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「おちおち死んではいられない」

 「おちおち死んではいられない この国はどこへ行こうとしているのか」(毎日新聞社)を読んだ。これは毎日新聞夕刊に2007年6月から1年間連載されたインタビュー記事を集めたものだが、最年長1907年生まれの禅僧・松原泰道さんから一番若い1934年生まれの免疫学者・多田富雄さんまで総勢48名(平均年齢84歳)の言葉を掲載している。私は毎日新聞の読者として、このうちのいくつかを夕刊紙上で読んだ記憶がある。だが、仕事柄なかなか夕刊をゆっくり読む時間がないので、初めて読むインタビューも多く、どの人の言葉にも含蓄があって、一つも疎かにできないと思った。「おちおち死んではいられない」とは、少しばかり穏当さを欠いた表題のようにも思えるが、登場する人々がそんなことなど気にもかけず、自分の人生を振り返りながら、ぜひ言っておきたいことを忌憚なく発言しているため、「遺言」などではなく、同じ時代に生きる後輩たちへの苦言・進言のように感じられる。
 インタビューの時期が安倍内閣から福田内閣へと移行する頃であったため、安倍の「美しい国」という空疎な言葉に隠された危うさを指摘する言葉や、福田のどこか他人事のような政治運営を憂う言葉も見受けられ、戦争を体験してきた世代の物の見方・考え方が率直に述べられていて、心打たれることもしばしばだ。ほとんどの人が戦争体験を口にし、それが彼らのその後の人生の方向を決定したと語るのだが、人それぞれにその方向が違うのは人間の思考や感受性の多様性を見るようで興味深い。特に中曽根康弘・大勲位と田英夫・前参議院議員のベクトルは、戦争体験という同じ始点をもちながらまるで正反対に向かってしまった。それはそれぞれの資質によるものかもしれないが、それだけでは簡単に言い尽くせないものがあるように思う。

 中曽根は戦争で、弟を含んだ多くの戦友を失ったこものの、「敗戦によるマッカーサーの占領政策で日本が運命づけられた。屈辱を覚えた。日本の歴史に汚点を残してしまった慙愧の念。一日も早く非日本的な体系を正さなければいかん、そう考え」て、自主憲法制定へと突き進んできたと述べる。
 一方、田はベニヤ板製のモーターボートに爆弾を積んで自爆攻撃する特攻隊に配属されるも出陣することなく8月15日を迎えた。「特攻隊にいた事実は今の考えと矛盾するんだ。『即、死ぬ』ことだし、戦争に賛成したわけだから。だけど、あのわずかな終戦直後の時間に我々は『この国は二度と戦争をしない』という新憲法を作った。これによって、僕は態度を変え」、それ以来一貫して「護憲」「反戦平和」を訴え続けてきたと言う。
 この二人のインタビューを読んで、ともに激烈な体験から己の進む道を選び取り、それを信念としてその実現のために邁進してきた生き方は、どちらが良いか悪いかの次元を超えた、普通の人間にはとても真似のできない、一本芯の通ったものだと思った。己の中に核となる体験を持っていないことをずっと自分の弱さの源のように感じてきた私にとっては、ある意味羨ましくさえある。(同時に、戦争体験を持たずに生きてこれた自分の幸せを感じもするのだが・・)

 こうした謂わば長老からのメッセージに触れるたびに、畏敬の念とともにそれをしっかりと実践していくことができそうもない己の力不足を痛感する。だが、よく考えてみれば、これら長老たちでも上の世代から受け継いだ人間の知恵と言うべきものを十全に達成できなかったからこそ、私たちに残しておくべき言葉があるわけで、彼らとて心残りはいくらでもあるだろう。ただ、そうした後悔もすーと飲み込んでしまえるだけの恬淡さを持ち合わせ、人間としての深みを増してきたからこそ、彼らの存在は輝いて見え、その言葉は重みを持つのだろう。それが「年輪」というものであろうし、その「年輪」の豊かさを私たちが感じとって、少しでも悔いの残らない人生を歩もうとするなら、彼らからのメッセージのいくらかは受け取ったことになるのではないだろうか、そんな読後感を持った。

(ただ、聞き手によって表現の仕方にムラがあって、もっとうまく話を引き出して欲しかったなあ、と思うインタビューもあったのは少し残念な気がした)
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