gendai.ismedia.jp02/02 崎山 敏也TBSラジオ放送記者
私たちは「日本の先住民族」なのです
アイヌといえば、「北海道に住んでいる」というイメージを持っている人も多いかもしれない。だが現代の日本では、首都圏をはじめ道外で暮らすアイヌも数多い。
アイヌの人々は、今の世の中を、自分たちのアイデンティティをどんなふうに見ているのか。TBSラジオ記者で、彼らを長年取材する崎山敏也氏によるルポ。
まるで「習い事」のようだった
「10歳までは、北海道の釧路に住んでました。親の離婚の関係で、母親が5人の子供を連れて、東京に出てきたんです。祖母たちが先に東京に出てきて仕事をしていたんで、それを頼ってね…」
川崎市の専修大学生田キャンパス。2017年12月、文学部の授業「多文化社会と共生」のゲストスピーカーとして、宇佐照代さんは呼ばれました。宇佐さんは岡田紅理子講師の質問に答える形で、50人ほどの学生たちへ話し始めました。
宇佐さんは東京に暮らすアイヌの女性です。都内でアイヌ料理を出す店を経営し、歌や踊り、刺繍などアイヌ民族の文化を伝える活動もしています。
授業ではまず岡田講師が、日本の先住民族であるアイヌが和人(アイヌ以外の日本人)と出会い、明治時代に近代国家としての日本に組み込まれ、現在に至るまでの歴史を説明しました。
そして、アイヌ語の短編アニメ『七五郎沢の狐』を上映。主人公「狐の神(カムイ)」の声を担当するのは宇佐さんです。「まだまだアイヌ語は勉強中」という宇佐さんですが、日本語とは全く違うアイヌ語の響きが教室の中に流れました。
「母は小さい頃から働いていて、学校にもろくに行けなかったんですが、東京の方が仕事もあるので、何とか子供たちを育てることができました。
祖母が元々、東京に出てきたアイヌの人たちを集めて、歌や踊りをやったり、なつかしい話をして故郷を想う会を開いたりしていたので、そこに私たち子供も混ぜてもらったものです。
一緒に出かけたり、美味しいものを食べたり、お小遣いをもらったり。でも、習い事やって楽しいな、という感覚で、民族のこと、難しい話題は子供ながらに避けていました」(宇佐さん)
「誇りを持って生きて」と訴えた祖母
大人になり、知人から「アイヌ語は話せないの?」「アイヌ独特の刺繍は自分でやったの?誰がやってくれたの?」と聞かれることが増え、刺繍や木彫りなど、もっとアイヌの文化を知らなくてはと思うようになった頃、宇佐さんの祖母が入院しました。
「私は祖母が入院した病院に通い続けていたんですが、ある時、祖母のお友達のおばあちゃんが来て、祖母の耳元でアイヌ語を話していたんです。
いろんな活動をしていた祖母ですが、アイヌ語が話せるというのは知らなくて、そのおばあちゃんに『アイヌ語を話せるの?』と聞いたら、『あんたのおばあちゃん、いくつだと思ってるの』と言われたんです。
その時、『そうか、アイヌとして生まれて、周りもアイヌだらけで、アイヌ語を話せないわけがないよな』ということに気付きました」
祖母がアイヌ語を話せることを知らなかったショックもありましたが、
「アイヌ関係のいろいろな活動をやって、私たちにもアイヌ文化を知ってほしいと思っていた祖母が、アイヌ語を私たちに教えなかったというのもショックでした」
宇佐さんは、祖母が亡くなる前にいろいろ聞いておかなければと、三ヵ月後に亡くなるまでの間、アイヌの文化のことや祖母のルーツを祖母に聞いたり、自分でも調べたりしました。
そして、亡くなる少し前、
「祖母は私の手をとって、『民族の誇りを持って生きていくと発表してください』と、横になったまま言ったんです。え、ここで?と思ったけど、わかったよ、と言って、祖母の手をとって『テルは民族の誇りを持って生きていくよ』と言ったら、祖母は目をつぶったまま笑ってくれたんですよ」
首都圏にも大勢暮らしている
独自の言語や文化を持つ、日本の先住民族「アイヌ」。そもそも、彼らが北海道外、特に首都圏に大勢暮らしていることはあまり知られていません。
