ダイヤモンド・オンライン2018年2月1日
『捜索者』(DVD発売:ワーナーエンターテイメントジャパン)
ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇のひとつに『捜索者』がある。原題は“The Searchers”で、インディアンにさらわれた幼い姪を捜索する武骨な男をジョン・ウェインが演じている。『理由なき反抗』や『ウエストサイド物語』のナタリー・ウッドが出演しているというだけの理由で高校生のときにテレビで見たのだが、肝心のウッドはインディアンの妻となった役でほんのすこししか出てこず、強い違和感と陰惨な印象しか残らなかった。
ではなぜいまこの映画の話をするかというと、アメリカのジャーナリスト、グレン・フランクルの『捜索者』を読んだからだ。フランクルはこの1本の西部劇について、邦訳で500ページを超える大部の本を書いた。なにをこれほど語ることがあるのだろうかと、不思議に思ったのが本を手に取ったきっかけだ。
フランクルによると、映画『捜索者』は1956年に大型西部劇として鳴り物入りで公開されたものの、評価も興行成績も可もなく不可もなくという程度で、『駅馬車』や『アパッチ砦』『黄色いリボン』といったフォード西部劇の傑作と比べるとほとんど注目されなかった。
それが1960年代にジャン・リュック・ゴダールなどフランス・ヌーベルバーグの映画作家たちによって再発見され、マーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ジョン・ミリアスといったアメリカの新世代の監督たちに熱烈に支持された。『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』といった作品にも歴然とした影響が認められるが、『捜索者』を現代に蘇らせたのはなんといってもスコセッシの『タクシードライバー』だという。
暗い怒りを抱いてニューヨークの町を流すタクシー・ドライバー(ロバート・デニーロ)は、少女の娼婦(ジョディ・フォスター)を救うという妄想に駆られ“たった一人の戦争”を決行する。その狂気は、『捜索者』でウェインが演じたイーサン・エドワーズと共通するというのだ。
こうした再評価により近年では“『捜索者』現象”とでも呼ぶべきブームが起きていて、アメリカ映画協会が2008年に行なった「アメリカ映画の名作」西部劇部門で1位に輝き、2012年にイギリスの『サイト・アンド・サウンド』誌が行なった投票では総合7位に選出されている。もはや『捜索者』は、押しも押されもせぬジョン・フォード+ジョン・ウェインの最高傑作のひとつになったのだ。
インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」
『捜索者』は1868年、南北戦争に敗れた南軍の元兵士イーサン・エドワーズがテキサスの開拓地(ただし撮影地はジョン・フォードが好んだアリゾナのモニュメント・バレー)にある兄アーロンの家を数年ぶりに訪れるところから始まる。そこには兄嫁のマーサ、長男のペン、ルーシーとデビーの姉妹の5人家族と、かつてイーサンが成り行きで助け、家族同然に育てられたインディアンと白人との混血(本人は「インディアンの血は8分の1」といっている)のマーティン・ポリーがいる。
翌朝、近隣の牧場からコマンチ族によって牛が盗まれたことで捜索隊が出されることになり、イーサンとマーティンが参加する。しかしそれはコマンチ族の罠で、男たちをおびき出した隙に開拓地が襲われた。イーサンたちがあわてて戻ったときには、アーロンとペンは惨殺され、(イーサンがほのかに思いを寄せていた)兄嫁のマーサは犯された末に殺され、ルーシーとデビーの姉妹は拉致された。イーサンは、ルーシーの婚約者ブラッドとマーティンを連れて姪たちの「捜索」を始めるのだ――途中でルーシーが殺されていたことがわかり、自暴自棄になったブラッドは単身コマンチのテントに突入し殺されたため、その後の「捜索」はイーサンとマーティンで行なうことになる。
これが映画のあらすじだが、このあたりで「インディアン」という表記について述べておかなくてはならない。場合によっては、これはPC(政治的な正しさ)に抵触するとされるからだ。
