雑記。
何を求めるか。練習さえやればそれでいいのか。何を求めて部活動をするのか。ここはそれぞれの立場によって全く違ってくると思います。競技結果を求める。全員がそうであれば理想なのか。競技力さえあればいいのか。ここもかなり微妙な所だと思います。与えられることが当たり前になってしまっている。言われた事だけをやれば良いというスタンスにやりやすい。そうであれば本当にやる事は何か。
「○○先生はやってくれるのに○○先生はやってくれない」という言葉が出てくる。「女子ばかり指導して男子の指導はしない」と批判的な意見が出る。平等ではないという考え方から出てくるのだと思う。本当にそうなのか?県総体に出場する選手と支部大会で終わってしまった選手に対して関わる時間には差が生まれる。上で戦う選手とそうではない選手であればやはり関わり方が変わってくる。そこは不平等なのか。
以前、「テスト期間になんで練習しなければいけないのか」という意見が出たことがある。一部の選手は中国新人に進出するため、練習をする必要がある。目の前に試合がなければ「別にやらなくても良いではないか」という気持ちが生まれる。それを口にする事で強くなろうと練習をする選手にとってはマイナスになる。そうであれば練習をする必要がないというのも選択肢の一つになる。が、競技をしようと思えばやはり練習は積み重ねなければいけない。365日あって2週間連続で練習をしなければさすがに身体が動かなくなる。そしてまた試合に向けて練習をするとなってもかなり後戻りしてしまうことになる。
それでも良いと思う者もいれば毎日積み重ねてやりたいと思う者もいる。集団として「強くなりたい」という水準に合わせるか「身体を動かす」レベルに合わせるか。価値観が多様化するこの時代、学校における部活動であればどちらにも対応することが求められるのかもしれない。集団の方向性をどうするかを考えさせられる。一度「別にやらなくても良いではないか」と思えばその気持ちは消えない。特別な練習をしなくても強くなるのであればそれでも良い。が、やはり継続できる選手にならなければ結果には繋がらない。
人は他者と比べる生き物だと思う。自分が手厚く扱ってもらっているときには何も言わない。が、少し距離ができると「何でやってもらえないのだ」という感覚が生まれる。本来的には「自分でやらなければいけない」部分に対しても「やってもらえない」という批判的な部分が生まれる。
練習メニューを作る。それが当たり前になると「何で作ってもらえないのか?」という考え方になる。世の中、指導者がいない中で自分で練習をしている選手もいる。メニューだけ与えられてそれを消化することを求められる選手もいる。今のようにメニューを与えられ、技術的な部分に対しても細かく指摘される選手もいる。その中で自分の立場が当たり前になればそれ以上のことをやってもらうのが当然のようになる。感謝という言葉はそこには存在しなくなる。
競技者として。そこの感覚を他者に求めるのは難しい。自分自身が競技者としてやってきた事を基準とするとその水準で練習をする高校生なんて存在しない気はする。だから基準値を落として指導をする。段階的に上がっていけるように指導をする。ここも当然の話。
tnk先生と話をしていた。午後から用事があって帰るという選手がいる。そうであればその練習量はどこで補うのか。夕方できないのであれば朝来てからすぐに練習をする。帰宅しなければいけないのであればギリギリまで時間を作って練習をする。これは「競技者」として活動をするのであれば必須だと思う。365日の中で何をするかを考えた時にやはり必要な要素ではないか。そしてその話を毎回毎回するというのでは先には進めないのではないか。そんな話だった。
練習をする。健康づくりのための練習なのかもしれない。競技者として戦うための練習なのかもしれない。自分の力を少しだけでも上げようとする練習なのかもしれない。それぞれが何を求めて練習をするのか。ここはすごく重要だと思う。多様化する価値観だとしても私は指導の中で「今の自分を越えるための練習をする」という部分を大切にしたい。譲れない。競技を通じて何かしらの変化が生まれる。その変化は生活の中でも生きてくると信じているから。
速ければ良いとは思わない。速くてもそれは一時的な話でしかない。それが終わった時に何が残るか。常に考えてやっていかなければいけない。そう思っている。それをどう伝えるか。伝える必要があるか。ここも踏まえて考えていきたい。
まとまりのない文章。とりあえず記しておく。
