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勇気

 昨日、日本が韓国に勝ち、これでWBC決勝トーナメント準決勝をアメリカと戦うことになった。一昨日の韓国戦に惨敗したとき、正直これでは危ない、と思ったが、気持ちを切り替えてよくぞキューバ戦、韓国戦と連勝してくれた。この結果は日本チームが技術面だけでなく、精神的にも優れたチームであることを証明したものであるから、アメリカを相手にしても怯まず戦い、必ずや勝ってくれるものと期待している。
 よくスポーツ観戦した後、「勇気をもらった」というコメントを聞くが、私はこの表現が好きではない。勇気は自分の心の中から湧き上がってくるもので、他人から与えられるものではないはずだ。この表現を突き詰めていくと、「誰からも勇気をもらえなかったから自分は失敗した」などという考えに通じるように思う。そんな他動的な言葉を使うのは、困難に自力で正面からぶつかって行かねば何も解決しない状況を曖昧にしてしまい、責任の所在をぼやかしてしまうようで、どうにも好きになれない。
 だが、この日本の戦いぶりを見ていると、どんな困難にも己の力を信じて立ち向かっていかねばならない大切さを改めて教えられたように思うのも確かである。こういう場合に、「勇気をもらった」と言う人が多いのだろう。気持ちは分からなくもないが、どうしてもその表現は気に入らない。彼らの姿を見ていて、「自分も頑張ろうと勇気がわいてきた」「勇気づけられた」と言うのがふさわしい表現のように思うし、その方が刺激を受けた心が発奮して、自力で力を漲らせた感じがするように思う。「勇気はもらうものではなく、自分で起こすものだ」、そんな気がする・・。

 とか思いながら、試合を見終わって家を出たら川に鴨がつがいで泳いでいた。たまたま持っていたカメラで写真を撮ってみたら、鴨の姿と一緒に、土手に咲いていたうす紫の花をつけた野草が写っていた。


 こんなところに一本だけ咲いているなんて、不思議な気がして近づいてみた。川岸ぎりぎりの所に咲いている。何の花だろう?

 
 
 野草図鑑で調べて、ホトケノザかなと思ったが確かにそうだとは言い切れない。野草の名前を見つけるのはなかなか難しい。
 こうした草花を見るたびそのけなげさとともに、生命力の強さを感じる。ならば、これらを見て、「勇気をもらった」と言う人はいるだろうか? 普通の花壇と比べれば生育条件はかなり苛烈だと思うが、それでも枯れることなく花までつけてしまうのだから、その逆境に負けない力から「勇気をもらう」ことはできるはずだ。だが、この花から「勇気をもらった」と言うのはいくら擬人的表現とは言え、少し度が過ぎるように思う。まだ、「勇気づけられた」「勇気がわいてきた」と言った方が、主体と客体との関係がはっきりしていて、妙に技巧的な表現でもなく、見る者の心情をストレートに表現しているように思う。「勇気をもらった」と言うのは、自分が見た物から刺激は受けたものの、それが心の中でどう発展したかまでは表現していないように思う。それとは逆に「勇気づけられる」「勇気がわいてきた」は、その受け取った刺激がどう昇華されたかまできちんと伝えている表現だと思う。やはりこちらのほうが明晰な表現だ。

 こんなことをグダグダ書いても仕方ないのだが、このところスカッと元気よくいけない日々が続いているので、何か自分を鼓舞してくれるものを探しているうちに、こうした瑣末なことにこだわってしまうのかもしれない。ちょっと反省・・。
 
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