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ヒンナヒンナ…「東京に住むアイヌ」の喜びと悲しみを知っていますか

2018-02-03 | アイヌ民族関連
gendai.ismedia.jp02/02 崎山 敏也TBSラジオ放送記者

私たちは「日本の先住民族」なのです
アイヌといえば、「北海道に住んでいる」というイメージを持っている人も多いかもしれない。だが現代の日本では、首都圏をはじめ道外で暮らすアイヌも数多い。
アイヌの人々は、今の世の中を、自分たちのアイデンティティをどんなふうに見ているのか。TBSラジオ記者で、彼らを長年取材する崎山敏也氏によるルポ。
まるで「習い事」のようだった
「10歳までは、北海道の釧路に住んでました。親の離婚の関係で、母親が5人の子供を連れて、東京に出てきたんです。祖母たちが先に東京に出てきて仕事をしていたんで、それを頼ってね…」
川崎市の専修大学生田キャンパス。2017年12月、文学部の授業「多文化社会と共生」のゲストスピーカーとして、宇佐照代さんは呼ばれました。宇佐さんは岡田紅理子講師の質問に答える形で、50人ほどの学生たちへ話し始めました。
宇佐さんは東京に暮らすアイヌの女性です。都内でアイヌ料理を出す店を経営し、歌や踊り、刺繍などアイヌ民族の文化を伝える活動もしています。
授業ではまず岡田講師が、日本の先住民族であるアイヌが和人(アイヌ以外の日本人)と出会い、明治時代に近代国家としての日本に組み込まれ、現在に至るまでの歴史を説明しました。
そして、アイヌ語の短編アニメ『七五郎沢の狐』を上映。主人公「狐の神(カムイ)」の声を担当するのは宇佐さんです。「まだまだアイヌ語は勉強中」という宇佐さんですが、日本語とは全く違うアイヌ語の響きが教室の中に流れました。
「母は小さい頃から働いていて、学校にもろくに行けなかったんですが、東京の方が仕事もあるので、何とか子供たちを育てることができました。
祖母が元々、東京に出てきたアイヌの人たちを集めて、歌や踊りをやったり、なつかしい話をして故郷を想う会を開いたりしていたので、そこに私たち子供も混ぜてもらったものです。
一緒に出かけたり、美味しいものを食べたり、お小遣いをもらったり。でも、習い事やって楽しいな、という感覚で、民族のこと、難しい話題は子供ながらに避けていました」(宇佐さん)
「誇りを持って生きて」と訴えた祖母
大人になり、知人から「アイヌ語は話せないの?」「アイヌ独特の刺繍は自分でやったの?誰がやってくれたの?」と聞かれることが増え、刺繍や木彫りなど、もっとアイヌの文化を知らなくてはと思うようになった頃、宇佐さんの祖母が入院しました。
「私は祖母が入院した病院に通い続けていたんですが、ある時、祖母のお友達のおばあちゃんが来て、祖母の耳元でアイヌ語を話していたんです。
いろんな活動をしていた祖母ですが、アイヌ語が話せるというのは知らなくて、そのおばあちゃんに『アイヌ語を話せるの?』と聞いたら、『あんたのおばあちゃん、いくつだと思ってるの』と言われたんです。
その時、『そうか、アイヌとして生まれて、周りもアイヌだらけで、アイヌ語を話せないわけがないよな』ということに気付きました」
祖母がアイヌ語を話せることを知らなかったショックもありましたが、
「アイヌ関係のいろいろな活動をやって、私たちにもアイヌ文化を知ってほしいと思っていた祖母が、アイヌ語を私たちに教えなかったというのもショックでした」
宇佐さんは、祖母が亡くなる前にいろいろ聞いておかなければと、三ヵ月後に亡くなるまでの間、アイヌの文化のことや祖母のルーツを祖母に聞いたり、自分でも調べたりしました。
そして、亡くなる少し前、
「祖母は私の手をとって、『民族の誇りを持って生きていくと発表してください』と、横になったまま言ったんです。え、ここで?と思ったけど、わかったよ、と言って、祖母の手をとって『テルは民族の誇りを持って生きていくよ』と言ったら、祖母は目をつぶったまま笑ってくれたんですよ」
首都圏にも大勢暮らしている
独自の言語や文化を持つ、日本の先住民族「アイヌ」。そもそも、彼らが北海道外、特に首都圏に大勢暮らしていることはあまり知られていません。
アイヌは江戸期まで北海道、樺太、千島、本州北端に先住し、固有の文化を発展させていましたが、明治時代になると日本政府の開拓が本格化し、アイヌ居住地に本州から和人が大勢移り住みました。
政府はアイヌ語やアイヌの生活習慣を禁止し、伝統的に利用していた土地を取り上げ、サケやシカの猟を禁止しました。こうした和人社会への同化政策の結果、アイヌの人々は困窮しました。
そこで、1899年には「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌに土地を与えて農民化を促し、日本的教育を行なうことで、窮状から抜け出させようとしました。
しかし、アイヌ固有の生活文化は否定され、さらに与えられた土地は和人の開拓民に比べて圧倒的に狭く、苦しい状況は改善されたとはいえませんでした。出稼ぎのため、また差別から逃れるため、北海道外へ移り住んだ人は少なくありません。
北海道に暮らすアイヌは、2013年の調査によれば6880世帯、16786人です。一方少し古いデータですが、1989年の東京都の調査によると、都内には2700人が暮らしているとされます。もっともこれは自己申告の調査のため、もっと多い可能性は十分にあります。
自分がアイヌであることを親から知らされていない人や、ルーツを隠して暮らしている人も少なくないとみられます。首都圏では少なくとも5000人~1万人が暮らしていると、首都圏で活動しているアイヌの団体は推定しています。
北海道以外で唯一の「アイヌ料理店」
戦後、様々なアイヌの団体が生まれました。首都圏では1964年9月、東京の和人の大学生とアイヌ民族の若者が阿寒湖畔で出会ったのをきっかけに、アイヌと和人の友情を深めようと「ペウレ・ウタリの会」が結成されました。
「ペウレ・ウタリ」は「若い仲間」という意味です。会員は「『友情をもとにし』『理解し親睦を深め』『無知と偏見』のない社会を築こうとする」姿勢を守り続けて来ました(「ペウレ・ウタリの会 50年記念誌」まえがきより)。
また、1972年には東京在住のアイヌの女性が新聞に「ウタリ(同胞)たちよ、手をつなごう」と投稿し、反響を呼び、様々な活動がそこから生まれました。宇佐さんの祖母も、その動きに続いたアイヌの一人だったのです。
宇佐さんの話は、2011年から経営するアイヌ料理・北海道創作料理のお店「ハルコロ」にも触れました。「ハルコロ」があるのは、新宿区の多国籍タウン、新大久保。店名の由来は「ハル(食べ物)」と「コロ(持つ)」で、「たくさんの食べ物で豊かに」という願いを込めました。
ジャガイモやかぼちゃの「シト(団子)」。サケを具にした「オハウ(汁物)」。キハダの実で苦味をつけた、かぼちゃの「ラタシケプ(和え物)」。イクラを混ぜたハッシュドポテト風の「チポロイモ」。キトピロ(行者にんにく)やユク(エゾシカ)、サケなど北海道の素材を使った創作メニューも多数並びます。
「ハルコロ」は、北海道外では唯一のアイヌ料理の店とみられています。東京には以前「レラ・チセ(風の家)」という店がありましたが、2009年に閉店。母と共に関わっていた宇佐さんが、アイヌの味を伝え、広げる場をなくしたくない、首都圏のアイヌが仲間と集まる場を維持したいと開いたのがハルコロなのです。
『ゴールデンカムイ』のおかげで…
筆者がお店に立ち寄ると、取材を通じて知った首都圏のアイヌの人たちとよく遭遇します。宇佐さんの5歳の娘も出迎えてくれます。
宇佐さんは言います。
「仰々しく入りづらいところにしたくなくて、食べたり飲んだりしながら交流してもらいたいんです。
