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丸ごとしっとり“縄文のサケ” アイヌ民族の手法取り入れた燻製職人・市川茂樹さん 長老に感銘「私の最終形」

2021-01-09 | アイヌ民族関連
北海道新聞 01/09 05:00
 豊かな食文化を育んできた薫製。古くから受け継がれ、道内でもさまざまな人が手掛けている。中には縄文時代をイメージした薫製に取り組む職人もいる。岩見沢にある市川燻製(くんせい)屋本舗の社長、市川茂樹さん(65)。アイヌ民族のエカシ(長老)に教わったという調味法に独自の工夫を加え、エゾシカ肉の薫製を商品化している。現在はサケに挑戦中の市川さんに、新たな試みへの思いなどを聞いた。
 ――縄文時代の薫製に取り組むきっかけは。
 「4年前、阿寒湖温泉のホテルの顧問だった男性との出会いです。当社を訪れた男性に『アイヌ民族の知人を通じ食べたエゾシカ肉の薫製が忘れられない』と商品化を頼まれ、男性の知人のエカシに伝統のスモーク法を教わりました。昆布を調味液に使い、食材のうま味を引き出し身を軟らかくするのが特徴。エゾシカ肉の処理の認証を持つ(上川管内)南富良野町の食品加工会社の協力を得て約1年後に商品化しました」
 ――アイヌ民族のスモーク法が、どう縄文時代の薫製につながるのでしょう。
 「エカシからは自然と寄り添って生きた縄文時代の人々の暮らし方の思想も教わりました。『自然界への畏敬の念を忘れず、物を分かち合い、取り尽くさない姿勢が大事だ』と。感銘を受け、縄文をテーマにした薫製に取り組もうと決めました」
 ――縄文時代はどのように薫製したのですか。
 「約1万年前とされる鹿児島県上野原(うえのはら)遺跡には、大小二つの穴をトンネルでつなぎ大きな穴で火をたき、煙が通る小さな穴の上で食材をいぶしたと推測される施設があります。私の薫製機も似た造りで、薫製室の外側に管で連結した燃焼室があり、チップを燃やした煙をファンで薫製室に送ります。縄文時代は魚を切らず焼き魚のようにいぶしたと思うので、私も今回はサケを丸ごと薫製にしています」
 「チップの木材はアイヌ民族が木彫りに使うエンジュやミズナラで昔から道内にあるもの。サクラやマツと比べ香りが爽やかです」
 ――縄文時代にはない工夫もしているとか。
 「サケはうま味を残してしっとりとした食感にするため煙の温度を30度以下に保ちます。1時間半いぶした後、煙の中で1時間休ませ、それを1日4回、最低2カ月は繰り返す予定です。通常の薫製と比べ時間は2倍以上。毎朝、日本酒や酢、昆布を合わせた調味液をサケにしみこませています。完成予定は今年3~4月。エゾシカ肉をいぶす煙の温度は80度で、30分間スモークし30分間休ませる作業を1日4回繰り返します」
 ――縄文時代の製法以外でも、いろいろな食材を薫製にしていますね。
 「『地域の特徴ある名物を作りたい』と考えて製造したジャガイモやタマネギの薫製のおいしさに驚き、『この食材を薫製にしたらどうなる』と考えるようになりました。地元産の豆腐やチーズ、大豆や落花生、コーヒー豆も薫製にしました。私の挑戦の最終形は縄文薫製になると思う。当時食べられた貝類や雑穀も薫製にしてみたいです」(編集委員 町田誠)
<略歴>いちかわ・しげき 1955年、岩見沢市生まれ。スモークサーモンを作る札幌の水産加工会社で25年間勤め2005年に退職。JR岩見沢近くにあった父の乾物店を引き継ぎ、08年に現在地へ移転。09年に市川燻製屋本舗を設立した。
<メモ>市川燻製屋本舗 岩見沢市大和3の5の29、(電)0126・20・0300。不定休。エゾシカ肉のスモークは40グラム1350円で通販可。サケの薫製は価格未定。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/499356

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【第8回】横濱開港のインパクト(前編)