新大陸を「発見」したコロンブスはそこがインドだと誤解し、原住民を「Indian(インド人)」と呼んだ(スペイン語では「インディオ」になる)。彼らはもちろん「インド」とはなんの関係もないのだから、その後、「ネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)」という呼称が使われるようになる。これは、「黒人(Black)」が差別語だとして、「アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)」と“政治的に正しく”呼ぶようになったことに対応している。
ところが1960年代の公民権運動の盛り上がりのなかで、黒人活動家たちは「Black Power」「Black is Beautiful」を掲げた。アメリカの黒人の多くは、もはやアフリカにほとんど心情的なつながりももっていない。そんな自分たちを「アフリカ」と結びつけた奇妙な呼称を拒否し、「Black」であることに誇りをもとうというのだ。
ここでさらに追記しておくと、それまで「白人(White)」も差別語とされていたが、黒人がBlackを自ら名乗ったことで、「コケイジャンCaucasian」という(これまた)奇妙な呼称も使われなくなっていく。アメリカの白人はヨーロッパからの移民なのだから「ヨーロピアン・アメリカン(ヨーロッパ系アメリカ人)」でよさそうなものだが、これはヨーロッパ中心主義を連想させるからか、白人とインド人の共通の子孫であるアーリア人の故郷コーカサスCaucasusから「コケイジャン(コーカサス人)」という言葉がつくられた。だがコーカサスがアーリア人発祥の地という証拠は乏しく、ナチスは自らを純粋な「アーリア人種」としてホロコーストを行なった。
閑話休題。アメリカの黒人が「アフリカン・アメリカン」の呼称を拒絶すると、次にアメリカ原住民が「ネイティブ・アメリカン」という呼び方に異議を唱えた。彼らはコマンチ、アパッチ、ナバホなどの部族の末裔であり、「ネイティブ」などという聞いたこともない人種の子孫ではないのだ。そして、もし自分たちの総称が必要だというのなら、歴史的に使われていた「インディアン」の方がまだましだと主張した。かつて彼らの祖先は「インディアン」として、侵略者である白人と誇りをもって戦ったのだから。
だがアメリカには、インドからの移民もたくさん暮らしている。そこで「インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」が使い分けられるようになった。フランクルの『捜索者』のようにアメリカ原住民を指すことが明らかな場合は、たんに「インディアン」でも問題ないとされている。
ちなみに、大統領時代のビル・クリントンが大リーグ「クリーブランズ・インディアンス」の始球式にチームのベースボールキャップをかぶらずに登場したことが物議をかもしたように、この表現はいまでも政治的にきわめて微妙だ。球団のマスコットである頭に羽根をつけた「ワフー首長」や、アメリカ原住民出身の選手が一人もいないのに「インディアンス」を名乗ることを問題にするひとたちがいるからだ。――大リーグ機構と球団が話し合った結果、来シーズンから「ワフー首長」のロゴをユニフォームから外すことが決まった。
さらにいっておくと、日本には「原住民」は差別語で「先住民」に言い換えるべきだとの主張があるが、漢語として両者には明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、いまも暮らしているひとたち」で、「先住民」は「かつて住んでいたが、いまは絶滅してしまったひとたち」のことだ。日本の台湾統治時代に「高砂族」と呼ばれていたひとたちは「台湾原住民」であり、「台湾先住民」とはぜったいにいわない。このことは霧社事件を描いた台湾映画『セデック・バレ』で教えられたのだが、それ以来、漢字本来の意味にのっとって「原住民」の表記を使っている。
――というように、人種にまつわる言葉の使い方はものすごくむずかしい。そしてこのことは、映画『捜索者』にも大きな影を落としている。インディアンが「政治的に正しく」描かれているかが映画の評価に直結するからだ。
映画『捜索者』のストーリーは実話だった
西部開拓の歴史とはインディアンの土地をヨーロッパから移民した貧しい白人たちが略奪していく過程だが、彼らはそれを「神の意思」だと考えていた。アメリカとは、キリストを信じる敬虔な者たちに神が与えた祝福で、荒野をさまよう者たちは自らを「モーゼの民」の現身(うつしみ)だと信じていた。