アイヌは江戸期まで北海道、樺太、千島、本州北端に先住し、固有の文化を発展させていましたが、明治時代になると日本政府の開拓が本格化し、アイヌ居住地に本州から和人が大勢移り住みました。
政府はアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、伝統的に利用していた土地を取り上げ、サケやシカの猟を禁止しました。こうした和人社会への同化政策の結果、アイヌの人々は困窮しました。
そこで、1899年には「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌに土地を与えて農民化を促し、日本的教育を行なうことで、窮状から抜け出させようとしました。
しかし、アイヌ固有の生活文化は否定され、さらに与えられた土地は和人の開拓民に比べて圧倒的に狭く、苦しい状況は改善されたとはいえませんでした。出稼ぎのため、また差別から逃れるため、北海道外へ移り住んだ人は少なくありません。
北海道に暮らすアイヌは、2013年の調査によれば6880世帯、16786人です。一方少し古いデータですが、1989年の東京都の調査によると、都内には2700人が暮らしているとされます。もっともこれは自己申告の調査のため、もっと多い可能性は十分にあります。
自分がアイヌであることを親から知らされていない人や、ルーツを隠して暮らしている人も少なくないとみられます。首都圏では少なくとも5000人~1万人が暮らしていると、首都圏で活動しているアイヌの団体は推定しています。
北海道以外で唯一の「アイヌ料理店」
戦後、様々なアイヌの団体が生まれました。首都圏では1964年9月、東京の和人の大学生とアイヌ民族の若者が阿寒湖畔で出会ったのをきっかけに、アイヌと和人の友情を深めようと「ペウレ・ウタリの会」が結成されました。
「ペウレ・ウタリ」は「若い仲間」という意味です。会員は「『友情をもとにし』『理解し親睦を深め』『無知と偏見』のない社会を築こうとする」姿勢を守り続けて来ました(「ペウレ・ウタリの会 50年記念誌」まえがきより)。
また、1972年には東京在住のアイヌの女性が新聞に「ウタリ(同胞)たちよ、手をつなごう」と投稿し、反響を呼び、様々な活動がそこから生まれました。宇佐さんの祖母も、その動きに続いたアイヌの一人だったのです。
宇佐さんの話は、2011年から経営するアイヌ料理・北海道創作料理のお店「ハルコロ」にも触れました。「ハルコロ」があるのは、新宿区の多国籍タウン、新大久保。店名の由来は「ハル(食べ物)」と「コロ(持つ)」で、「たくさんの食べ物で豊かに」という願いを込めました。
ジャガイモやかぼちゃの「シト(団子)」。サケを具にした「オハウ(汁物)」。キハダの実で苦味をつけた、かぼちゃの「ラタシケプ(和え物)」。イクラを混ぜたハッシュドポテト風の「チポロイモ」。キトピロ(行者にんにく)やユク(エゾシカ)、サケなど北海道の素材を使った創作メニューも多数並びます。
「ハルコロ」は、北海道外では唯一のアイヌ料理の店とみられています。東京には以前「レラ・チセ(風の家)」という店がありましたが、2009年に閉店。母と共に関わっていた宇佐さんが、アイヌの味を伝え、広げる場をなくしたくない、首都圏のアイヌが仲間と集まる場を維持したいと開いたのがハルコロなのです。
『ゴールデンカムイ』のおかげで…
筆者がお店に立ち寄ると、取材を通じて知った首都圏のアイヌの人たちとよく遭遇します。宇佐さんの5歳の娘も出迎えてくれます。
宇佐さんは言います。
「仰々しく入りづらいところにしたくなくて、食べたり飲んだりしながら交流してもらいたいんです。
この間、酔っ払っているおじいさんなんですけど、私が店の玄関にいたら、こっち見てにこにこしているんです。『お父さん、ウタリ?』と聞いたら、にこにこして、ずっと私の手を握ってしゃべってるの。酔っ払っているから半分何言ってるかわからないんだけど。
