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「グローバル恐慌」

 新聞・TV、どのマスコミを見ても今や不況の話題ばかりで、気が重くなる。過去最悪の数字ばかりが並び、うんざりするほど暗い話でいっぱいだ。出口などどこにも見えない底なしの泥沼にはまり込んだような、まさに depression に押し潰されそうで、なかなか元気が湧いてこない。
 塾だって景気に左右されないわけがない。ただでさえ少子化で生徒数が減少している現在、親の経済状況が悪化すれば先行きは不安だらけだ。ただ毎日コツコツ自分にできることを積み上げていくことしか頭に浮かばない、経営者としては無能な私では、こんな苦境を打開する方策などなかなか思い浮かばない。まあ、元々経営者などという意識を持たずにずっとやってきたから、今更じたばたしたところでどうしようもないのは分かっている。でも、この状況の説明くらいはできるようにしておかねば、生徒から時事問題などで質問を受けた場合に困ってしまう。そこで、浜矩子「グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに」(岩波新書)を読んでみた。
 元来、社会科学の分野にまったく興味を持たずに生きてきた私は、経済の仕組みについてはまったく疎い。それでも昨年来のガソリン高に悩まされたお蔭で、ガソリン価格の高騰が引き起こされたメカニズムを怒りに任せて少しばかり勉強した。その時に、金融経済と実態経済の乖離が進み、金融が暴走したマネーゲームの皺寄せを私たちに押し寄せた、という構図をおぼろげながらも把握できた。そのためか、本書を読んでいても経済音痴であったはずの私が、かなりの部分まで理解できた。とは言え、やはり細部には私の理解を超えた記述があり、基礎的知識の不足を嘆いたりしたが、自分なりに本書が定義する「グローバル恐慌」の何たるかを以下にまとめて、より深い理解が得られるようにしてみようと思う。

 筆者は恐慌を『これ以上は膨らむことが出来なくて、これ以上は歪むことが出来ないところまで歪んだ経済活動が、過激に自己矯正に出る。その勢いに圧殺されて、経済活動は急激に縮む。このプロセスが恐慌だ。その意味で、恐慌という現象は経済活動の自己浄化作用がもたらすものだといえる』(P.118)
と定義し、現今の金融恐慌を
 1.世界同時多発的に進行している。
 2.モノとカネが決別する構図の中で展開している。
 3.管理通貨制度下で発生した。
という点で、過去の恐慌とは相違点を持っているため、「グローバル恐慌」と呼び、この恐慌が起こった歴史的過程を次のように概観する。
 
 「1971年にアメリカがドルの金交換停止を発表した、いわゆるニクソン・ショックにより、ドルを基軸とする通貨体制が崩れ、アメリカはインフレ経済化した。インフレ率が2桁もあれば、金利も2桁になるのは当然で、高金利化が進むが、預金金利はグラス・スティガル法により上限が制限されていたため、資金は貯蓄よりも投資に回るようになった。そのため商業銀行は大量の預金流失に見舞われ、信用創造が行き詰まり経済活動が立ち行かなくなり、預金金利を自由化せざるを得なくなり、法律を撤廃する。これによって、いかに高利回りで、いかに利便性の高い運用手段を顧客に提供できるか、銀行と証券会社との間で激しい競争が繰り広げられ、その過程で債権を証券化するという手法が考案されることとなり、ついにはサブプライム・ローン証券化へとつながっていく。
 このようにモノの世界から遊離したカネの世界が、金融の自由化とIT化・証券化により、さらにはヘッジファンドと投資銀行の後押しによって一人歩きし始め、グローバル化しながら、次第にその足取りが早まり、慌しさを増していって、制御不能な暴走を続けた果てに起こったのだが、現今のグローバル恐慌である」

 200ページ余の書物をこんな字数でまとめる無謀さは承知の上だが、私が読み取ったのは以上のようだ。だが、「グローバル恐慌」が決別したはずのモノの世界へと伝播し、大不況に発展していったのは何故だろう?
 それは、マネーゲームが増殖を続ける状態では、モノの世界とは関係なくカネの世界は暴走し続ける。そのため、ついに暴走が転倒につながった時、その衝撃がモノの世界に一気に縮減圧力をかけ、世界的規模で生産・仕入れ・販売のネットワークの中に組み込まれた企業が揺さぶられ、あっという間に大不況に陥ってしまったからだ。
 
 金融とは人が人にお金を融通することであるから、金融とは信用であるはずだ。だから、「グローバル恐慌に至る過程では信用とは無関係なところで金融が膨らんでしまった」、「カネはモノと決別したばかりではない。ヒトともたもとを分かってしまった。相手の顔が見えない。相手が誰だか解らない。したがって、信用するも何もない。金融が信用でなくなった」(P.197)という筆者の指摘は納得できる。だが、結局はこうした状況を生み出したのは人間の限りない欲望だ。際限なく肥大化していく欲望を誰もが押しとどめることなく、肥大化するままにしておいた結果が現今の恐慌であり、しかもそれが大多数の欲望が暴走した挙句のものではなく、少数の者たちの欲望が膨れ上がった結果であり、その尻拭いをこれから何年もかかって、私たち大勢が必死にしなければならないとするなら、まったくもってばかげた話であり、怒りがこみ上げてくる。だが、その辺りに対する筆者の舌鋒に鋭さを欠いた印象を受けたのは少し残念だった。
 
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