かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

何と(南都)○○な平城京その2 平城宮

2008年10月31日 | Nara ( Japan )
昨日、天皇陛下が、正倉院展を閉館後見学されるという噂は、現地で聞いていたのだが、新聞報道によると、昼過ぎに、近鉄奈良駅に到着されていたようだ。ニアミスだった。



唐招提寺の後、前から気になっていた朱雀門に行った。バスの中から、見たことがあったのだが、じっくり見るのは初めて。昔は、何にもなかったのに。立派だ。

そこに、パンフレットが置いてあったので、平城宮を回って見ることにした。平城宮は、平城京(当時は、”ならのみやこ”と呼んだ)の中心で、政治の中心だった一画だ。一画といっても、結構大きい。
不思議なことに、その一画は、建物がない(近鉄が突っ切っているが)。今回見た諸展示を見てわかったのだが、平城京から遷都する際、建物ごと、丸ごと引っ越しして、その後すぐ盛り土等をして田んぼにしたために、平地で、残ったらしい。建物の礎石などは、田んぼの下になり、1000年以上の間、忘れ去られてしまったが。



平城宮のかかし。



朱雀門を入って右に行くと、東院庭園が復原されている。ボランティアの方がいらっしゃったので、お聞きすると、復原といっても、図面が残されている訳でもなく、池や、礎石の跡から、推測して、復原したそうだ。だから、それぞれの建物の用途なども全くわからない。庭園の中の木々は、地中に残された種子から、植物の種類を探り出して、植えたそうだ。



平城宮のすすき。



そこから、北に曲がってしばらく行くと、井戸の跡が展示されている。平城宮の中には、このような井戸が、多くあったらしい。



その横に遺構展示館がある。発掘した様子がそのまま展示されている他、発掘結果から復元された建物の様子が展示されている。基本的には、礎石の跡が頼りだ。



その脇に宮内省跡が、復原されていた。



さらに行くと、巨大な大極殿が復原工事中だ。この辺りが、南の朱雀門から北にまっすぐ上って突き当たり近くになる。朱雀門以上の華麗な御殿になるだろう。



大極殿から、朱雀門を眺めたところ。今は、原っぱが広がるばかりで、ここが都の中心だったことを、イメージするのは、難しい。



その脇では、発掘作業が続けられていた。



そこから西に行くと、平城宮跡資料館がある。今、地下の正倉院展と称して、1988年の発掘で、長屋王の館を特定した(平城宮のすぐ脇)木簡などが展示されている。文字の力は大きい。木簡の山から、当時の生活振りが浮かびあがってきている。ここが、平城宮の中で、大和西大寺駅から、一番近い地点になる。

ということで平城宮を、一周できた。霞ヶ関を一周したというところか。



これが、その証拠。このスタンプラリーの励みがなかったら、一周できたかどうか。

明日は、また一泊の旅に出るので、お休み。すんません。
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何と(南都)○○な平城京その1 天平の甍

2008年10月30日 | Nara ( Japan )


今日は、日帰りで、奈良をぶらぶらしてきた。ということで、ブルガリアはちょっとお休みで、奈良ぶらぶら歩き速報。



近鉄奈良駅は、遷都1300年を再来年に控え、盛り上がりかけているか?物議をかもしたせんとくんも健在だ。せんとくん以外のキャラを使っているところもあるようで、若干混乱気味の感じも受けたが。



今回の奈良ブラの第一の目的は、3年連続となった正倉院展。今年は、やめようと思ったのだが、平日に行けることになったので、トライ。やはり混んでいる。朝一で、15分待ち。出た頃には、30分待ち。中も相変わらずの大混雑なのだが、混雑の厚みがちょっと薄いようで、ちょっと待っていると、様々なお宝を最前列で見ることができた。私にとっての、目玉は、白瑠璃碗。カットグラスのお椀だ。ペルシャ伝来とされる。当時、ペルシャでは、そう珍しいものではなかったらしいが、このように完品で残されているのは、世界でこれだけ。本当にきらきらしている。発掘されたものは、結構見たが、残念ながら、輝きは失われている。勿論その他にも、すばらしくかつ歴史的にも貴重なお宝が満載。だから、混んでいるとわかっても、こんなに人が押し寄せるのだろう。
来年からは、平日に行ける時は、行くことにしようかな。



奈良から、西の京に回って、薬師寺に行った。薬師寺については、前にも紹介したので、省略するが、今の時期、毎年、平山画伯の大唐西域壁画殿が公開されている。その上、今回は、もうひとつの薬師寺展とういうのもやっていて、かの有名な吉祥天女像も展示されていた。あまりにも近くで、ゆっくり見れたので、驚いた。