『お父さん、今度、ご飯食べに来てね』って言ったら。『うん』って言って、よたよたしながらどこかに帰っていった。そういうつながりを生みたくて、頑張っているんです」
アイヌだけでなく、アイヌの文化に興味がある人、何らかのきっかけでつながりを持った人、北海道に住んでいたことがあって、懐かしくて訪れる人――ハルコロには色々な人が集まります。一人でふらっと立ち寄り、相席させてもらうことが多い筆者も、ハルコロでずいぶん知り合いが増えました。
「最近は」と宇佐さん。「マンガの『ゴールデンカムイ』が人気だったりして、その中に出てくる料理を食べるオフ会を若い人がやったり、作者の野田サトルさんのサインもお店に飾ってあります」
『ゴールデンカムイ』という言葉が出た瞬間、私の後ろに座っていた女子学生2人が「おっ」と小さくつぶやきました。
その2人に授業が終わった後、「好きなの?」と聞くと、「私たちの間では、お昼を食べる時とかに『ヒンナヒンナ(食事に感謝するアイヌの言葉)』って言うのが流行ってます」という答え。2人はそのあと、宇佐さんに「ハルコロにはどんなメニューがあるんですか?」と色々尋ねていました。
『ゴールデンカムイ』は明治の北海道を舞台に、元軍人がアイヌの少女と一緒に繰り広げる冒険活劇マンガで、大ヒット中。今年4月にはアニメの放送も始まります。
確かにハルコロでも、ここ最近、若者のグループを見かけることが増えました。皆さん、神に供える「イナウ(木幣)」や、アイヌの楽器「トンコリ」などを珍しそうにみています。宇佐さんが、リクエストに応えてアイヌの楽器「ムックリ(口琴)」の響きを聞かせることもあります。
少しずつ、少しずつ、アイヌの文化への関心が広がっていることを実感します。
アイヌと沖縄の交差点
気軽にアイヌの文化に触れることができる場といえば、東京・中野で1994年から毎年開かれている「チャランケ祭」。アイヌ民族と沖縄出身者が始めた祭で、11月上旬の土日に開かれます。
ある時、アイヌと沖縄の男性が中野で出会い、意気投合しました。「アイヌ語では『とことん話し合うこと』を『チャランケ』と言うんだ」「おお、そうか、そういえば沖縄では『ちゃーらんけー』というと『逃げんなよ』という意味があるな」「そりゃ面白い」というやりとりがあったとかなかったとか。
「チャランケ祭」は場所の確保に苦労したこともありましたが、2017年も11月4・5日に中野駅近くの「四季の森公園」で開催されました。
初日は、土地の神に「お祭をここで開かせていただきます。見守ってください」とあいさつするために祈るアイヌの儀式「カムイノミ」で始まります。そのあと、沖縄、アイヌ、また様々な文化、民族の歌や踊りが続きます。2日目は、沖縄の伝統の儀式「旗揚げ」で終わります。大きな旗を太鼓や鐘、ほら貝の音と共に担ぎ上げて、世界平和を祈るのです。
最近では東京でも盛んになっている、太鼓を叩きながら踊る沖縄の舞踊「エイサー」のグループや、授業・行事で沖縄やアイヌの踊りを取り入れている保育園や幼稚園、小学校の子供たちの参加もあってにぎやかになりました。
もちろん、沖縄料理やアイヌ料理の屋台、民芸品などの屋台も出ます。宇佐さんもハルコロの屋台を出店し、歌や踊りで舞台にも毎年立っています。
東京五輪に対する「ある懸念」
こうして、アイヌ文化を伝える活動がある一方で、首都圏を含む道外と道内には、政策的な不平等があります。
北海道では1972年から「北海道ウタリ福祉対策」が定められ、アイヌが集まって活動する場「生活館」の整備、相談員の配置、住宅資金の貸付、進学資金の補助などの政策がとられるようになりましたが、こうした施策は道外にはありません。
政府の「アイヌ政策推進会議」でも議題には挙がっており、首都圏のアイヌの委員が道内との格差解消を訴えていますが、まだ目に見える形ではその成果は現れていません。