この間、酔っ払っているおじいさんなんですけど、私が店の玄関にいたら、こっち見てにこにこしているんです。『お父さん、ウタリ?』と聞いたら、にこにこして、ずっと私の手を握ってしゃべってるの。酔っ払っているから半分何言ってるかわからないんだけど。
『お父さん、今度、ご飯食べに来てね』って言ったら。『うん』って言って、よたよたしながらどこかに帰っていった。そういうつながりを生みたくて、頑張っているんです」
アイヌだけでなく、アイヌの文化に興味がある人、何らかのきっかけでつながりを持った人、北海道に住んでいたことがあって、懐かしくて訪れる人――ハルコロには色々な人が集まります。一人でふらっと立ち寄り、相席させてもらうことが多い筆者も、ハルコロでずいぶん知り合いが増えました。
「最近は」と宇佐さん。「マンガの『ゴールデンカムイ』が人気だったりして、その中に出てくる料理を食べるオフ会を若い人がやったり、作者の野田サトルさんのサインもお店に飾ってあります」
『ゴールデンカムイ』という言葉が出た瞬間、私の後ろに座っていた女子学生2人が「おっ」と小さくつぶやきました。
その2人に授業が終わった後、「好きなの?」と聞くと、「私たちの間では、お昼を食べる時とかに『ヒンナヒンナ(食事に感謝するアイヌの言葉)』って言うのが流行ってます」という答え。2人はそのあと、宇佐さんに「ハルコロにはどんなメニューがあるんですか?」と色々尋ねていました。
『ゴールデンカムイ』は明治の北海道を舞台に、元軍人がアイヌの少女と一緒に繰り広げる冒険活劇マンガで、大ヒット中。今年4月にはアニメの放送も始まります。
確かにハルコロでも、ここ最近、若者のグループを見かけることが増えました。皆さん、神に供える「イナウ(木幣)」や、アイヌの楽器「トンコリ」などを珍しそうにみています。宇佐さんが、リクエストに応えてアイヌの楽器「ムックリ(口琴)」の響きを聞かせることもあります。
少しずつ、少しずつ、アイヌの文化への関心が広がっていることを実感します。
アイヌと沖縄の交差点
気軽にアイヌの文化に触れることができる場といえば、東京・中野で1994年から毎年開かれている「チャランケ祭」。アイヌ民族と沖縄出身者が始めた祭で、11月上旬の土日に開かれます。
ある時、アイヌと沖縄の男性が中野で出会い、意気投合しました。「アイヌ語では『とことん話し合うこと』を『チャランケ』と言うんだ」「おお、そうか、そういえば沖縄では『ちゃーらんけー』というと『逃げんなよ』という意味があるな」「そりゃ面白い」というやりとりがあったとかなかったとか。
「チャランケ祭」は場所の確保に苦労したこともありましたが、2017年も11月4・5日に中野駅近くの「四季の森公園」で開催されました。
初日は、土地の神に「お祭をここで開かせていただきます。見守ってください」とあいさつするために祈るアイヌの儀式「カムイノミ」で始まります。そのあと、沖縄、アイヌ、また様々な文化、民族の歌や踊りが続きます。2日目は、沖縄の伝統の儀式「旗揚げ」で終わります。大きな旗を太鼓や鐘、ほら貝の音と共に担ぎ上げて、世界平和を祈るのです。
最近では東京でも盛んになっている、太鼓を叩きながら踊る沖縄の舞踊「エイサー」のグループや、授業・行事で沖縄やアイヌの踊りを取り入れている保育園や幼稚園、小学校の子供たちの参加もあってにぎやかになりました。
もちろん、沖縄料理やアイヌ料理の屋台、民芸品などの屋台も出ます。宇佐さんもハルコロの屋台を出店し、歌や踊りで舞台にも毎年立っています。
東京五輪に対する「ある懸念」
こうして、アイヌ文化を伝える活動がある一方で、首都圏を含む道外と道内には、政策的な不平等があります。
北海道では1972年から「北海道ウタリ福祉対策」が定められ、アイヌが集まって活動する場「生活館」の整備、相談員の配置、住宅資金の貸付、進学資金の補助などの政策がとられるようになりましたが、こうした施策は道外にはありません。
政府の「アイヌ政策推進会議」でも議題には挙がっており、首都圏のアイヌの委員が道内との格差解消を訴えていますが、まだ目に見える形ではその成果は現れていません。
これまで見てきたように、首都圏のアイヌの中には、自分たちの力でアイヌの集まる居場所、文化を伝える場所を作ろうと活動している個人・団体もいます。彼らがいま気になっているのは、2020年の東京オリンピックです。そこでアイヌはどうとりあげられるのかーー。
アイヌ政策推進会議の座長を務める菅義偉官房長官は「2020年の東京オリンピック開会式や関連イベントに、アイヌが参加することは重要な課題の一つだ」と述べています。
ただ、それだけでなく、「北海道在住か否かを問わず、また五輪の時だけの一過性のものでなく、アイヌが『日本の先住民族』としての地位を確立する」契機になってほしいものです。
宇佐さんも、授業で北海道内外の格差について話しました。
「『本当にアイヌなのか?』と言われることもあるんです。きょうのような講演でも、『新宿に住んでいます』というと、相手がガクっとなるのが伝わる。その気持ちもわからなくはありません。でも、私は『日本の先住民族』アイヌなんです」
2017年9月、宇佐さんは首都圏のアイヌの女性たちと一緒に、台湾で行なわれた先住民族のイベントに出演しました。その時も、「日本から来た先住民族のアイヌです、で通じました」。かえって日本国内のほうが「アイヌは北海道だけに暮らしている」という先入観がまだ残っているようです。
知られざる「同化教育」の名残り
最後に、着ている着物について質問された宇佐さんは、こう語りました。
「これは釧路あたり、道東のほうの縫い方。地方によって縫い方や模様が違うんです。でも、私はいろんなところの良さを味わいたいので、色々な地方のものを着ます。
関東に暮らすアイヌは、歌も踊りも着物も色んなところのものを知ることができるし、北海道の色々な地方の出身のアイヌが一緒に活動できるので、楽しいですね」
後日、宇佐さんの話を聞いたある学生のリアクションペーパーに、「北海道でアイヌ差別が根強いということに驚いた。東京で暮らせてよかったですね」と書かれていました。
しかし、岡田講師は「アイヌが東京で暮らすことは、必ずしも『いいこと』なんでしょうか。道外に移住せざるをえなかった背景を考えると、そうとも言い切れませんよね」と補足しました。
確かにアイヌの道外移住は、新しいアイヌの文化の流れを生み出していますが、同時に明治以来のアイヌへの偏見、差別の歴史を表すものでもあるのです。
その歴史を物語る場所が、今も東京には残されています。東京・港区の芝公園。その一角に「開拓使仮学校跡」と書かれた小さな石碑があります。
石碑には「1872年、北海道開拓の人材を養成するための学校がここに建てられた」とは書いてありますが、同じ場所に付属施設「北海道土人教育所」もあったことはわかりません。
明治政府はアイヌの男女38人を強制的にこの「教育所」へ連れてきて、日本語や和食、洋装の強制――つまり「同化教育」を行なったうえで、農業技術などを教えようとしたのです。
しかし、慣れない生活への拒否反応から、衰弱死や脱走が相次ぎ、2年で廃止されました。
2003年以降、毎年8月に、首都圏のアイヌがこの場所に集まり「イチャルパ」(先祖供養)を行なっています。東京に連れてこられて亡くなったり、北海道を離れて関東に移り住まざるを得なかったアイヌの同胞たちを追悼しているのです。
現在、首都圏には個人の活動のほか、「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」など複数のアイヌ団体があります。
また、東京駅八重洲口近くには「アイヌ文化交流センター」(アイヌ文化振興・研究推進機構)があり、様々なセミナーが開かれているほか、上記の団体によるイベントの情報なども手に入ります。利用は無料ですので、もし時間があれば、訪れてみてはいかがでしょうか。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54318

