かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

武蔵野市

2020年02月29日 | Other Eastern Japan


コロナ蔓延で、来週からほとんど動けなくなるが、今日は、予定通り。
まず、武蔵境へ。
昭和39年から、41年まで、2年間住んだ。その後、鎌倉へ引越し。
この西武線は、当時、是政線と呼ばれていて、幼稚園(年長組)か小1の時(たぶん幼稚園?)、石拾いに行って、結構綺麗な石を拾った記憶がある。
今は、多摩線と名前を変えたようだが、盲腸のような線路であることには、変わりない。



たぶん55年振りぐらいに武蔵境駅で降りた。
昭和41年の3月に鎌倉に引っ越して以来、降りたことはなかったと思う。



南に向かって進んで、あったのが、聖徳幼稚園。



当時、こんなに大きくはなかったと思うのだが、聖徳幼稚園に行っていたのは、確か。
仙台での幼稚園がキリスト教系だったので、仏教系になって、拝み方が変わったのにとまどった。
先生の顔は覚えていない。



そして、境南小学校。
ここには、間違いなく1年間通った。
迎先生というおっかない顔の人が先生だったが、優しかったかな。
これは、正門だが、家から近い裏門をいつも使っていた。
入学式の写真、どっかにないかな?



いい学校だったように記憶する。
校舎は変わっているはずだが、校庭は変わっていないはず。
相撲の時、まわししか掴んではいけないとおそわった。
みんなジャージをつかみ合って怒られたっけ。
土粘土で人形を作った記憶も。
ちっちゃなプールもあったように思うのだが。



日赤病院は、当時、唯一の立派な施設だった。
この道の前で、泥団子合戦をしたと記憶する。
当時は、舗装工事が大々的に行われていた。



ここが、探り当てた当時住んでいた小路。
近所の人の表札で、たぶん間違いない。
近所の人が、当時から、引っ越していないということは、いい街である証拠。
周りには、まだ畑も残る。
当時は、もちろん平屋、板葺きの借家だったが。



三鷹との境も近く、16インチぐらいの補助輪付きの自転車で走り回っていたっけ。
当時、三鷹では、豚小屋の臭いがひどかった。
この看板の意味は、三鷹の方が、住所としては、都会っぽくていいが、武蔵境の郊外的な生活が楽しめるということか。
確かに、三鷹までは総武線が来るから、武蔵境はやや郊外イメージだ。



駅に戻ったら、当時の武蔵境駅の写真が。
住んでいた時期は、プラットフォームを跨ぐ駅舎ができた直後だったらしい。
線路自体が高架になって、様変わり。



武蔵小金井に行って、友人の合唱団のコンサートに。
予想以上いすばらしい。プロ級。
アカペラで、これだけのハーモニーは普通できないし、あの盛り上げもできない。
なかなかこういう機会はない。
心が洗われた。

コロナで暗くなりがちだが、楽しく生きたい。
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Brit Floyd

2020年02月28日 | Music



今日は、待ちに待ったBrit Floyd。
コロナウィルスでどうなることかと思ったが、ぎりぎり開催。
Pink Floyd は、生で見たことがないし、そもそもオリジナルメンバーでの公演はほとんど見たことがないのではないか。



渋谷公会堂がこんなに立派になっていたとは。
2,000人規模のコンサート会場としては、最新鋭。



LINEが相当お金を出したのだろう。



手洗い、くしゃみ、咳の時のエチケットを、繰り返し放送している。
今回のコロナが理由で、キャンセルの人には、払い戻しがされることになった。



最初からヒット曲連発。



コアのファンが多く、1曲1曲、大盛り上がり。



これは、TIME。



ロジャーとギルモアが並んで演奏する姿。



こういった落ち着いたシーンも。



コーラスもパワフル。



照明の演出が、曲毎に違う。
中に移される映像も、アルバムのデザインを題材にした、芸術的なもの。
音とコラボした映像もあった。



総勢9人の大所帯。



終盤に入って、ダイナミックな曲が続く。
シドバレットを偲ぶ曲も。



アンコールは、RUN LIKE HELLで締め。



海外遠征できるトリビュートバンドはそう多くない。
すばらしい時をありがとう。

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華麗なるドイツ浪漫紀行 その24 ワイマール①

2020年02月27日 | Europe・Middle East・Africa


ライプチヒからさらに西へ移動し、ワイマールへ。
ゲーテは、ワイマール公国の宰相として、ワイマールに長く住んだ。
詩人と思っていたが、政治家としても有能な人物だったという。
多くの文化人が訪れたため、19世紀初頭に、古典主義文化が開花した。
1919年にワイマール国民劇場で憲法制定会議が行われ、ワイマール共和国が誕生した。
結局、第一次世界大戦の後、ヒットラーの台頭を許し、第二次世界大戦につながった。
首都はベルリンだったが、ワイマール共和国として知られる。
これは、ライプチヒの裁判所?