これまで見てきたように、首都圏のアイヌの中には、自分たちの力でアイヌの集まる居場所、文化を伝える場所を作ろうと活動している個人・団体もいます。彼らがいま気になっているのは、2020年の東京オリンピックです。そこでアイヌはどうとりあげられるのかーー。
アイヌ政策推進会議の座長を務める菅義偉官房長官は「2020年の東京オリンピック開会式や関連イベントに、アイヌが参加することは重要な課題の一つだ」と述べています。
ただ、それだけでなく、「北海道在住か否かを問わず、また五輪の時だけの一過性のものでなく、アイヌが『日本の先住民族』としての地位を確立する」契機になってほしいものです。
宇佐さんも、授業で北海道内外の格差について話しました。
「『本当にアイヌなのか?』と言われることもあるんです。きょうのような講演でも、『新宿に住んでいます』というと、相手がガクっとなるのが伝わる。その気持ちもわからなくはありません。でも、私は『日本の先住民族』アイヌなんです」
2017年9月、宇佐さんは首都圏のアイヌの女性たちと一緒に、台湾で行なわれた先住民族のイベントに出演しました。その時も、「日本から来た先住民族のアイヌです、で通じました」。かえって日本国内のほうが「アイヌは北海道だけに暮らしている」という先入観がまだ残っているようです。
知られざる「同化教育」の名残り
最後に、着ている着物について質問された宇佐さんは、こう語りました。
「これは釧路あたり、道東のほうの縫い方。地方によって縫い方や模様が違うんです。でも、私はいろんなところの良さを味わいたいので、色々な地方のものを着ます。
関東に暮らすアイヌは、歌も踊りも着物も色んなところのものを知ることができるし、北海道の色々な地方の出身のアイヌが一緒に活動できるので、楽しいですね」
後日、宇佐さんの話を聞いたある学生のリアクションペーパーに、「北海道でアイヌ差別が根強いということに驚いた。東京で暮らせてよかったですね」と書かれていました。
しかし、岡田講師は「アイヌが東京で暮らすことは、必ずしも『いいこと』なんでしょうか。道外に移住せざるをえなかった背景を考えると、そうとも言い切れませんよね」と補足しました。
確かにアイヌの道外移住は、新しいアイヌの文化の流れを生み出していますが、同時に明治以来のアイヌへの偏見、差別の歴史を表すものでもあるのです。
その歴史を物語る場所が、今も東京には残されています。東京・港区の芝公園。その一角に「開拓使仮学校跡」と書かれた小さな石碑があります。
石碑には「1872年、北海道開拓の人材を養成するための学校がここに建てられた」とは書いてありますが、同じ場所に付属施設「北海道土人教育所」もあったことはわかりません。
明治政府はアイヌの男女38人を強制的にこの「教育所」へ連れてきて、日本語や和食、洋装の強制――つまり「同化教育」を行なったうえで、農業技術などを教えようとしたのです。
しかし、慣れない生活への拒否反応から、衰弱死や脱走が相次ぎ、2年で廃止されました。
2003年以降、毎年8月に、首都圏のアイヌがこの場所に集まり「イチャルパ」(先祖供養)を行なっています。東京に連れてこられて亡くなったり、北海道を離れて関東に移り住まざるを得なかったアイヌの同胞たちを追悼しているのです。
現在、首都圏には個人の活動のほか、「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」など複数のアイヌ団体があります。
また、東京駅八重洲口近くには「アイヌ文化交流センター」(アイヌ文化振興・研究推進機構)があり、様々なセミナーが開かれているほか、上記の団体によるイベントの情報なども手に入ります。利用は無料ですので、もし時間があれば、訪れてみてはいかがでしょうか。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54318
