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かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

陸奥と渡島

2023年01月10日 | Books
また、寒くなってきた。
1月だから、しょうがない。



本書は、地域の古代史シリーズの内の1冊。

東北・北海道版。

東北出身にも関わらず、知らないことばかりで、お恥ずかしい限り。
そもそもこの渡島という言葉、北海道を指すことすら知らなかった。

まずは、蝦夷の話だが、元々毛人と書かれていたことは知っていたが、その前は、愛瀰詩(えみし)と表現されていたそうで、当時は、まさに地の果て。
言葉も何語を話していたのかも定かではない。
大和朝廷がある程度成立し、東北に拠点を置いたのが多賀城近辺。
私が、住んでいた仙台の少し北になるが、ここと、荘内平野と結んだ線を境に、異なった生活習慣を持った集団が住んでいたことが分かっており、かつその分断は、長い間続いた。
残された土器、墳墓の携帯、食生活など。
一方、交流の形跡もあり、敵対していたのではなく、入り組みながらも、完全に同化はしなかった。
その後、有名な坂上田村麻呂と阿弖流為との戦いで、同化が一歩進んだが、阿弖流為の死は、無駄死にだったわけではなく、大和朝廷と敵対しないながらも、独自の世界が認められ続けることになったという。

北海道に至っては、もうほとんど治外法権。
いろんな交易があったことはわかっているが、それは、ほとんど貿易に近いものだったようだ。
であるから、本州以南が、縄文→弥生→古墳→飛鳥という時代区分するとすると、弥生から古墳時代は、続縄文文化、飛鳥から平安までは、擦文(さつもん)文化、そこにオホーツク文化が絡む。鎌倉時代以降は、アイヌ文化期となり、これが江戸時代まで続くといった具合だ。
もちろん人のつながりはあったし、交易も行われていたが、北海道の人々の生活スタイルを変えるにはいたらなかった。
気候の関係で、米文化が育ちにくかったということもあろう。
ただ、アイヌ文化とその前の続縄文文化の関係も定かではなく、大陸とのつながりも、あるにはあるが、直接的なものとも言い切れず、その成り立ちは、不明なところが多い。
要するに、研究はまだ始まったばかりだ。

本書を読んで、特に直接的に大和朝廷の力が及んだと思われる北限をちょっと超えたあたりにある、胆沢城や、角塚古墳あたりには、行ったことがないので、機会を見つけて訪れてみたい。

馴染みの深い地域にもかかわらず、知らないことばかりで面白かった。
コメント
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