ホテルに着いたら、やたらに立派な絨毯が飾られている。



劇場広場のゲーテとシラー像。
背景にあるのが、ワイマール憲法が制定されたワイマール国民劇場。



馬車で街巡り。



ゲーテの家。



案内板に添いながら、オーディオガイドを聞いて、巡る。



1709年に立てられた館をカール・アウグスト公から与えられ、1782年から住んだという。
彼の好みで、改築もなされている。
多範囲の豪華な収集品には脱帽。



部屋ごとに、さまざまな収集品が。



息を引き取ったひじかけ椅子。
最後の言葉は、もっと光を!



広い庭。

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華麗なるドイツ浪漫紀行 その23 ライプチヒ②

2020年02月26日 | Europe・Middle East・Africa
今日は、日帰りで大阪。
やはり、しんどい。



マルクト広場。
右に見えるのが旧市庁舎で、現在は、ライプチヒ市歴史博物館になっている。



旧市庁舎の裏の広場にある旧交易会館。



その前にゲーテ像がある。
台座には、当時親しくしていた二人の女性のレリーフがある。
若きゲーテがここで1765年から1768年まで、ライプチヒ大学に通っていた。
当時は、フランクフルトより大きな街だったという。



メードラー・パサージュ。
アーケード付き商店街。
ミラノのガレーリアを真似して、1914年に作られた。



アウアーバッハス・ケラー。
1525年創業で、ゲーテが好んで通い、ドイツ留学中の森鴎外も訪れたという。



バッハ博物館。
親戚付き合いしていたボーゼ家の館だったという。
バッハは、人生後半の27年間をライプチヒで過ごした。



入口にあるバッハの像。



バッハが弾いていたオルガン。



楽器類も、今のものとは、少しづつ異なる。



街には、音楽が溢れている。
流石、格調高い。



ここにもバッハのレリーフが。



その向かいには、メンデルスゾーンの銅像が。
シラー、シューマン、滝廉太郎縁の地でもある。



右奥の白い建物は、ドイツ最古のコーヒー店。
創業1720年。
入口にコーヒーの木とアラビア人のレリーフ。
このカフェバウムへは、バッハもよく訪れ、リスト、ワーグナー、シューマンも訪れた。
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鏡の古代史

2020年02月25日 | Books



本書は、本屋で見つけた。

鏡の本は、結構読んで来たが、近時の議論も踏まえた集大成的な本ではないかというのが読後感だ。

時代毎に、銅鏡の種類、扱われ方、生産地、分布の状況、その他の副葬品の状況の変化を積み上げ、弥生時代から、古墳時代に変わるところで、全てが大きく変わったことを導き出す。
しかし、古墳時代になって以降、全てが、整然と整理された訳でもなく、巨大古墳が作られる時代になると、鏡の存在は、フェイドアウトしていく。

いろいろ新たなことを学んだが、弥生時代は、破鏡と言って、砕かれた鏡が、配られたり、お墓に納められたりしていたこと。それが、古墳時代になり、完成鏡が主流になったこと。
制作地も、中国中心であったり、韓国中心であったり、日本中心であったり、時代毎に移っていった痕跡が見られることなどなど。

銅鏡のデザインそのものも、その芸術性が、高く、また幾何学模様は、かなりの知識がないと、描くのが難しかったことなども、興味深かったし、次に銅鏡を見る機会があったら、より注意して見たい。
鏡面も、フラットばかり思っていたが(ほとんど見ないが)、凸面や、凹面が主流だった時代もあること。

このような研究を重ねることにより、中国、韓国、日本との関係、大和朝廷、または時代時代の豪族達の権力の及んだ様子も見えてくる。
古代史ファンには、必須の1冊に思える。
著者は、1973年生まれの気鋭の学者である。

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