私たちは「日本の先住民族」なのです
アイヌといえば、「北海道に住んでいる」というイメージを持っている人も多いかもしれない。だが現代の日本では、首都圏をはじめ道外で暮らすアイヌも数多い。
アイヌの人々は、今の世の中を、自分たちのアイデンティティをどんなふうに見ているのか。TBSラジオ記者で、彼らを長年取材する崎山敏也氏によるルポ。
まるで「習い事」のようだった
「10歳までは、北海道の釧路に住んでました。親の離婚の関係で、母親が5人の子供を連れて、東京に出てきたんです。祖母たちが先に東京に出てきて仕事をしていたんで、それを頼ってね…」
川崎市の専修大学生田キャンパス。2017年12月、文学部の授業「多文化社会と共生」のゲストスピーカーとして、宇佐照代さんは呼ばれました。宇佐さんは岡田紅理子講師の質問に答える形で、50人ほどの学生たちへ話し始めました。
宇佐さんは東京に暮らすアイヌの女性です。都内でアイヌ料理を出す店を経営し、歌や踊り、刺繍などアイヌ民族の文化を伝える活動もしています。
授業ではまず岡田講師が、日本の先住民族であるアイヌが和人(アイヌ以外の日本人)と出会い、明治時代に近代国家としての日本に組み込まれ、現在に至るまでの歴史を説明しました。
そして、アイヌ語の短編アニメ『七五郎沢の狐』を上映。主人公「狐の神(カムイ)」の声を担当するのは宇佐さんです。「まだまだアイヌ語は勉強中」という宇佐さんですが、日本語とは全く違うアイヌ語の響きが教室の中に流れました。
「母は小さい頃から働いていて、学校にもろくに行けなかったんですが、東京の方が仕事もあるので、何とか子供たちを育てることができました。
祖母が元々、東京に出てきたアイヌの人たちを集めて、歌や踊りをやったり、なつかしい話をして故郷を想う会を開いたりしていたので、そこに私たち子供も混ぜてもらったものです。
一緒に出かけたり、美味しいものを食べたり、お小遣いをもらったり。でも、習い事やって楽しいな、という感覚で、民族のこと、難しい話題は子供ながらに避けていました」(宇佐さん)
「誇りを持って生きて」と訴えた祖母
大人になり、知人から「アイヌ語は話せないの?」「アイヌ独特の刺繍は自分でやったの?誰がやってくれたの?」と聞かれることが増え、刺繍や木彫りなど、もっとアイヌの文化を知らなくてはと思うようになった頃、宇佐さんの祖母が入院しました。
「私は祖母が入院した病院に通い続けていたんですが、ある時、祖母のお友達のおばあちゃんが来て、祖母の耳元でアイヌ語を話していたんです。
いろんな活動をしていた祖母ですが、アイヌ語が話せるというのは知らなくて、そのおばあちゃんに『アイヌ語を話せるの?』と聞いたら、『あんたのおばあちゃん、いくつだと思ってるの』と言われたんです。
その時、『そうか、アイヌとして生まれて、周りもアイヌだらけで、アイヌ語を話せないわけがないよな』ということに気付きました」
祖母がアイヌ語を話せることを知らなかったショックもありましたが、
「アイヌ関係のいろいろな活動をやって、私たちにもアイヌ文化を知ってほしいと思っていた祖母が、アイヌ語を私たちに教えなかったというのもショックでした」
宇佐さんは、祖母が亡くなる前にいろいろ聞いておかなければと、三ヵ月後に亡くなるまでの間、アイヌの文化のことや祖母のルーツを祖母に聞いたり、自分でも調べたりしました。
そして、亡くなる少し前、
「祖母は私の手をとって、『民族の誇りを持って生きていくと発表してください』と、横になったまま言ったんです。え、ここで?と思ったけど、わかったよ、と言って、祖母の手をとって『テルは民族の誇りを持って生きていくよ』と言ったら、祖母は目をつぶったまま笑ってくれたんですよ」
首都圏にも大勢暮らしている
独自の言語や文化を持つ、日本の先住民族「アイヌ」。そもそも、彼らが北海道外、特に首都圏に大勢暮らしていることはあまり知られていません。