そんな彼らにとってインディアンは、「卑劣で、野蛮で、何の信念も持たない動物、すなわち人間以下の存在」以外の何者でもなかった(カッコ内はフランクル『捜索者』からの引用。以下同)。アメリカ独立宣言のなかでトマス・ジェファーソンは、「無慈悲で野蛮なインディアン、あらゆる年齢、性別、境遇を問わず、すべての人間を無条件に殺戮することを闘いの目的とするインディアンを、フロンティアの開拓者たちに立ち向かわせようとした」と、イギリスのジョージ三世を非難している。
現在のリベラルな立場からは、インディアンへの復讐に偏執する男を主人公にした『捜索者』の物語設定は「白人中心主義」と呼ぶほかないが、フランクルは著書のなかで、映画のストーリーは創作ではなく実話であることを明らかにする。
1836年5月19日、「テキサス共和国」の辺境にあるパーカー家の砦がコマンチ族に襲われ、男たちが殺され、9歳の少女シンシア・アンら5人が連れ去られた。そのことを知ったジェームズ・パーカーは、姪たちを奪還するため「捜索者」として生涯を捧げる。ただし史実では、ジェームズは姪を見つけ出すことができず、シンシアは叔父の死後に「発見」されている。その後、シンシアとコマンチ族とのあいだに生まれたクアナという子どもまでが「発見」されたことでアメリカじゅうに知られる大ニュースになった。
この出来事を第二次世界大戦後、西部を舞台とした娯楽小説を書いていたアラン・ルメイが発掘し、シンシアやクアナではなく、「捜索者」であるジェームズを主人公にした作品を世に出した。これがジョン・フォードの目にとまって、映画化が決まったのだ。
さらにフランクルは、西部開拓時代にはこれは特別な出来事ではなかったという。
1682年、マサチューセッツのランカスター村に住んでいたにメアリー・ロウランドソンという女性が3人の子どもとともにナラガンセット・インディアンにさらわれたが、彼女の手記はアメリカで生まれた最初のベストセラーになった。その後、「インディアン虜囚譚」とでも呼ぶべき大衆小説のジャンルが成立する。そのなかでもっとも有名なのがジェイムズ・フェニモア・クーパーの『モヒカン族の最後』(1826)で、イングランド軍の隊長の美しい姉妹が狡猾なインディアンの族長に拉致されるが、それをモヒカン族の若きリーダー(白人との混血児)が救出して恋に落ちる。ダニエル・デイ=ルイス主演で映画化もされたから(『ラスト・オブ・モヒカン』)覚えているひともいるだろう。
だがこの頃になると、都市に暮らす白人たちのあいだで「残酷な野蛮人」というインディアンへのステレオタイプが崩れてくる。1830年代に書かれた『メアリー・ジェミソン夫人の生涯』では、ニューヨーク西部のセネア・インディアンに囚われた若い白人女性が、文明社会には戻らず、自分を迎え入れたインディアンの部族と生きる道を選ぶのだ。19世紀になると、「白人の男を殺して頭髪を剥ぎ、女を犯し、子どもたちを拉致する」(開拓者たちによる)インディアン像とは別に、「高貴な野蛮人」というもうひとつのイメージがつくられた。インディアンという「未知との遭遇」は、恐怖と憧憬の双方からアメリカ創世の神話に埋め込まれているのだ。
これに関して興味深いのは、新渡戸稲造がアメリカでの療養中に、知人たちに請われるままに『武士道』を英文で書いたことだ。19世紀末のアメリカの知識層が新渡戸から聞きたかったのは、日本の「正しい歴史」ではなく、高貴な野蛮人としての「サムライ」の物語だった。都市化したアメリカ人にとっては、インディアンもサムライ(武士)も、文明化によって失われた「古き良き騎士道の時代」を思い起こさせるコンテンツだったのだ。――このことはトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』によく描かれている。
コマンチ族は白人の憎悪を理解していなかった
広大な北アメリカに上陸したヨーロッパの白人たちは、当初はごく少数の商人や冒険家で、インディアンと戦ったり奴隷化するのではなく交易によって富を得ようとした。こうしてインディアンは、馬と銃を手に入れることになる。開拓者たちが出会ったのは伝統的社会で暮らす「高貴な野蛮人」ではなく、強力な武装勢力だった。
そのなかでもコマンチ族は、18世紀半ばにはテキサス西南部でもっとも恐れられる最強の部族となった。彼らにとって戦闘は一つの祭典であり、「敵の肉体をめちゃくちゃにすれば魂を永遠の地獄に落とすことができる」とされていた。コマンチは捕虜を拷問にかけ、手足を切断し、内臓をえぐり、首を切り落とし、頭皮をはいだ。もちろんこうした衝突が起こるのは白人開拓者が彼らの領土を侵食するからだが、その残酷さはヨーロッパ人にはとうてい理解できないものだった。