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台湾の民族政策紹介 3日にシンポ 北大・アイヌセンター10周年記念

2018-02-03 | アイヌ民族関連
北海道新聞02/02 17:00
 北大アイヌ・先住民研究センターは3日午前10時から札幌市中央区北4西5のアスティ45ビル16階で、センター開設10周年記念のシンポジウムを開き、交流のある台湾の原住民族研究者らによる講演などを行う。
 台湾から招待するのは、2007年に学術交流協定を結んだ台湾・国立政治大学原住民族研究センター長だった林修〓さん(現在は同大名誉教授)と同センター長の黄季平さん。2020年に胆振管内白老町に開設される「民族共生象徴空間」の台湾版である文化公園をはじめ、台湾の民族認定などについても解説する。
 これに先立ち、北大のセンターの言語学や歴史学の研究者らがこの10年間の活動を分野別に報告。日高管内平取町や釧路市阿寒湖温泉、胆振管内白老町のアイヌ文化伝承者らもそれぞれの取り組みについて語る。
 常本照樹センター長は「アイヌ民族が生きやすい社会の実現に向けて走ってきたこの10年を確認しつつ、未来を展望したい」と話している。参加無料。問い合わせは同センター(電)011・706・2859へ。
 ※〓は「徹」の「ぎょうにんべん」が「さんずい」
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/161155

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スポーツ界の男女差別、日本では東京五輪のゴルフ会場が問題に

2018-02-03 | 先住民族関連
スポーツ報知 2018年2月2日7時0分 スポーツ報知
 モータースポーツ最高峰のF1で、今シーズン初戦となる3月25日の豪メルボルンGPから「グリッドガール」と呼ばれるレースクイーンが全面廃止されることが公式ホームページで1日、発表された。
 最近、スポーツ界で男女差別が問題になったのは、2020年の東京五輪でゴルフの会場となる埼玉県川越市の霞ケ関カンツリー倶楽部(CC)。正会員が男性に限られ、日曜は女性がプレーを認められない状況が「性別を含めてあらゆる差別を禁じた五輪憲章の原則に抵触する」として、改善が求められた。同CCは17年3月に臨時理事会を開催し、規則を変更して女性正会員を受け入れる決定をした。
 また、男女差別ではないが米大リーグ・インディアンスが先月29日に来季のユニホームから「先住民族の長」をあしらったロゴを使用しないことを発表。ロゴが人種差別的だとして廃止を要求する運動が度々起こっていたことを受けての決定となった。
http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20180201-OHT1T50313.html

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【著者に訊け】銀色夏生氏 団体ツアーに参加した旅エッセイ