アイヌは江戸期まで北海道、樺太、千島、本州北端に先住し、固有の文化を発展させていましたが、明治時代になると日本政府の開拓が本格化し、アイヌ居住地に本州から和人が大勢移り住みました。
政府はアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、伝統的に利用していた土地を取り上げ、サケやシカの猟を禁止しました。こうした和人社会への同化政策の結果、アイヌの人々は困窮しました。
そこで、1899年には「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌに土地を与えて農民化を促し、日本的教育を行なうことで、窮状から抜け出させようとしました。
しかし、アイヌ固有の生活文化は否定され、さらに与えられた土地は和人の開拓民に比べて圧倒的に狭く、苦しい状況は改善されたとはいえませんでした。出稼ぎのため、また差別から逃れるため、北海道外へ移り住んだ人は少なくありません。
北海道に暮らすアイヌは、2013年の調査によれば6880世帯、16786人です。一方少し古いデータですが、1989年の東京都の調査によると、都内には2700人が暮らしているとされます。もっともこれは自己申告の調査のため、もっと多い可能性は十分にあります。
自分がアイヌであることを親から知らされていない人や、ルーツを隠して暮らしている人も少なくないとみられます。首都圏では少なくとも5000人~1万人が暮らしていると、首都圏で活動しているアイヌの団体は推定しています。
北海道以外で唯一の「アイヌ料理店」
戦後、様々なアイヌの団体が生まれました。首都圏では1964年9月、東京の和人の大学生とアイヌ民族の若者が阿寒湖畔で出会ったのをきっかけに、アイヌと和人の友情を深めようと「ペウレ・ウタリの会」が結成されました。
「ペウレ・ウタリ」は「若い仲間」という意味です。会員は「『友情をもとにし』『理解し親睦を深め』『無知と偏見』のない社会を築こうとする」姿勢を守り続けて来ました(「ペウレ・ウタリの会 50年記念誌」まえがきより)。
また、1972年には東京在住のアイヌの女性が新聞に「ウタリ(同胞)たちよ、手をつなごう」と投稿し、反響を呼び、様々な活動がそこから生まれました。宇佐さんの祖母も、その動きに続いたアイヌの一人だったのです。
宇佐さんの話は、2011年から経営するアイヌ料理・北海道創作料理のお店「ハルコロ」にも触れました。「ハルコロ」があるのは、新宿区の多国籍タウン、新大久保。店名の由来は「ハル(食べ物)」と「コロ(持つ)」で、「たくさんの食べ物で豊かに」という願いを込めました。
ジャガイモやかぼちゃの「シト(団子)」。サケを具にした「オハウ(汁物)」。キハダの実で苦味をつけた、かぼちゃの「ラタシケプ(和え物)」。イクラを混ぜたハッシュドポテト風の「チポロイモ」。キトピロ(行者にんにく)やユク(エゾシカ)、サケなど北海道の素材を使った創作メニューも多数並びます。
「ハルコロ」は、北海道外では唯一のアイヌ料理の店とみられています。東京には以前「レラ・チセ(風の家)」という店がありましたが、2009年に閉店。母と共に関わっていた宇佐さんが、アイヌの味を伝え、広げる場をなくしたくない、首都圏のアイヌが仲間と集まる場を維持したいと開いたのがハルコロなのです。
『ゴールデンカムイ』のおかげで…
筆者がお店に立ち寄ると、取材を通じて知った首都圏のアイヌの人たちとよく遭遇します。宇佐さんの5歳の娘も出迎えてくれます。
宇佐さんは言います。
「仰々しく入りづらいところにしたくなくて、食べたり飲んだりしながら交流してもらいたいんです。
この間、酔っ払っているおじいさんなんですけど、私が店の玄関にいたら、こっち見てにこにこしているんです。『お父さん、ウタリ?』と聞いたら、にこにこして、ずっと私の手を握ってしゃべってるの。酔っ払っているから半分何言ってるかわからないんだけど。