だがそれ以上に白人たちの怒りを買ったのは、子どもが拉致されることだった。もともとコマンチには捕虜を奴隷として使う慣習があり、そのため女子どもを連れ去ったのだが、そのうち彼らは奇妙なことに気づく。どういう理由かはわからないが、開拓民たちは白人の子どもを買い戻そうとするのだ。それも、とてつもない大金で。
こうしてコマンチ族は、白人との接触によって「身代金ビジネス」に手を染めることになる。彼らの論理では、開拓民を襲って女子どもを拉致すればするほど、それは大金となって戻ってくるのだ。
開拓民がインディアンの領土の最深部に入り込むにつれて、「身代金ビジネス」の格好の標的となって子どもたちが拉致されていく。さらに問題をこじらせたのは、コマンチ族が、白人の捕虜を残酷に扱うと、より高い身代金が取れると学んだことだった。しかし、これがどれほど白人たちの憎悪をかきたてるのかを最後まで理解することはできなかった。
もちろんこれは、コマンチ(インディアン)には家族の愛情がない、ということではない。コマンチに拉致されたサラ・アン・ホーンというイギリス人女性は、彼らが同胞に対してかぎりなくやさしいことに驚いた。「お互いの連帯心の強さ、自分が飢えてまで乏しい食糧を仲間に分け与えようとする優しさ、それを見たら敬虔なキリスト教徒を自認する白人も、恥ずかしさのあまり赤面するでしょう!」と彼女は書く。「ところが、その彼らが、外部の人間に対してまったく逆の仕打ちをするのです」
だとすればこれは、典型的な「文明の衝突」だ。フランクルは次のように述べている。
「コマンチが白人の虜囚を手放さないかぎり平和共存の道はなかった。そしてコマンチは、テキサス人の女子供の拉致がどんなに深い文明的、宗教的、性的、人種的憎悪をもたらすか、ついに理解できなかった。コマンチがごく当たり前のように虜囚に加える残虐行為故に、テキサス人は彼らを人間以下の存在と見なすようになった」
インディアンに対する大規模な“民族浄化(エスニック・クレンジング)”が始まるのは時間の問題だった。
やがてコマンチだけでなくすべてのインディアンが“民族浄化”の対象となった
開拓民とインディアンとの「文明の衝突」の最前線は、メキシコから独立して「共和国」になったばかりのテキサスだった。
2代目テキサス大統領ミラボー・ラマーは、「森に棲む野蛮な人食い部族が殺戮をやめず、虎やハイエナのごとき獰猛さでわれわれを襲いつづけるのなら、断固たる報復をすべきである。われらが目的とは、彼らの殲滅、もしくは完全な駆逐である」と述べて、“ジェノサイド”のための白人部隊を創設した。これが西部劇に出てくる「騎兵隊」だ。
皮肉なのは、この戦いにおいてインディアンと白人の双方が相手を非人間的な動物と見なしていたものの、じつは彼らがとてもよく似ていたことだ。お互いにライフル、ピストル、トマホーク、弓矢で殺し合い、ルールや限度もなく、非戦闘員という概念もなく、相手のみならずその家族をも皆殺しにするのを当然とした。相手に最大限の苦痛と屈辱を与えなければ、勝利とはいえなかった。
コマンチの残虐行為を形容するにあたって、テキサス人は“損壊”という言葉を使った。彼らにすれば、コマンチの所業は文明人の戦争行為ではなく、「野獣によるあさましくも原始的な捕食行為」だった。それをやめさせるには、捕食者を檻に閉じ込めるか、殺すしかなかった。
標的はコマンチにとどまらなかった。テキサスの強硬路線の支持者たちは東テキサスで帰順した友好的なインディアンまでコマンチと同列に見なした。1839年の夏、耕した農場と集落から“自発的”に退去すべしという政府命令にチェロキー族が抵抗すると、2日間にわたって略奪と虐殺の戦いをしかけて追い出し、彼らの家屋と農地を焼き払った。
白人部隊はなおも地域一帯の掃討作戦をつづけ、チェロキー、デラウェア、ショーニー、カド、キッカブー、セミノール諸族の集落を焼き払った。インディアンの逃げたあとには白人の入植者たちが素早く移り住んだ。こうして“民族浄化”は完成した。
これが『捜索者』の背景で、このように説明されてようやく映画を観たときの違和感の正体がわかる。
コマンチの襲撃で兄の一家が殺され、子どもたちが拉致されたと知ってもイーサンが冷静なのは、ジョン・ウェインが大根役者だからではなく、当時はそういうことがいくらでも起きていたからだ。イーサンの相棒となる若きマーティン・ポリーがインディアンとの混血児なのは奇をてらったわけではなく、白人女性が頻繁に拉致されているのだから、インディアンとのあいだに子どもが生まれるのは珍しくなかった。
