国伊達郡梁川藩」に移封されました。
石高も少なく、物なりも貧しい梁川から、もとの松前藩に戻れるよう、家老「蠣崎波響」は苦労しました。その当時さかんに絵を描きあげ、金銭に変えたり、時の幕府老中に嘆願の賂いとして贈ったりしたようです。
寛政元年(1789年)の『クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)』で、松前藩に協力したアイヌの酋長を描いたのが『蝦酋列像』12点です。
寛政3年この絵を携えて上洛、評判になり「光格天皇」の天覧に御され、波響の名は一躍高まることになります。
この絵は、長らく行方不明でしたが、1984年にフランスのブザンソン美術考古学博物館で1点を除く11点と序文2点が発見されました。
今回の展覧会は、3年前の「函館近代美術館」での展覧会に次ぐ催しで、模写1点を含む12点や、その他関連品が展示されています。
蝦夷地の松前藩と言えば、原住の「アイヌ民族」を搾取、虐げたことで悪名を残しています(幕府直轄領になったのも、反乱蜂起が多発して、統治の不手際が咎められた)
そんな松前藩で、ただ一人後世に名を残すことになった『蠣崎波響』は、【夷酋列像】の絵と共に燦然と輝いているのです。
友人達の中にも眼・・心配する人がボチボチ・・
その後、いかがですか・・
どこでご覧になったんでしょうね?
今日9日、定期検診がありまして、とりあえず順調に推移しているようで、温泉、浴場、散髪、軽度の運動などが・・・規制解除になりました。
ホッつ!です(笑)