『お父さん、今度、ご飯食べに来てね』って言ったら。『うん』って言って、よたよたしながらどこかに帰っていった。そういうつながりを生みたくて、頑張っているんです」
アイヌだけでなく、アイヌの文化に興味がある人、何らかのきっかけでつながりを持った人、北海道に住んでいたことがあって、懐かしくて訪れる人――ハルコロには色々な人が集まります。一人でふらっと立ち寄り、相席させてもらうことが多い筆者も、ハルコロでずいぶん知り合いが増えました。
「最近は」と宇佐さん。「マンガの『ゴールデンカムイ』が人気だったりして、その中に出てくる料理を食べるオフ会を若い人がやったり、作者の野田サトルさんのサインもお店に飾ってあります」
『ゴールデンカムイ』という言葉が出た瞬間、私の後ろに座っていた女子学生2人が「おっ」と小さくつぶやきました。
その2人に授業が終わった後、「好きなの?」と聞くと、「私たちの間では、お昼を食べる時とかに『ヒンナヒンナ(食事に感謝するアイヌの言葉)』って言うのが流行ってます」という答え。2人はそのあと、宇佐さんに「ハルコロにはどんなメニューがあるんですか?」と色々尋ねていました。
『ゴールデンカムイ』は明治の北海道を舞台に、元軍人がアイヌの少女と一緒に繰り広げる冒険活劇マンガで、大ヒット中。今年4月にはアニメの放送も始まります。
確かにハルコロでも、ここ最近、若者のグループを見かけることが増えました。皆さん、神に供える「イナウ(木幣)」や、アイヌの楽器「トンコリ」などを珍しそうにみています。宇佐さんが、リクエストに応えてアイヌの楽器「ムックリ(口琴)」の響きを聞かせることもあります。
少しずつ、少しずつ、アイヌの文化への関心が広がっていることを実感します。
アイヌと沖縄の交差点
気軽にアイヌの文化に触れることができる場といえば、東京・中野で1994年から毎年開かれている「チャランケ祭」。アイヌ民族と沖縄出身者が始めた祭で、11月上旬の土日に開かれます。
ある時、アイヌと沖縄の男性が中野で出会い、意気投合しました。「アイヌ語では『とことん話し合うこと』を『チャランケ』と言うんだ」「おお、そうか、そういえば沖縄では『ちゃーらんけー』というと『逃げんなよ』という意味があるな」「そりゃ面白い」というやりとりがあったとかなかったとか。
「チャランケ祭」は場所の確保に苦労したこともありましたが、2017年も11月4・5日に中野駅近くの「四季の森公園」で開催されました。
初日は、土地の神に「お祭をここで開かせていただきます。見守ってください」とあいさつするために祈るアイヌの儀式「カムイノミ」で始まります。そのあと、沖縄、アイヌ、また様々な文化、民族の歌や踊りが続きます。2日目は、沖縄の伝統の儀式「旗揚げ」で終わります。大きな旗を太鼓や鐘、ほら貝の音と共に担ぎ上げて、世界平和を祈るのです。
最近では東京でも盛んになっている、太鼓を叩きながら踊る沖縄の舞踊「エイサー」のグループや、授業・行事で沖縄やアイヌの踊りを取り入れている保育園や幼稚園、小学校の子供たちの参加もあってにぎやかになりました。
もちろん、沖縄料理やアイヌ料理の屋台、民芸品などの屋台も出ます。宇佐さんもハルコロの屋台を出店し、歌や踊りで舞台にも毎年立っています。
東京五輪に対する「ある懸念」
こうして、アイヌ文化を伝える活動がある一方で、首都圏を含む道外と道内には、政策的な不平等があります。
北海道では1972年から「北海道ウタリ福祉対策」が定められ、アイヌが集まって活動する場「生活館」の整備、相談員の配置、住宅資金の貸付、進学資金の補助などの政策がとられるようになりましたが、こうした施策は道外にはありません。
政府の「アイヌ政策推進会議」でも議題には挙がっており、首都圏のアイヌの委員が道内との格差解消を訴えていますが、まだ目に見える形ではその成果は現れていません。