2018-02-03 | 先住民族関連
ニフティニュース 2018年02月02日 16時00分 NEWSポストセブン

【著者に訊け】銀色夏生氏/『こういう旅はもう二度としないだろう』/幻冬舎/1300円+税
 詩人・銀色夏生が旅に出た。それも一般の団体ツアーに連続で、一人で参加したというから驚きである。
「私は習い事を11個同時に始めたこともあるくらい、思い立ったらとことんやる性分なんです。今回も、子供が手を離れたし旅でもしようかと思い、とりあえずは一年分、目につくツアーを片っ端から予約したのがそもそもの始まりでした」
『こういう旅はもう二度としないだろう』は、そんな旅の道程を綴ったエッセイ集。赤の他人と寝食を共にし、何かと煩わしいことも多いツアー旅を、氏は自ら〈そっけない書き方に驚きました〉とあとがきに書くほど淡々と綴る。良いことも悪いことも評価や是非を挟まず、丸ごと感じとるのが、詩人という人種らしい。
 以下ツアー名を並べれば、「ベトナム『世界遺産の街ホイアンに4連泊』」「ニュージーランド『先住民のワイタハ族と火と水のセレモニーを体験するツアー』」「スリランカ『仏教美術をめぐる旅』」「インド『薄紅色に染まる聖域 春のラダックツアー』」など、比較的秘境系が多く、参加人数も5~30名強と、まちまちだ。
 まずは2016年1月、〈準備運動的〉に行ったホイアンで、彼女は何かにつけて文句の多い〈酒おじさん〉の隣で〈この人は不平不満が言葉みたいな人だ〉などと思いながら、特に美味でもない食事を口にしたりする。
「最近のツアーは一人客も多いのですが、食事時は隣に座るのが不機嫌なおじさんでもお喋りなおばさんでも気を遣い、部屋に戻ると〈ひとりはいいなあ〉と思ったりしました(笑い)。ただし食事が不味いこと自体は問題ではないというか、私はそれを不味いと感じた事実とか現象を書くので、極端な話、面白くなくてもいいんです、私の旅は」
 だからこそ特に興味もない仏像巡りや歴史探訪にも参加。〈龍のお世話をするドラゴンケアーテイカー〉なる先住民族の長老を囲む、主宰者も参加者もスピリチュアル系(!)のツアーでも一切壁を作らない銀色氏は、繊細な事情を抱えた人々の感情を吸いこんでクタクタになりながらも、最後にはこんな境地に至る。
〈どの人にも、他人とは思えない親しみを感じる〉〈嫌いだと思った人にも、好きだと思った人にも〉〈表面的な好き嫌いの感情は人の本質じゃない。本質は心のずっと奥にあって好き嫌いに左右されない〉〈二度と会うことがなくても、ずっとこの気持ちは変わらないだろう〉
◆存在しているというだけで素敵
 そして〈旅は人生の縮図〉〈この小さなツアー世界にも曼荼羅のように人間関係が描かれていた。その絵はそこだけにしか咲き得ない花なのだ〉〈すべてに感謝〉と書く銀色氏は、ツアーはもうこりごりと言いつつ、次なるツアーにまたも足を向けてしまうのである。
「次はキャンセルしようと思いつつ、結局は行ってしまうんです。行っている渦中では楽しくなくても、後から振り返るといい旅に思えてくるのも不思議で、“文句おじさん”にもそうなった理由があるんだろうなと、つい想像してしまって。
 私は昔からそうなんです。例えば普段はクラス内で敵対する同士が、いざクラス対抗の行事になると急に団結するのを見て、そうか、人間は大きな敵が外にできれば内部は味方にもなり、物事は視点一つで変わるんだなって、真理を発見した気分になりました。人間、好き嫌いはあっても良い悪いはないし、全ては状況次第。自分もどう変わるか分からない以上、批判はできないなと、そういう私の物の見方を書いたのがこの旅行記とも言えます」
 そうしたゴタゴタに対し、行く先々の自然の素晴らしさは思わず見惚れてしまうほど。それもいわゆる名所旧跡よりは、その土地土地で違う植生や、スリランカの古代都市の〈サルのなる木〉、町で見かけた素朴な少女や土産物を氏のカメラは捉え、それらが本書内ではパッチワークさながらに旅の全容を編み上げる。
「サルのなる木は、木の上にサルが沢山いて、本当に実みたいに見えるんです。料理も写真で見るとみんな美味しそうだし、評価とは関係なく、そこに存在しているというだけで素敵です。
 私は人が介在しない景色や珍しい動植物を見るのも好きだけど、好ましい体験だけを求めているわけでもありません。大事なのは自分が何を感じ、出会った人や景色との間に何が生じたかで、どんなに嫌でつまらない旅にも必ず価値があると思うんです。つまり興味があるから行くんじゃなく、行きたくなった先が目的地になる。そして、やっぱり嫌いなままだったり意外なものを好きになったりする点は、それこそ人生に近い。
 ただ最近は幸福感が無くなってしまって。若い頃は容れ物が小さいから感情が溢れるのも早かった。今は物事の好き嫌いが境目を失い、何があっても恬淡(てんたん)としていられる分、100%嬉しいとか哀しいとかもない。ずっとそうなりたかったという意味では夢は叶いました。それなのに幸せでも不幸でもないなんて、何だか皮肉で淋しい話ですね」
 美しいものもそうでないものも、全てはそこにあるという真実を詩人が丸ごと活写する時、私たち読者の見る景色までが音を立てて変わる。おそらく表題にはこんな旅は二度とできないし、誰にもできないという二重三重の意味が含まれ、旅路にあろうとなかろうと人生の一回性を享受するほかない生きとし生ける者への憐れみが、この風変わりな旅行記には横溢していた。
【プロフィール】ぎんいろ・なつを/宮崎県出身。詩人。1985年に第一詩集『黄昏国』でデビュー。以来写真詩集やイラスト詩集を幅広く手がけ、エッセイ集も多数。また作詞に大澤誉志幸『そして僕は途方に暮れる』や、2011年NHK全国学校音楽コンクール課題曲『僕が守る』など。最新刊は『まっすぐ前 そして遠くにあるもの』(幻冬舎文庫)。「旅仲間を見つけるのって本当に難しくて、娘とは一度行って懲りました(笑い)」。158cm、O型。
■構成/橋本紀子 ■撮影/国府田利光
※週刊ポスト2018年2月9日号
https://news.nifty.com/article/item/neta/12180-647659/

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写真家の情熱からかたちになった1冊。 北海道、アイヌと木彫りの熊の物語。

