コロナ蔓延で、来週からほとんど動けなくなるが、今日は、予定通り。
まず、武蔵境へ。
昭和39年から、41年まで、2年間住んだ。その後、鎌倉へ引越し。
この西武線は、当時、是政線と呼ばれていて、幼稚園(年長組)か小1の時(たぶん幼稚園?)、石拾いに行って、結構綺麗な石を拾った記憶がある。
今は、多摩線と名前を変えたようだが、盲腸のような線路であることには、変わりない。
たぶん55年振りぐらいに武蔵境駅で降りた。
昭和41年の3月に鎌倉に引っ越して以来、降りたことはなかったと思う。
南に向かって進んで、あったのが、聖徳幼稚園。
当時、こんなに大きくはなかったと思うのだが、聖徳幼稚園に行っていたのは、確か。
仙台での幼稚園がキリスト教系だったので、仏教系になって、拝み方が変わったのにとまどった。
先生の顔は覚えていない。
そして、境南小学校。
ここには、間違いなく1年間通った。
迎先生というおっかない顔の人が先生だったが、優しかったかな。
これは、正門だが、家から近い裏門をいつも使っていた。
入学式の写真、どっかにないかな?
」
いい学校だったように記憶する。
校舎は変わっているはずだが、校庭は変わっていないはず。
相撲の時、まわししか掴んではいけないとおそわった。
みんなジャージをつかみ合って怒られたっけ。
土粘土で人形を作った記憶も。
ちっちゃなプールもあったように思うのだが。
日赤病院は、当時、唯一の立派な施設だった。
この道の前で、泥団子合戦をしたと記憶する。
当時は、舗装工事が大々的に行われていた。
ここが、探り当てた当時住んでいた小路。
近所の人の表札で、たぶん間違いない。
近所の人が、当時から、引っ越していないということは、いい街である証拠。
周りには、まだ畑も残る。
当時は、もちろん平屋、板葺きの借家だったが。
三鷹との境も近く、16インチぐらいの補助輪付きの自転車で走り回っていたっけ。
当時、三鷹では、豚小屋の臭いがひどかった。
この看板の意味は、三鷹の方が、住所としては、都会っぽくていいが、武蔵境の郊外的な生活が楽しめるということか。
確かに、三鷹までは総武線が来るから、武蔵境はやや郊外イメージだ。
駅に戻ったら、当時の武蔵境駅の写真が。
住んでいた時期は、プラットフォームを跨ぐ駅舎ができた直後だったらしい。
線路自体が高架になって、様変わり。
武蔵小金井に行って、友人の合唱団のコンサートに。
予想以上いすばらしい。プロ級。
アカペラで、これだけのハーモニーは普通できないし、あの盛り上げもできない。
なかなかこういう機会はない。
心が洗われた。
コロナで暗くなりがちだが、楽しく生きたい。