映画では、イーサンはコマンチの言葉を話すにもかかわらずインディアンを異常に憎悪しており、姪のデビーが拉致されたまま大人の女になった頃には、彼女を見つけたら殺そうと考えている。マーティンはそれを止めるために、イーサンから離れずに捜索をつづけるのだ。
主人公のこの歪んだ執念が『捜索者』に勧善懲悪ではない深い陰影を与え、後世の再評価につながったのだろうが、ここにもちゃんとした理由がある。それは、拉致された女の子が大人になってから「救出」されることが実際に起きたからだ。だがこの話は次回にしよう。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)など。最新刊は『80's エイティーズ ある80年代の物語』(太田出版)が好評発売中。
http://diamond.jp/articles/-/158039
『捜索者』(DVD発売:ワーナーエンターテイメントジャパン)
ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇のひとつに『捜索者』がある。原題は“The Searchers”で、インディアンにさらわれた幼い姪を捜索する武骨な男をジョン・ウェインが演じている。『理由なき反抗』や『ウエストサイド物語』のナタリー・ウッドが出演しているというだけの理由で高校生のときにテレビで見たのだが、肝心のウッドはインディアンの妻となった役でほんのすこししか出てこず、強い違和感と陰惨な印象しか残らなかった。
ではなぜいまこの映画の話をするかというと、アメリカのジャーナリスト、グレン・フランクルの『捜索者』を読んだからだ。フランクルはこの1本の西部劇について、邦訳で500ページを超える大部の本を書いた。なにをこれほど語ることがあるのだろうかと、不思議に思ったのが本を手に取ったきっかけだ。
フランクルによると、映画『捜索者』は1956年に大型西部劇として鳴り物入りで公開されたものの、評価も興行成績も可もなく不可もなくという程度で、『駅馬車』や『アパッチ砦』『黄色いリボン』といったフォード西部劇の傑作と比べるとほとんど注目されなかった。
それが1960年代にジャン・リュック・ゴダールなどフランス・ヌーベルバーグの映画作家たちによって再発見され、マーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、ジョン・ミリアスといったアメリカの新世代の監督たちに熱烈に支持された。『スター・ウォーズ』『未知との遭遇』といった作品にも歴然とした影響が認められるが、『捜索者』を現代に蘇らせたのはなんといってもスコセッシの『タクシードライバー』だという。
暗い怒りを抱いてニューヨークの町を流すタクシー・ドライバー(ロバート・デニーロ)は、少女の娼婦(ジョディ・フォスター)を救うという妄想に駆られ“たった一人の戦争”を決行する。その狂気は、『捜索者』でウェインが演じたイーサン・エドワーズと共通するというのだ。
こうした再評価により近年では“『捜索者』現象”とでも呼ぶべきブームが起きていて、アメリカ映画協会が2008年に行なった「アメリカ映画の名作」西部劇部門で1位に輝き、2012年にイギリスの『サイト・アンド・サウンド』誌が行なった投票では総合7位に選出されている。もはや『捜索者』は、押しも押されもせぬジョン・フォード+ジョン・ウェインの最高傑作のひとつになったのだ。
インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」
『捜索者』は1868年、南北戦争に敗れた南軍の元兵士イーサン・エドワーズがテキサスの開拓地(ただし撮影地はジョン・フォードが好んだアリゾナのモニュメント・バレー)にある兄アーロンの家を数年ぶりに訪れるところから始まる。そこには兄嫁のマーサ、長男のペン、ルーシーとデビーの姉妹の5人家族と、かつてイーサンが成り行きで助け、家族同然に育てられたインディアンと白人との混血(本人は「インディアンの血は8分の1」といっている)のマーティン・ポリーがいる。