2021-01-09 | アイヌ民族関連
東証マネ部 2021/01/09 17:00
この記事は、連載シリーズ「歴史的な視点で経済、市場を学ぼう」の第8回で、2020/11/28(土)配信「【第7回】江戸時代の経済(商業・流通)の基本的な仕組み(前編)(後編)」の続きです。
1. 横濱開港
徳川政権は、長崎(オランダ、清)、対馬(李氏朝鮮)、薩摩(琉球王朝)、あるいは松前(アイヌ)といった玄関口のみでしか国交・貿易を認めていませんでした。この体制が1854(嘉永7)年の日米和親条約の締結によって終止符を打ちます。さらに1858(安政5)年、日米修好通商条約により横濱が開港しました。
開港する前の横濱村一帯は風光明媚なのどかな漁村でしたが、条約締結後に横濱町と改称され、山を削り海を埋め立てて次第に増殖していくことになります。横濱町には多くの外国商館が居を構え、その数は当初150にのぼりました。
横濱の開港は、商人にとって願ってもないビジネスチャンスでした。日本の商人は外国での取引ができなかったため、港で外国商人と取引します。日本の主力輸出品となったのは生糸です。太平天国の乱により中国産の生糸生産が停滞したことで、日本の生糸需要が高まります。この生産を支えたのが座繰技術でした。
一方で、京都の和糸問屋を頂点とした江戸の糸問屋を中心とする従来の生糸流通機構は完全に解体されていきます。1これに代わるのが、横濱の外国商館に生糸の売込みを行う「生糸売込商(問屋)」でした。
1「日本蚕糸業研究」石井寛治 東京大学出版 1991
そして、海外との巨額の貿易にともなって、日本の貨幣と外国貨幣の両替業が誕生し、横濱で両替が行われるようになった1862(文久2)年頃からは、この両替業は横濱が中心になります。これも新しいビジネスチャンスとなり、生糸売込商とともに、新しいビジネスパーソンがここから数多く誕生し、その後の明治経済の中核を担っていくことになります。例えば、古河市兵衛、原善三郎、茂木宗兵衛、若尾逸平、幾造兄弟、田中平八、雨宮敬三、今村清之助という人物です。
2. 幕末から明治初期の生糸売込商の活動
明治9年に改正された国立銀行制度によって日本全国に国立銀行が153行も設立されていき、そして、これらの国立銀行設立と日本への株式会社制度導入、株式市場設立は深い関係があることは次回以降に詳しくご説明しますが、このような明治初期の銀行制度、株式会社制度という金融システムの発展と全国展開の契機となったのが、横濱開港による生糸輸出の為に必要な荷為替金融であったことをここで説明します。(日本の金融市場を語る上で、横濱開港から語る理由はここにあるのです)
初期の生糸売込商人は上図の様に、外国商館に出入りして情報を収集し、調達した現金を抱えて生糸産地に乗り込み、生産者の生産コストを支援する資金を貸付けて生糸の販売委託契約を取り付け、生糸を預かって横濱に戻り、外国商館と交渉してこれを販売し、貸付金と販売費用を清算するという仕事をしていました。
販売委託ではなく、単純に産地で買付けて横濱で販売しただけでは?と思われるかもしれませんが、売込商は生糸の保管手数料や貸付金利を販売代金の中から差し引いていましたから、あくまでも委託販売なのです。生糸を生産する為には設備投資が必要で、誰かがその資金を用意する必要があり、それを生糸売込商自らがリスクを負う形で担っていたのです。図には書いていませんが、為替リスクも負っていました。生糸売込商のなかには両替商(江戸期従来の両替商との混同を避けるために以降、弗屋という)との兼業も少なくありませんでした。
このように、生糸売込商の商いは、高いリスクにさらされていました。開港当初、100人程度だった売込商ですが、明治20年まで残ったのは数えるほどでした。一方で、彼らのリスクテイクなくしては、日本の主要輸出産業となった生糸産業が立ち行きません。ですから、それらのリスクやコストの削減は重要でした。特に、産地と横濱間を大金と生糸を抱えて移動する等の資金決済面での取引コストの削減は強く求められていたのです。(後編に続く)
※このお話は、横山和輝名古屋市立大学経済学部准教授の協力を得て、横山氏の著作「マーケット進化論」日本評論社、「日本史で学ぶ経済学」東洋経済新報社 をベースに東京証券取引所が作成したものです。
(東証マネ部!編集部)
<合わせて読みたい!>
横濱開港のインパクト(後編)
https://news.goo.ne.jp/article/money_bu/life/money_bu-28454.html

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絶版なのが惜しい!第三者視点で妖怪漫画の大家の「尋常じゃなさ」が明らかになる『水木しげるの大冒険』