2018-02-03 | アイヌ民族関連
T-SITEニュース2018年2月2日 (金) 19:30 配信 コロカル ローカルを学ぶ・暮らす・旅する

写真家の情熱からかたちになった1冊の本
北海道の木彫りの熊といわれて、鮭をくわえたその姿をイメージする人は多いだろう。それくらいお土産の定番だったわけだが、多くの土産物がそうであるように、どんな人がつくっているのかというところまでは、よほど気になることがない限り、なかなか考えが及ばないもの。
ましてやこんなに豊かな物語が背後に潜んでいるなんて、『熊を彫る人』という1冊の本に出会わなかったら、知ることができなかったかもしれない。
本書の副題は、『木彫りの熊が誘うアイヌの森 命を紡ぐ彫刻家・藤戸竹喜の仕事』。藤戸竹喜さんは、1934(昭和9)年旭川に生まれたアイヌの彫刻家。11歳から熊彫りを始めて、阿寒湖畔にアトリエを構え、アイヌ民族の伝統を受け継ぎながら現役で活躍しているのだが、藤戸さんが彫る動物たちは、自然が神様であるというアイヌの考え方や生き方を、そのまま表しているような躍動感に満ちている。
一方で、木彫り熊の歴史は大きく旭川と八雲、2つのルーツがある。藤戸さんは、旭川の流れと深い関わりをもつ。アイヌの人たちには昔から暮らしや祭りで使う道具を木彫りでつくってきた伝統があり、旭川の木彫り熊は土産物として必要とされて生まれたものといわれている。
ワシントンD.C.の世界的に有名な博物館群である〈スミソニアン博物館〉に作品が展示されたりなど、国内外での評価も高く、彫刻家として一目置かれる存在なのだが、この本は藤戸さんの輝かしい功績をたどる種類のものではないし、図録のように作品を整然と並べたものでもない。藤戸さんの記憶や、時代とともにかたちを変えてきた阿寒湖の風景が、写真と文章で叙情的に立ち上がってくる、童話のような1冊だ。
阿寒湖での衝撃的な出会い
写真を担当したのは、コロカルでも活躍している在本彌生さん。この本はいってみれば在本さんの情熱から生まれたものなのだが、彼女が藤戸さんの作品と初めて出会ったのも、実はコロカルの取材先でのことだった。
「2年前に阿寒湖で、藤戸さんのつくった木彫りのオオカミを見たとき、これを自然のなかで撮ってみたいと直感的に思ったんです。ちょうど『わたしの獣たち』という自分の写真集をまとめている時期で、藤戸さんの作品に野性的なもの感じたというか、この世にひとつしかないようなあり様が独特なものに、興味があったのだと思います」
東京に戻ってきてもその気持ちは収まらず、藤戸さんの自宅に直接電話をして、再び北海道へ。藤戸さんと奥さまの茂子さんにお会いして、撮影自体は快く承諾してもらえたものの、在本さんはただ写真を撮って終わりになるようなものにはしたくないと、そのときすでに思っていたようだ。
誘われたライターの村岡俊也さんも、在本さんが興奮気味に話す作品の魅力や、藤戸さんという人物に興味を持ち、文章を担当することに。ふたりで初めて藤戸さんのアトリエを訪れたのは、マイナス20度を下回る極寒の時期だった。
木彫り熊の申し子として
ふたりが語る藤戸さんの印象は「おっかない人」。といっても声を荒げたり、厳しい態度をとるという意味ではなく、やさしいからこそ威厳があって、畏怖すべき存在に映ったようだ。
「人の力とかよりも、自然や目に見えていないもののほうを、よっぽど信用しているような印象を受けるんです。それこそ動物のボスみたいな迫力があって、見えない何かを統括している感じ」(在本さん)
「本当のことをわかっている人っているじゃないですか。おまえたちもそれがわかっているんだったら、一緒にやってもいいよっていう感じの目線なんです。僕らが勝手に汲み取っている部分も、もちろんあるとは思うのですが(笑)」(村岡さん)
人間と動物や自然の間にグラデーションがあるとしたら、動物や自然により近い人、とでもいうのだろうか。本書に収められている、カラスに食べ物をあげようとしているときの表情や、若いときに飼っていた熊(!)と遊んでいる表情は、見ているこちらまで思わず微笑んでしまうほど柔らかい。
さらに藤戸さんのライフストーリーを知ると、なぜ底知れないやさしさや大きさを感じてしまうのかが、なんとなくわかる気がする。たとえば雪の重みで潰れてしまった家で凍ったご飯を食べながら、出稼ぎに行った父の帰りを1か月も待ち続けた、小学1年生の記憶。その後、小学校を2年で辞めて、旅をする父の傍らで見よう見まねで熊彫りを始めるようになるのだが。
「最初は衝撃を受けたけど、冷静に考えると、当時はこういう話がそれほど珍しくはなかったのかもしれないと思うんです。現代の暮らしで忘れてしまっているようなことや、すっかりなかったことになっているようなことを、藤戸さんの話は思い出させてくれるんですよね」(村岡さん)
日本全国のデパートで催される北海道物産展で、実演販売の武者修行をして、20代半ばに阿寒湖に戻ってくると、北海道旅行がブームに。「アイヌルネッサンス」と藤戸さんが呼ぶこの時代は、熊彫り仲間も多く、遊びもケンカもやりたい放題。羨ましくなるくらい自由で、楽しそうだ。
「茂子さんが藤戸さんのことを『木彫り熊の申し子のような人』と言っていたのですが、木彫り熊の盛衰と藤戸さんの人生が重なっているんですよね。黎明期を知るお父さんから受け継いで、仲間がたくさんいて賑やかだった時代を経験して、観光客の減少とともに仲間も減っていく過程を全部見ているので」(村岡さん)
神を彫るという行為の意味
木彫りの動物たちの撮影は、春夏秋冬それぞれの季節に阿寒湖周辺で行われた。鮭をくわえた例の見慣れたスタイルの木彫り熊も、川の岩場で喜んでいるように見える。雪が溶けて春の到来を喜ぶようにじゃれ合う子熊たちや、深い緑の鬱蒼とした森に佇む熊。在本さんが最初にインスピレーションを受けたオオカミは、美しい雪景色のなかで撮影された。
熊やオオカミはアイヌの人にとって神らしいのだが、藤戸さんが彫るそれらは、どこか親しみを感じさせる。若い頃に飼っていた熊を「人懐っこくて、人間の子どもと一緒だ」と言うのも納得だ。制作風景や工房の様子も収められているのだが、デッサンを一切描かず、丸太から動物たちが浮かび上がってくる様は、魔法のように見事だという。
藤戸さんへのインタビューは、聞き出すというよりも、言葉を受け取る作業だったと村岡さんは振り返る。祖母が歌うユーカラ(アイヌの叙事詩)を耳にしながら眠った藤戸さんは、物語を他者に伝えることがやはり得意なのだろう。生き生きとした語り口からそのことが伝わってくる。
「話を聞いてから阿寒町史を読むと、阿寒湖の風景が違って見えてくるのがおもしろかったですね。藤戸さんの話はたしかにユーカラみたいなところがあったけど、塊として本当のことを伝えることに重きを置いているのだと思うんです。本来、物語にはそういう役割があると思うし、彌生さんの写真も物語の一部として藤戸さんの世界を可視化してくれているんですよね」(村岡さん)
もともと北海道に興味はあり、取材で訪れる機会も幾度となくあったものの、ひとつのことをテーマにこれほど深く関わったのは、ふたりとも初めての経験だった。
「写真を撮りたいという単純な初期衝動から、一歩踏み込んでみたら興味深いことがどんどん出てきて、自分にとって本当に学びの多い経験でした。木彫りの動物を入り口にこんなふうに世界が広がっていくなんて、最初はもちろん想像できなかったので」(在本さん)
「初冠雪の日に雄阿寒岳に登って、木彫り熊を草むらに置いたとき、熊という神様を藤戸さんが彫る意味がちょっとわかった気がしたんです。恐れる対象としての神ではなく、近くに息づいている神。アイヌの神様が森羅万象にいることは、頭のなかではわかっていたけれども、取材を通してこういうことを体感できたのは、とてもうれしかったですね」(村岡さん)
木彫りの動物たちが自然のなかで生き生きと動き回る、童話のような世界のなかで、ひとりの熊彫りの人生、アイヌの歴史、阿寒湖やその周辺の風景、人間と自然のあり方にまで思いが広がっていく。藤戸さんの穏やかな語り口が、今にも聴こえてきそうだ。
現在、大阪の〈国立民族学博物館〉本館企画展示場で開催している『現れよ。森羅の生命ー 木彫家 藤戸竹喜の世界』は、藤戸さんの作品を間近で見ることのできる絶好の機会。森の中をそのまま再現するような熊の姿や、アイヌの先人たち、海の動物、狼とアイヌの物語など約90点を展示している。本書とともに感動をぜひ味わってほしい。2018年3月13日まで。
information
『熊を彫る人』
小学館 価格:2300円(税別)
information
『現れよ。森羅の生命ー 木彫家 藤戸竹喜の世界』
会期:2018年1月11日〜3月13日
会場:国立民族学博物館
住所:大阪府吹田市千里万博公園10-1
電話:06-6876-2151
開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで) 
定休日:水曜日
Web:http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/thematic/aynu20180111/index
writer profile
Ikuko Hyodo
兵藤育子
ひょうどう・いくこ●山形県酒田市出身、ライター。海外の旅から戻ってくるたびに、日本のよさを実感する今日このごろ。ならばそのよさをもっと突き詰めてみたいと思ったのが、国内に興味を持つようになったきっかけ。年に数回帰郷し、温泉と日本酒にとっぷり浸かって英気を養っています。
photographer profile
Nobuto Osakabe
刑部信人
おさかべ・のぶと●フォトグラファー静岡県出身、東京都在住。広告、書籍、映像の分野で活動。文化、人の暮らしに興味があり、「写真」で未来にどう残すかを日々考えています。2015年に写真集『花火』『HOLIDAY』を出版。http://nobuto-osakabe.com/
http://top.tsite.jp/news/lifetrend/o/38750647/

