かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ならでぶら 東奈良編その1 東大寺大仏殿

2009年04月30日 | Nara ( Japan )


奈良の旅も最終日。奈良駅の近く。東奈良を散策することにした。

東大寺は、もちろんマスト。



南大門は、高さ25.5m。国宝だ。



金剛力士像は、鎌倉時代初期の、運慶・快慶一門の作として有名だ。金網がいつも邪魔なのだが、どうにかならないものか。



大仏殿は、今でも十分大きいが、創建当時は、もっと大きかったという。それも何と今の1.5倍。



この燈籠の浮き彫りの中には、創建当時のものが残されているという。



大仏は、焼けおちた後再建されたものだが、その坐している蓮華には、当時のものが残されている。仏教伝来からそう間もないころ作られたこの大仏と大仏殿。すごい。
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ならでぶら 明日香編その17 甘樫丘

2009年04月29日 | Nara ( Japan )
sun今日は、最高のゴルフ日和だった。天気といい、気温といい、風といい。
高速料金も安いし。
ゴールデンウィークの好天が、個人消費UPにつながるか。豚インフルなど、悪材料も相変わらず多いが。



長々と続いた明日香編もいよいよ最終回。
一日の締めくくりに、甘樫丘に登った。朝一番で登った益田岩船と違って、石段も整備されているので、登りやすい。

説明書にはこうあった。

”甘樫丘の名は、允恭天皇4年味橿丘で盟神探湯を行ったとあり、蘇我蝦夷入鹿が「家を甘樫丘に並べ起つ」とみえる。この付近には、甘樫丘、逝回丘、雷丘などの小丘があったことが知られるが、各々がどの丘であるかはわからない。今甘樫丘と呼ぶところは、飛鳥古京を眺望し、古を偲ぶのに最も適した場所である。”

まさに、この説明のとおり、老若男女が、この丘の上で、飛鳥を偲んでいる。



犬養孝さんの碑もあった。志貴皇子という方が、7世紀末期に作った歌だ。

婇女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用尓布久

飛鳥から、藤原京に遷都された後の飛鳥で、読んだ歌だそうだ。
意味は、「婇女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠のいたので、今日は、ただむなしく吹いている。」とある。
飛鳥版「Blowin' In the Wind 」なのだ。
甘樫丘は、藤原京を見下ろす場所にあるのだ。



大和三山が一望できる。
右から、天香具山、耳成山、畝傍山である。
藤原京が、正面の耳成山の手前にあったのだが、もちろん、今は、わからない。
寄ってみたかったけどTime is UP !

大充実の飛鳥の一日は終わった。自転車を返したのも、午後5時ぎりぎりだった。


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ならでぶら 明日香編その16 飛鳥水落遺跡

2009年04月28日 | Nara ( Japan )


飛鳥の長ぁい一日も、いよいよ終盤。
水落遺跡に行ってみた。660年に日本最古の水時計を作ったと日本書紀にある。ここがその場所とされる。

説明書にはこうある。

”斉明天皇6年(660年)5月、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、と「日本書紀」に書かれています。日本書紀はその場所について何も語っていません。1981年その水時計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で、掘り出されたのです。
ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかりました。
水時計建物を中心にして、水を利用したさまざまな施設があることもわかりました。
当時の日本は、中国の先進文明を積極的に取り入れて、律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速に整えつつありました。中大兄皇子は、中国にならい政治や人々の社会生活を、明確な時刻制によって秩序づけようとしたのです。
時計装置の製作と運用は、当時の、最新かつ最高の科学技術を結集した国家的な大事業であったことでしょう。その意味において、飛鳥水落遺跡は、律令国家確立への記念碑といえるでしょう。”

とある。すごい施設だったのだ。そういえば、宮城県の多賀城にも、このような施設跡があったっけ。最新の技術を、蝦夷の民に見せつけ、権威づけに活用したのだろう。



なかなか当時の姿を思い浮かべるのは難しいが、大陸の文化を急速に取り入れた時期の日本のモニュメントの一つであったのだろう。
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ならでぶら 明日香編その15 飛鳥資料館

2009年04月27日 | Nara ( Japan )


飛鳥寺から、やや離れた奈良文化財研究所飛鳥資料館へ向かった。前に来たのは、キトラ古墳の玄武が展示されていた2年前のことだったと思う。凄い人出だった。
今回訪れたのは、閉館間近だったが、中には熱心な考古学ファンがまだ多くいた。



ここの資料館の素晴らしさは、やはりレプリカも交えながら、飛鳥から奈良への時代の道のりを、わかりやすくビジュアルに展示してくれていることだろう。特に、今回、飛鳥をずうっと回ってきてそう感じる。
この像は、レプリカだが、中に本物が展示してある。この噴水が噴き出る様子は、日本的とは言えない。



この須弥山石もレプリカだが、中に本物が展示されている。本物の方は、三段だけのみ展示されているが。一番下の四段目は、推測で再現されたものだ。どうみても道祖神的なものだったのではないかと思われるのだが。
その他、この辺りで発見された石像は、ほとんどレプリカで展示されているので、まとめて見るにはいいと思う。



これは、山田寺の礎石。飛鳥資料館よりさらに奥まったところにあった山田寺のものだ。山田寺の発掘では、木造の回廊の壁がそのまま発見されており、飛鳥資料館の目玉の展示になっている。今まで腐らずに残ったのは、奇跡と言えよう。

ということで、さらに奥まったところにある山田寺跡にも寄ってみることにした。



山田寺もかつては、このような立派な寺であったそうだが、今では、かろうじて、建物のあった場所が確認できる原っぱになっていた。わざわざ訪れる人もいない。


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ならでぶら 明日香編その14 飛鳥寺

2009年04月26日 | Nara ( Japan )


話を飛鳥に戻そう。
次に訪れたのが、飛鳥寺。前から行きたいと思っていたのが、生まれて初めて訪れた。
何せここに日本一古い仏像があるのだ。



このお堂の中に、大仏はあり、お坊さんが、丁寧に説明してくれる。
お胴は、全体から見ていかにも小さいし、お顔も継ぎ接ぎだらけ。

説明書きにはこうある。

”推古天皇13年(605年)、天皇が、聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609年)鞍作鳥によって作られた日本最古の仏像である。
高さは、約3メートルで当時胴15トン、黄金30キログラムを用いて造られた。平安・鎌倉時代の大火災で全身罹災、後補を受ける。しかし概形には飛鳥彫刻らしい形をとどめ、細部にもかなりはっきりした飛鳥の特色を伝えている。”

確かに、表情など、飛鳥時代の仏像の特徴をよく表している。

仏教が伝えられてから間もないころの意気込みが感じられる。技術的にも、最新のものだったのだろう。
飛鳥寺大仏開眼1400年記念の散華をいただいた。



現在のお胴は、旧中金堂の場所にあるそうで、その正面に、塔があった。その場所がここだが、心楚は、この3メートル下にあるという。



飛鳥寺の周りには、寺の敷地だった場所が広がる。その規模は、法隆寺の3倍もあったという。



そして、その先に、蘇我入鹿の首塚がある。先ほど訪れた板蓋宮でクーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害した後、中大兄皇子は、ここ飛鳥寺に立てこもり、蘇我蝦夷に、降伏を迫ったという。蘇我蝦夷が自害し、クーデターは成功した。
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