そして、今日の目当ての、唐招提寺に行った。



唐招提寺の金堂は、まだ平成の大修理中だが、覆いがはずされて、天平の甍を拝めるようになったのだ。中の仏像類は、まだ組み立て中で、中は見れないが。来年の11月に正式に再オープンする時には、1300年前の輝きを取り戻しているのだろう。



金堂の後ろにある講堂は、普通に見れる。これも国宝なのだが、平城宮にあった建物を遷都の時に唐招提寺に移築したもので、その意味からも貴重なものだ。鎌倉の修理で、随分形状は変えられてしまったようだが。



戒壇は、鑑真和上に由来する僧の受戒が行われる場所で、日本で、初めて唐招提寺に設けられたものという。建物は、失われている。基壇の上にあるストゥーパが、インドのサンチーのストゥーパのデザインだが、これは、昭和になって築かれたもの。



現在は、校倉造の宝蔵に入れる。特別公開中なのだ。徳川家からの奉納物が見学できる。mこの蔵は、正倉院よりも古いものとされている貴重なものだ。



その奥には、新宝蔵があり、やや痛んではいるものもあるが、貴重な美しい仏像達を拝むことができる。もっと保存がよければ、すばらしいものだったろうに。天平の甍を象徴する鯱のように見える鴟尾(天平の大修理前のもの)を間近で見れる。すごい迫力だ。

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ブルガリアその1 ブルガリアは日本贔屓だった

2008年10月29日 | Europe・Middle East・Africa


今回訪れたブルガリアは、もちろん初めて。ブルガリアといえば、ヨーグルトと琴欧州ぐらいのイメージしかない人が多いだろう。ところが、ブルガリア側からは、日本への思いいれがひじょうに強いのだ。

宿泊したホテルは、今は外資系だが、かつては、ニューオータニだったという。設計は、東京都知事選に出馬しその後亡くなられたKK氏だそうだ。まずまず立派なホテルだった。

近くに、徳田病院があり、ベッド数1000以上の総合病院だ。中東欧ロシアから、患者が訪れるという。何故か徳田銀行まであった。



首都であるソフィア市内の学校を見学させていただく機会を得たが、小学校から、日本語選択クラスがある。週3コマだそうだ。高校になると、週19コマになるという。日本における英語の授業のコマ数より多い。高校で、日本語コースの人は、日本語実用検定で、2-3級を取得するそうだ。その背景には、ブルガリアは、WW2で、ドイツ側につき敗戦を経験し、同じく敗戦した日本の復興振りを見本にしたいという思いがあるようだ。



町の真ん中では、地下鉄大工事中だが、これも日系建設会社によるものだ。ということで、びっくりの連続のブルガリアをざっとご紹介したい。
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ポーランドその8 旧王宮

2008年10月28日 | Europe・Middle East・Africa



16世紀末に、クラクフから、ワルシャワに、ポーランドは遷都した。ここが、旧王宮前の広場で、モニュメントの上に立つのは、この遷都を断行した、ジグムント三世の像だ。



この王宮も、ナチスによって、跡形も無く破壊された。



そして、18世紀の姿に復元されたのが、現在見れる旧王宮だ。



復元されてから、まだ20年。



名残おしいが、とりあえずポーランド最終回としたい。
やっぱり、この旧市街市場広場が、一番よかったな?なんていったって、メルヘンチックだよね。

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ポーランドその7 聖ヤン大聖堂

2008年10月27日 | Europe・Middle East・Africa



聖ヤン大聖堂は、旧市街市場広場から、ちょっと王宮方向に入ったところにある。
正直、建物は、重厚ではない。1956年の再建だ。
だが、元は、14世紀に建てられた、ワルシャワ最古のゴシック建築教会なのだ。
ポーランド最後の王の戴冠式や、憲法発布などが行われた、ワルシャワもしくは、ポーランドの歴史の中心にあったところだ。
教会の中は、奥深く、ステンドグラスも美しかった。



最初に建てられた時と再建と時の年号を刻んだプレート。



扉には、ポーランドの象徴である鷲と、ワルシャワの象徴である人魚が、交互に刻まれていた。



近くには、黒頭巾の三角帽をかぶったパフォーマーが、不気味にたたずんでいたが、中身は、ワルシャワ美人であるという地元の人の話であった。確かめる術はなかったが。

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