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映画『捜索者』を観たときの強い違和感と陰惨な印象の正体 [橘玲の世界投資見聞録]

2018-02-03 | 先住民族関連
ダイヤモンド・オンライン2018年2月1日
『捜索者』(DVD発売:ワーナーエンターテイメントジャパン) 
 ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇のひとつに『捜索者』がある。原題は“The Searchers”で、インディアンにさらわれた幼い姪を捜索する武骨な男をジョン・ウェインが演じている。『理由なき反抗』や『ウエストサイド物語』のナタリー・ウッドが出演しているというだけの理由で高校生のときにテレビで見たのだが、肝心のウッドはインディアンの妻となった役でほんのすこししか出てこず、強い違和感と陰惨な印象しか残らなかった。
 ではなぜいまこの映画の話をするかというと、アメリカのジャーナリスト、グレン・フランクルの『捜索者』を読んだからだ。フランクルはこの1本の西部劇について、邦訳で500ページを超える大部の本を書いた。なにをこれほど語ることがあるのだろうかと、不思議に思ったのが本を手に取ったきっかけだ。
 フランクルによると、映画『捜索者』は1956年に大型西部劇として鳴り物入りで公開されたものの、評価も興行成績も可もなく不可もなくという程度で、『駅馬車』や『アパッチ砦』『黄色いリボン』といったフォード西部劇の傑作と比べるとほとんど注目されなかった。
 それが1960年代にジャン・リュック・ゴダールなどフランス・ヌーベルバーグの映画作家たちによって再発見され、マーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ジョン・ミリアスといったアメリカの新世代の監督たちに熱烈に支持された。『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』といった作品にも歴然とした影響が認められるが、『捜索者』を現代に蘇らせたのはなんといってもスコセッシの『タクシードライバー』だという。
 暗い怒りを抱いてニューヨークの町を流すタクシー・ドライバー(ロバート・デニーロ)は、少女の娼婦(ジョディ・フォスター)を救うという妄想に駆られ“たった一人の戦争”を決行する。その狂気は、『捜索者』でウェインが演じたイーサン・エドワーズと共通するというのだ。
 こうした再評価により近年では“『捜索者』現象”とでも呼ぶべきブームが起きていて、アメリカ映画協会が2008年に行なった「アメリカ映画の名作」西部劇部門で1位に輝き、2012年にイギリスの『サイト・アンド・サウンド』誌が行なった投票では総合7位に選出されている。もはや『捜索者』は、押しも押されもせぬジョン・フォード+ジョン・ウェインの最高傑作のひとつになったのだ。
インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」
『捜索者』は1868年、南北戦争に敗れた南軍の元兵士イーサン・エドワーズがテキサスの開拓地(ただし撮影地はジョン・フォードが好んだアリゾナのモニュメント・バレー)にある兄アーロンの家を数年ぶりに訪れるところから始まる。そこには兄嫁のマーサ、長男のペン、ルーシーとデビーの姉妹の5人家族と、かつてイーサンが成り行きで助け、家族同然に育てられたインディアンと白人との混血(本人は「インディアンの血は8分の1」といっている)のマーティン・ポリーがいる。
 翌朝、近隣の牧場からコマンチ族によって牛が盗まれたことで捜索隊が出されることになり、イーサンとマーティンが参加する。しかしそれはコマンチ族の罠で、男たちをおびき出した隙に開拓地が襲われた。イーサンたちがあわてて戻ったときには、アーロンとペンは惨殺され、(イーサンがほのかに思いを寄せていた)兄嫁のマーサは犯された末に殺され、ルーシーとデビーの姉妹は拉致された。イーサンは、ルーシーの婚約者ブラッドとマーティンを連れて姪たちの「捜索」を始めるのだ――途中でルーシーが殺されていたことがわかり、自暴自棄になったブラッドは単身コマンチのテントに突入し殺されたため、その後の「捜索」はイーサンとマーティンで行なうことになる。
 これが映画のあらすじだが、このあたりで「インディアン」という表記について述べておかなくてはならない。場合によっては、これはPC(政治的な正しさ)に抵触するとされるからだ。
 新大陸を「発見」したコロンブスはそこがインドだと誤解し、原住民を「Indian(インド人)」と呼んだ(スペイン語では「インディオ」になる)。彼らはもちろん「インド」とはなんの関係もないのだから、その後、「ネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)」という呼称が使われるようになる。これは、「黒人(Black)」が差別語だとして、「アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)」と“政治的に正しく”呼ぶようになったことに対応している。
 ところが1960年代の公民権運動の盛り上がりのなかで、黒人活動家たちは「Black Power」「Black is Beautiful」を掲げた。アメリカの黒人の多くは、もはやアフリカにほとんど心情的なつながりももっていない。そんな自分たちを「アフリカ」と結びつけた奇妙な呼称を拒否し、「Black」であることに誇りをもとうというのだ。
 ここでさらに追記しておくと、それまで「白人(White)」も差別語とされていたが、黒人がBlackを自ら名乗ったことで、「コケイジャンCaucasian」という(これまた)奇妙な呼称も使われなくなっていく。アメリカの白人はヨーロッパからの移民なのだから「ヨーロピアン・アメリカン(ヨーロッパ系アメリカ人)」でよさそうなものだが、これはヨーロッパ中心主義を連想させるからか、白人とインド人の共通の子孫であるアーリア人の故郷コーカサスCaucasusから「コケイジャン(コーカサス人)」という言葉がつくられた。だがコーカサスがアーリア人発祥の地という証拠は乏しく、ナチスは自らを純粋な「アーリア人種」としてホロコーストを行なった。
 閑話休題。アメリカの黒人が「アフリカン・アメリカン」の呼称を拒絶すると、次にアメリカ原住民が「ネイティブ・アメリカン」という呼び方に異議を唱えた。彼らはコマンチ、アパッチ、ナバホなどの部族の末裔であり、「ネイティブ」などという聞いたこともない人種の子孫ではないのだ。そして、もし自分たちの総称が必要だというのなら、歴史的に使われていた「インディアン」の方がまだましだと主張した。かつて彼らの祖先は「インディアン」として、侵略者である白人と誇りをもって戦ったのだから。
