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時間について

 先日塾の机の中にストップウオッチが忘れてあるのを一人の生徒が見つけた。しかし、塾生全員にきいても誰も自分のものだと名乗り出なかった。本当に誰のものでもないのか、恥ずかしくて言いだせないのか、その辺りは判然としないが、最近の子供たちには、忘れ物をしてもないものと決めつけてしまい、簡単にあきらめてしまう傾向があるように思う。例えば、時々送迎用のバスの中に100円玉が落ちていたりするのだが、「お金が落ちてなかった?」ときかれたことはないし、私が尋ねても自分だと名乗り出てくれたことはない。「100円くらい・・」と今時の子供は思っているのかもしれないが、携帯電話やi-Pod まで忘れてあることもあるから、物を大切にしない子供が多くなっているような気は確かにする。
 このストップウオッチも誰のものか分からないまま、塾の教室の窓枠のところにずっと置いてあったのだが、これを使って少しばかり試してみたいことを思いついた。それは、スタートボタンを押して、「1・2・3.・・」と数えていき、10まで数え終わった時点でストップボタンを押してみる、そんな単純なことであるが、試してみて驚いた。自分ではきっかり10秒だと思ってストップボタンを押したはずなのに、ストップウオッチは9.10秒。なんと 0.9秒も早かった。もう一度やってみようかと思ったが、少しずらせば10秒に近くなるのも当然だからやめてしまったが、自分の感覚としての時間が実時間とおよそ1割も違っていたのは、少なからず衝撃的だった。
 この結果は私の体内時計が、かなり早めに動いていることを表している。これは私が心に余裕がなく、どこか焦っている証拠ではないだろうか。この年になったら、もうゆったりした気持ちで時を過ごせばいいものを、何をするにつけても、「早く早く!」と己を急き立てている自分の姿が如実に表れているようで、思わずギョッとした。都会に住む人間と田舎に住む人間とでは時間に対する感覚が違うとは思うし、都会に住む人間の方が何かとせかせかしているようにも思うが、私のように、都会の喧騒から離れた地方都市に住んでいる者が、のんびり時を過ごせないというのなら、いったい何に対して焦っているのだろう?
 このところ、時が過ぎるのがめちゃくちゃ速い。一週間などあっという間に終わってしまう。自分で何をやってるのか分からないうちにどんどん時間が過ぎてしまう。それはもうだいぶ前からのことであるが、ここ最近はそれに加速度がついたように、本当に時間が過ぎるのが速い。速すぎる!! 私に残された時間がどれだけあるのか分からないが、いくらあってもこんな感じで時間が過ぎて行ってしまえば、最期を迎えるのもさほど遠くないはずだ、そんな実感がひしひしと襲ってくる。別に取り立ててなすべきことがあるわけではないが、残された時間がこんな感じでどんどん減っていくのはさすがに困る。どう困るのか、具体的なことは何も言えないが、とりあえず困る。そんな感覚でここ最近は毎日を生きているから、知らず知らずのうちに心の中で焦っているのかもしれない。焦ったところでなにも改善しないのも重々承知の上で焦っているのだからどうしようもない。
 知り合いの年長者から「20歳を過ぎたら、時間が過ぎるのが恐ろしく速いよ」と言われてもう30年も経ったのだから、時間のスピードが壊滅的に速くなるのも仕方のないことだろう。だが、それもすべて己の感覚のなせる技だ。50歳の私に流れる時間と20歳の息子に流れる時間は物理的には同じはずだ。ただ、この先いくらでも時間が有り余っているように思える息子と比べれば、確実に30年は残り時間が少ない私が同じ感覚で時間を過ごせるはずもない。感覚的時間が違うのはどうしようもない。かと言って、20歳の頃の心持ちに私がなることなど不可能だから、もうこうなったら適当に折り合いをつけることしかできない。だが、その按配をどうつけたらいいのかを、今はまだ模索中といったところなのかもしれない。
 だが、そんな折り合いなどつけられぬまま死んで行くような気もする。それならそれでも私らしいし、なにも後悔などしないだろう。ぐだぐだ思い悩みながら生きていくのが私の唯一できる生き方なのだろうし、そんな生き方こそが本望なのかもしれない。悟りたいなどと思わないが、そう開き直ることができたらいいな、そんな気はしている・・。。
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