2021-01-09 | 先住民族関連
本がすき 1/8(金) 18:00
本屋を始めて十年と少し、ずっとオススメしたかったのに一度もできていない『水木しげるの大冒険』。その理由は、初読時すでに絶版で新刊書籍として注文できなかった上、古本でも全く見かけなかったため、おすすめしても読める機会が少ない本だから。……というのもありますが、むしろ面白すぎて、小田和正さんの言葉を借りれば、「何から伝えればいいのかわからないまま時が流れて」しまったから!
この本を一言で説明するならば「尋常じゃない本」で、もう少し詳しく説明すると、「尋常じゃない人たちが、尋常じゃない事を探求した、尋常じゃない面白さの本」。然してその実態は「水木しげるご一行(含む、『ムー』編集者)が夢を操ると言われるマレーシアの先住民族・セノイに会うため、彼らに何度も取材していた大泉実成のアテンドで、共にマレーシア奥地のジャングル地帯に冒険旅行に出かけた際の、衝撃的に面白い探検記!」となります☆
ちなみに著者の大泉さんはこのマレーシアを皮切りに、オーストラリアやメキシコなどにも同行している「探検旅行 with 水木しげる」のいわばスペシャリスト! そんな大泉さん目線で書かれた旅行記は、ご本人は普通のことだと思って書かない「水木サンの行動」を、あるがままにレポートしてくれているところが最高です。「水木サン的スルーポイント」は、大体において「世間における大爆笑案件」なので、読んでいると笑いがこみ上げ大変幸せな気持ちになってくるのですが、多幸感が過ぎてちょっと空恐ろしくなってしまうくらいです!
例えばマレーシアでの夕食後、夜店の連なるマーケットに出かけようとする水木サン。「夜店の主は海千山千の華僑ばかりで、いつも金満日本人から金を巻き上げてやろうと手ぐすねを引いている」ため、心配したカメラマン(吉田さん)が水木サンのあとをついて行ってみれば……。
水木さんは中華菓子の屋台にフラフラと近づいていくと、いきなりお菓子の箱をバコッと開け、電光石火のスピードで菓子を鷲掴みにしてパクッと喰った、という。そして、
「こりゃうまくないなー」
とひとこと言い残すと、あっという間に人波の中に消えていってしまった、というのだ。しかも一銭も払わずに(ひょえー)。吉田さんはあっけにとられてその場面を見ていたが、もっとあっけにとられていたのが、海千山千のはずの屋台の中国人である。今自分の目の前で何が起こったのかよくわからないといった顔で、うつろな目で口をぽかんと開け、立ちすくんでいたという。
……みたいな、普通の日本人観光客ならしない(というか、地元の人だってそんなことはまずしない)ような水木サンの言動の数々がここにはきちんと記されています(余談ですが、うまければ買う)。が、どれだけ他の人にとってはオドロキの行動であっても、水木サンにしてみれば屁でもないことなのです。 だから、もしこの冒険旅行のことを水木サン自らが書かれていらっしゃったとすれば、このエピソードは省かれていたかもしれません。それはもったいなさすぎる!
ところでずっと「水木サン」と書いているのは、水木しげるさんの一人称が「水木サン」だからです。「私」とかそんなノーマルなことではないのです!(ちなみに「僕が子供の頃は」を水木しげる語に変換すると、「水木サンがベイビィの頃は」となります。あっぱれ!)
……と、話はそれましたが、日本でもマレーシアの街中でもジャングルにおいてさえ、そして相手が日本人でもマレー人でも華僑でもセノイであっても自らの存在としては何も変わらない、水木サンの清々しさよ! なんなら暴挙(イスラム教徒の真っ只中で素っ裸の沐浴)と言ってもいいようなことをしている時も、赤子のような無邪気さを放つ水木サン。一方で、ちゃっかりしているところはしている水木サン。いついかなる時も、彼は水木しげる以上でも以下でもなく、相手によって変えるとか場所によって変えるとか、そういうのが一切、ないんだなぁ!
その潔い在り方に感銘を受けつつ、時に非常に高い徳を積んだ僧侶も斯くやとばかりの受け応えをされる水木サンの「お化け」や「精霊」に関しての考察はもちろんのこと、「音」に関する鋭い指摘にも「ハッ!」とすることしきりでした。
そんな笑いも叡智も詰まった『水木しげるの大冒険』、ぜひともたくさんの方にお読みいただきたいです!
※『水木しげるの大冒険』は改題のうえ、『水木しげるの妖怪探険 マレーシア大冒険』(講談社)として文庫化されていますが、こちらも現在、品切れ重版未定となっています。
この記事を書いた人 坂上友紀
2010年大阪の中崎町で本屋を始める。2012年大阪の堂島に移転、現在に至る。好きな作家は井伏鱒二と室生犀星。尊敬するひとは、宮本常一と水木しげると青空書房さんです☆ 現在、朝日出版社さんのweb site「あさひてらす」にて、「文士が、好きだーっ!!」を連載中。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e40fa28820f2a4fd1613de7b26f30cb878f21c22

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