 だがアメリカには、インドからの移民もたくさん暮らしている。そこで「インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」が使い分けられるようになった。フランクルの『捜索者』のようにアメリカ原住民を指すことが明らかな場合は、たんに「インディアン」でも問題ないとされている。
 ちなみに、大統領時代のビル・クリントンが大リーグ「クリーブランズ・インディアンス」の始球式にチームのベースボールキャップをかぶらずに登場したことが物議をかもしたように、この表現はいまでも政治的にきわめて微妙だ。球団のマスコットである頭に羽根をつけた「ワフー首長」や、アメリカ原住民出身の選手が一人もいないのに「インディアンス」を名乗ることを問題にするひとたちがいるからだ。――大リーグ機構と球団が話し合った結果、来シーズンから「ワフー首長」のロゴをユニフォームから外すことが決まった。
 さらにいっておくと、日本には「原住民」は差別語で「先住民」に言い換えるべきだとの主張があるが、漢語として両者には明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、いまも暮らしているひとたち」で、「先住民」は「かつて住んでいたが、いまは絶滅してしまったひとたち」のことだ。日本の台湾統治時代に「高砂族」と呼ばれていたひとたちは「台湾原住民」であり、「台湾先住民」とはぜったいにいわない。このことは霧社事件を描いた台湾映画『セデック・バレ』で教えられたのだが、それ以来、漢字本来の意味にのっとって「原住民」の表記を使っている。
――というように、人種にまつわる言葉の使い方はものすごくむずかしい。そしてこのことは、映画『捜索者』にも大きな影を落としている。インディアンが「政治的に正しく」描かれているかが映画の評価に直結するからだ。
映画『捜索者』のストーリーは実話だった
 西部開拓の歴史とはインディアンの土地をヨーロッパから移民した貧しい白人たちが略奪していく過程だが、彼らはそれを「神の意思」だと考えていた。アメリカとは、キリストを信じる敬虔な者たちに神が与えた祝福で、荒野をさまよう者たちは自らを「モーゼの民」の現身(うつしみ)だと信じていた。
 そんな彼らにとってインディアンは、「卑劣で、野蛮で、何の信念も持たない動物、すなわち人間以下の存在」以外の何者でもなかった(カッコ内はフランクル『捜索者』からの引用。以下同)。アメリカ独立宣言のなかでトマス・ジェファーソンは、「無慈悲で野蛮なインディアン、あらゆる年齢、性別、境遇を問わず、すべての人間を無条件に殺戮することを闘いの目的とするインディアンを、フロンティアの開拓者たちに立ち向かわせようとした」と、イギリスのジョージ三世を非難している。
 現在のリベラルな立場からは、インディアンへの復讐に偏執する男を主人公にした『捜索者』の物語設定は「白人中心主義」と呼ぶほかないが、フランクルは著書のなかで、映画のストーリーは創作ではなく実話であることを明らかにする。
 1836年5月19日、「テキサス共和国」の辺境にあるパーカー家の砦がコマンチ族に襲われ、男たちが殺され、9歳の少女シンシア・アンら5人が連れ去られた。そのことを知ったジェームズ・パーカーは、姪たちを奪還するため「捜索者」として生涯を捧げる。ただし史実では、ジェームズは姪を見つけ出すことができず、シンシアは叔父の死後に「発見」されている。その後、シンシアとコマンチ族とのあいだに生まれたクアナという子どもまでが「発見」されたことでアメリカじゅうに知られる大ニュースになった。
 この出来事を第二次世界大戦後、西部を舞台とした娯楽小説を書いていたアラン・ルメイが発掘し、シンシアやクアナではなく、「捜索者」であるジェームズを主人公にした作品を世に出した。これがジョン・フォードの目にとまって、映画化が決まったのだ。
さらにフランクルは、西部開拓時代にはこれは特別な出来事ではなかったという。
 1682年、マサチューセッツのランカスター村に住んでいたにメアリー・ロウランドソンという女性が3人の子どもとともにナラガンセット・インディアンにさらわれたが、彼女の手記はアメリカで生まれた最初のベストセラーになった。その後、「インディアン虜囚譚」とでも呼ぶべき大衆小説のジャンルが成立する。そのなかでもっとも有名なのがジェイムズ・フェニモア・クーパーの『モヒカン族の最後』(1826)で、イングランド軍の隊長の美しい姉妹が狡猾なインディアンの族長に拉致されるが、それをモヒカン族の若きリーダー(白人との混血児)が救出して恋に落ちる。ダニエル・デイ=ルイス主演で映画化もされたから(『ラスト・オブ・モヒカン』)覚えているひともいるだろう。
 だがこの頃になると、都市に暮らす白人たちのあいだで「残酷な野蛮人」というインディアンへのステレオタイプが崩れてくる。1830年代に書かれた『メアリー・ジェミソン夫人の生涯』では、ニューヨーク西部のセネア・インディアンに囚われた若い白人女性が、文明社会には戻らず、自分を迎え入れたインディアンの部族と生きる道を選ぶのだ。19世紀になると、「白人の男を殺して頭髪を剥ぎ、女を犯し、子どもたちを拉致する」(開拓者たちによる)インディアン像とは別に、「高貴な野蛮人」というもうひとつのイメージがつくられた。インディアンという「未知との遭遇」は、恐怖と憧憬の双方からアメリカ創世の神話に埋め込まれているのだ。
 これに関して興味深いのは、新渡戸稲造がアメリカでの療養中に、知人たちに請われるままに『武士道』を英文で書いたことだ。19世紀末のアメリカの知識層が新渡戸から聞きたかったのは、日本の「正しい歴史」ではなく、高貴な野蛮人としての「サムライ」の物語だった。都市化したアメリカ人にとっては、インディアンもサムライ(武士)も、文明化によって失われた「古き良き騎士道の時代」を思い起こさせるコンテンツだったのだ。――このことはトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』によく描かれている。
コマンチ族は白人の憎悪を理解していなかった
 広大な北アメリカに上陸したヨーロッパの白人たちは、当初はごく少数の商人や冒険家で、インディアンと戦ったり奴隷化するのではなく交易によって富を得ようとした。こうしてインディアンは、馬と銃を手に入れることになる。開拓者たちが出会ったのは伝統的社会で暮らす「高貴な野蛮人」ではなく、強力な武装勢力だった。