何を求めるか。練習さえやればそれでいいのか。何を求めて部活動をするのか。ここはそれぞれの立場によって全く違ってくると思います。競技結果を求める。全員がそうであれば理想なのか。競技力さえあればいいのか。ここもかなり微妙な所だと思います。与えられることが当たり前になってしまっている。言われた事だけをやれば良いというスタンスにやりやすい。そうであれば本当にやる事は何か。
「○○先生はやってくれるのに○○先生はやってくれない」という言葉が出てくる。「女子ばかり指導して男子の指導はしない」と批判的な意見が出る。平等ではないという考え方から出てくるのだと思う。本当にそうなのか?県総体に出場する選手と支部大会で終わってしまった選手に対して関わる時間には差が生まれる。上で戦う選手とそうではない選手であればやはり関わり方が変わってくる。そこは不平等なのか。
以前、「テスト期間になんで練習しなければいけないのか」という意見が出たことがある。一部の選手は中国新人に進出するため、練習をする必要がある。目の前に試合がなければ「別にやらなくても良いではないか」という気持ちが生まれる。それを口にする事で強くなろうと練習をする選手にとってはマイナスになる。そうであれば練習をする必要がないというのも選択肢の一つになる。が、競技をしようと思えばやはり練習は積み重ねなければいけない。365日あって2週間連続で練習をしなければさすがに身体が動かなくなる。そしてまた試合に向けて練習をするとなってもかなり後戻りしてしまうことになる。
それでも良いと思う者もいれば毎日積み重ねてやりたいと思う者もいる。集団として「強くなりたい」という水準に合わせるか「身体を動かす」レベルに合わせるか。価値観が多様化するこの時代、学校における部活動であればどちらにも対応することが求められるのかもしれない。集団の方向性をどうするかを考えさせられる。一度「別にやらなくても良いではないか」と思えばその気持ちは消えない。特別な練習をしなくても強くなるのであればそれでも良い。が、やはり継続できる選手にならなければ結果には繋がらない。
人は他者と比べる生き物だと思う。自分が手厚く扱ってもらっているときには何も言わない。が、少し距離ができると「何でやってもらえないのだ」という感覚が生まれる。本来的には「自分でやらなければいけない」部分に対しても「やってもらえない」という批判的な部分が生まれる。
練習メニューを作る。それが当たり前になると「何で作ってもらえないのか?」という考え方になる。世の中、指導者がいない中で自分で練習をしている選手もいる。メニューだけ与えられてそれを消化することを求められる選手もいる。今のようにメニューを与えられ、技術的な部分に対しても細かく指摘される選手もいる。その中で自分の立場が当たり前になればそれ以上のことをやってもらうのが当然のようになる。感謝という言葉はそこには存在しなくなる。
競技者として。そこの感覚を他者に求めるのは難しい。自分自身が競技者としてやってきた事を基準とするとその水準で練習をする高校生なんて存在しない気はする。だから基準値を落として指導をする。段階的に上がっていけるように指導をする。ここも当然の話。
tnk先生と話をしていた。午後から用事があって帰るという選手がいる。そうであればその練習量はどこで補うのか。夕方できないのであれば朝来てからすぐに練習をする。帰宅しなければいけないのであればギリギリまで時間を作って練習をする。これは「競技者」として活動をするのであれば必須だと思う。365日の中で何をするかを考えた時にやはり必要な要素ではないか。そしてその話を毎回毎回するというのでは先には進めないのではないか。そんな話だった。
練習をする。健康づくりのための練習なのかもしれない。競技者として戦うための練習なのかもしれない。自分の力を少しだけでも上げようとする練習なのかもしれない。それぞれが何を求めて練習をするのか。ここはすごく重要だと思う。多様化する価値観だとしても私は指導の中で「今の自分を越えるための練習をする」という部分を大切にしたい。譲れない。競技を通じて何かしらの変化が生まれる。その変化は生活の中でも生きてくると信じているから。
速ければ良いとは思わない。速くてもそれは一時的な話でしかない。それが終わった時に何が残るか。常に考えてやっていかなければいけない。そう思っている。それをどう伝えるか。伝える必要があるか。ここも踏まえて考えていきたい。
まとまりのない文章。とりあえず記しておく。