これまで見てきたように、首都圏のアイヌの中には、自分たちの力でアイヌの集まる居場所、文化を伝える場所を作ろうと活動している個人・団体もいます。彼らがいま気になっているのは、2020年の東京オリンピックです。そこでアイヌはどうとりあげられるのかーー。
アイヌ政策推進会議の座長を務める菅義偉官房長官は「2020年の東京オリンピック開会式や関連イベントに、アイヌが参加することは重要な課題の一つだ」と述べています。
ただ、それだけでなく、「北海道在住か否かを問わず、また五輪の時だけの一過性のものでなく、アイヌが『日本の先住民族』としての地位を確立する」契機になってほしいものです。
宇佐さんも、授業で北海道内外の格差について話しました。
「『本当にアイヌなのか?』と言われることもあるんです。きょうのような講演でも、『新宿に住んでいます』というと、相手がガクっとなるのが伝わる。その気持ちもわからなくはありません。でも、私は『日本の先住民族』アイヌなんです」
2017年9月、宇佐さんは首都圏のアイヌの女性たちと一緒に、台湾で行なわれた先住民族のイベントに出演しました。その時も、「日本から来た先住民族のアイヌです、で通じました」。かえって日本国内のほうが「アイヌは北海道だけに暮らしている」という先入観がまだ残っているようです。
知られざる「同化教育」の名残り
最後に、着ている着物について質問された宇佐さんは、こう語りました。
「これは釧路あたり、道東のほうの縫い方。地方によって縫い方や模様が違うんです。でも、私はいろんなところの良さを味わいたいので、色々な地方のものを着ます。
関東に暮らすアイヌは、歌も踊りも着物も色んなところのものを知ることができるし、北海道の色々な地方の出身のアイヌが一緒に活動できるので、楽しいですね」
後日、宇佐さんの話を聞いたある学生のリアクションペーパーに、「北海道でアイヌ差別が根強いということに驚いた。東京で暮らせてよかったですね」と書かれていました。
しかし、岡田講師は「アイヌが東京で暮らすことは、必ずしも『いいこと』なんでしょうか。道外に移住せざるをえなかった背景を考えると、そうとも言い切れませんよね」と補足しました。
確かにアイヌの道外移住は、新しいアイヌの文化の流れを生み出していますが、同時に明治以来のアイヌへの偏見、差別の歴史を表すものでもあるのです。
その歴史を物語る場所が、今も東京には残されています。東京・港区の芝公園。その一角に「開拓使仮学校跡」と書かれた小さな石碑があります。
石碑には「1872年、北海道開拓の人材を養成するための学校がここに建てられた」とは書いてありますが、同じ場所に付属施設「北海道土人教育所」もあったことはわかりません。
明治政府はアイヌの男女38人を強制的にこの「教育所」へ連れてきて、日本語や和食、洋装の強制――つまり「同化教育」を行なったうえで、農業技術などを教えようとしたのです。
しかし、慣れない生活への拒否反応から、衰弱死や脱走が相次ぎ、2年で廃止されました。
2003年以降、毎年8月に、首都圏のアイヌがこの場所に集まり「イチャルパ」(先祖供養)を行なっています。東京に連れてこられて亡くなったり、北海道を離れて関東に移り住まざるを得なかったアイヌの同胞たちを追悼しているのです。
現在、首都圏には個人の活動のほか、「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」など複数のアイヌ団体があります。
また、東京駅八重洲口近くには「アイヌ文化交流センター」(アイヌ文化振興・研究推進機構)があり、様々なセミナーが開かれているほか、上記の団体によるイベントの情報なども手に入ります。利用は無料ですので、もし時間があれば、訪れてみてはいかがでしょうか。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54318