 そのなかでもコマンチ族は、18世紀半ばにはテキサス西南部でもっとも恐れられる最強の部族となった。彼らにとって戦闘は一つの祭典であり、「敵の肉体をめちゃくちゃにすれば魂を永遠の地獄に落とすことができる」とされていた。コマンチは捕虜を拷問にかけ、手足を切断し、内臓をえぐり、首を切り落とし、頭皮をはいだ。もちろんこうした衝突が起こるのは白人開拓者が彼らの領土を侵食するからだが、その残酷さはヨーロッパ人にはとうてい理解できないものだった。
 だがそれ以上に白人たちの怒りを買ったのは、子どもが拉致されることだった。もともとコマンチには捕虜を奴隷として使う慣習があり、そのため女子どもを連れ去ったのだが、そのうち彼らは奇妙なことに気づく。どういう理由かはわからないが、開拓民たちは白人の子どもを買い戻そうとするのだ。それも、とてつもない大金で。
 こうしてコマンチ族は、白人との接触によって「身代金ビジネス」に手を染めることになる。彼らの論理では、開拓民を襲って女子どもを拉致すればするほど、それは大金となって戻ってくるのだ。
 開拓民がインディアンの領土の最深部に入り込むにつれて、「身代金ビジネス」の格好の標的となって子どもたちが拉致されていく。さらに問題をこじらせたのは、コマンチ族が、白人の捕虜を残酷に扱うと、より高い身代金が取れると学んだことだった。しかし、これがどれほど白人たちの憎悪をかきたてるのかを最後まで理解することはできなかった。
 もちろんこれは、コマンチ(インディアン)には家族の愛情がない、ということではない。コマンチに拉致されたサラ・アン・ホーンというイギリス人女性は、彼らが同胞に対してかぎりなくやさしいことに驚いた。「お互いの連帯心の強さ、自分が飢えてまで乏しい食糧を仲間に分け与えようとする優しさ、それを見たら敬虔なキリスト教徒を自認する白人も、恥ずかしさのあまり赤面するでしょう!」と彼女は書く。「ところが、その彼らが、外部の人間に対してまったく逆の仕打ちをするのです」
 だとすればこれは、典型的な「文明の衝突」だ。フランクルは次のように述べている。
「コマンチが白人の虜囚を手放さないかぎり平和共存の道はなかった。そしてコマンチは、テキサス人の女子供の拉致がどんなに深い文明的、宗教的、性的、人種的憎悪をもたらすか、ついに理解できなかった。コマンチがごく当たり前のように虜囚に加える残虐行為故に、テキサス人は彼らを人間以下の存在と見なすようになった」
 インディアンに対する大規模な“民族浄化(エスニック・クレンジング)”が始まるのは時間の問題だった。
やがてコマンチだけでなくすべてのインディアンが“民族浄化”の対象となった
 開拓民とインディアンとの「文明の衝突」の最前線は、メキシコから独立して「共和国」になったばかりのテキサスだった。
 2代目テキサス大統領ミラボー・ラマーは、「森に棲む野蛮な人食い部族が殺戮をやめず、虎やハイエナのごとき獰猛さでわれわれを襲いつづけるのなら、断固たる報復をすべきである。われらが目的とは、彼らの殲滅、もしくは完全な駆逐である」と述べて、“ジェノサイド”のための白人部隊を創設した。これが西部劇に出てくる「騎兵隊」だ。
 皮肉なのは、この戦いにおいてインディアンと白人の双方が相手を非人間的な動物と見なしていたものの、じつは彼らがとてもよく似ていたことだ。お互いにライフル、ピストル、トマホーク、弓矢で殺し合い、ルールや限度もなく、非戦闘員という概念もなく、相手のみならずその家族をも皆殺しにするのを当然とした。相手に最大限の苦痛と屈辱を与えなければ、勝利とはいえなかった。
 コマンチの残虐行為を形容するにあたって、テキサス人は“損壊”という言葉を使った。彼らにすれば、コマンチの所業は文明人の戦争行為ではなく、「野獣によるあさましくも原始的な捕食行為」だった。それをやめさせるには、捕食者を檻に閉じ込めるか、殺すしかなかった。
 標的はコマンチにとどまらなかった。テキサスの強硬路線の支持者たちは東テキサスで帰順した友好的なインディアンまでコマンチと同列に見なした。1839年の夏、耕した農場と集落から“自発的”に退去すべしという政府命令にチェロキー族が抵抗すると、2日間にわたって略奪と虐殺の戦いをしかけて追い出し、彼らの家屋と農地を焼き払った。
 白人部隊はなおも地域一帯の掃討作戦をつづけ、チェロキー、デラウェア、ショーニー、カド、キッカブー、セミノール諸族の集落を焼き払った。インディアンの逃げたあとには白人の入植者たちが素早く移り住んだ。こうして“民族浄化”は完成した。
 これが『捜索者』の背景で、このように説明されてようやく映画を観たときの違和感の正体がわかる。
 コマンチの襲撃で兄の一家が殺され、子どもたちが拉致されたと知ってもイーサンが冷静なのは、ジョン・ウェインが大根役者だからではなく、当時はそういうことがいくらでも起きていたからだ。イーサンの相棒となる若きマーティン・ポリーがインディアンとの混血児なのは奇をてらったわけではなく、白人女性が頻繁に拉致されているのだから、インディアンとのあいだに子どもが生まれるのは珍しくなかった。
 映画では、イーサンはコマンチの言葉を話すにもかかわらずインディアンを異常に憎悪しており、姪のデビーが拉致されたまま大人の女になった頃には、彼女を見つけたら殺そうと考えている。マーティンはそれを止めるために、イーサンから離れずに捜索をつづけるのだ。
 主人公のこの歪んだ執念が『捜索者』に勧善懲悪ではない深い陰影を与え、後世の再評価につながったのだろうが、ここにもちゃんとした理由がある。それは、拉致された女の子が大人になってから「救出」されることが実際に起きたからだ。だがこの話は次回にしよう。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)など。最新刊は『80's エイティーズ ある80年代の物語』(太田出版)が好評発売中。
http://diamond.jp/articles/-/158039

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開発局人事(1日)

2018-02-03 | アイヌ民族関連
北海道新聞 02/01 05:00
▽開発監理部会計課開発専門官=アイヌ関連施策監理官付併任(開発監理部会計課開発専門官)馬渕貴裕
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/160727

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