翌朝、近隣の牧場からコマンチ族によって牛が盗まれたことで捜索隊が出されることになり、イーサンとマーティンが参加する。しかしそれはコマンチ族の罠で、男たちをおびき出した隙に開拓地が襲われた。イーサンたちがあわてて戻ったときには、アーロンとペンは惨殺され、(イーサンがほのかに思いを寄せていた)兄嫁のマーサは犯された末に殺され、ルーシーとデビーの姉妹は拉致された。イーサンは、ルーシーの婚約者ブラッドとマーティンを連れて姪たちの「捜索」を始めるのだ――途中でルーシーが殺されていたことがわかり、自暴自棄になったブラッドは単身コマンチのテントに突入し殺されたため、その後の「捜索」はイーサンとマーティンで行なうことになる。
これが映画のあらすじだが、このあたりで「インディアン」という表記について述べておかなくてはならない。場合によっては、これはPC(政治的な正しさ)に抵触するとされるからだ。
新大陸を「発見」したコロンブスはそこがインドだと誤解し、原住民を「Indian(インド人)」と呼んだ(スペイン語では「インディオ」になる)。彼らはもちろん「インド」とはなんの関係もないのだから、その後、「ネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)」という呼称が使われるようになる。これは、「黒人(Black)」が差別語だとして、「アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)」と“政治的に正しく”呼ぶようになったことに対応している。
ところが1960年代の公民権運動の盛り上がりのなかで、黒人活動家たちは「Black Power」「Black is Beautiful」を掲げた。アメリカの黒人の多くは、もはやアフリカにほとんど心情的なつながりももっていない。そんな自分たちを「アフリカ」と結びつけた奇妙な呼称を拒否し、「Black」であることに誇りをもとうというのだ。
ここでさらに追記しておくと、それまで「白人(White)」も差別語とされていたが、黒人がBlackを自ら名乗ったことで、「コケイジャンCaucasian」という(これまた)奇妙な呼称も使われなくなっていく。アメリカの白人はヨーロッパからの移民なのだから「ヨーロピアン・アメリカン(ヨーロッパ系アメリカ人)」でよさそうなものだが、これはヨーロッパ中心主義を連想させるからか、白人とインド人の共通の子孫であるアーリア人の故郷コーカサスCaucasusから「コケイジャン(コーカサス人)」という言葉がつくられた。だがコーカサスがアーリア人発祥の地という証拠は乏しく、ナチスは自らを純粋な「アーリア人種」としてホロコーストを行なった。
閑話休題。アメリカの黒人が「アフリカン・アメリカン」の呼称を拒絶すると、次にアメリカ原住民が「ネイティブ・アメリカン」という呼び方に異議を唱えた。彼らはコマンチ、アパッチ、ナバホなどの部族の末裔であり、「ネイティブ」などという聞いたこともない人種の子孫ではないのだ。そして、もし自分たちの総称が必要だというのなら、歴史的に使われていた「インディアン」の方がまだましだと主張した。かつて彼らの祖先は「インディアン」として、侵略者である白人と誇りをもって戦ったのだから。
だがアメリカには、インドからの移民もたくさん暮らしている。そこで「インディアン・アメリカン(インド系アメリカ人)」と「アメリカン・インディアン」が使い分けられるようになった。フランクルの『捜索者』のようにアメリカ原住民を指すことが明らかな場合は、たんに「インディアン」でも問題ないとされている。
ちなみに、大統領時代のビル・クリントンが大リーグ「クリーブランズ・インディアンス」の始球式にチームのベースボールキャップをかぶらずに登場したことが物議をかもしたように、この表現はいまでも政治的にきわめて微妙だ。球団のマスコットである頭に羽根をつけた「ワフー首長」や、アメリカ原住民出身の選手が一人もいないのに「インディアンス」を名乗ることを問題にするひとたちがいるからだ。――大リーグ機構と球団が話し合った結果、来シーズンから「ワフー首長」のロゴをユニフォームから外すことが決まった。
さらにいっておくと、日本には「原住民」は差別語で「先住民」に言い換えるべきだとの主張があるが、漢語として両者には明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、いまも暮らしているひとたち」で、「先住民」は「かつて住んでいたが、いまは絶滅してしまったひとたち」のことだ。日本の台湾統治時代に「高砂族」と呼ばれていたひとたちは「台湾原住民」であり、「台湾先住民」とはぜったいにいわない。このことは霧社事件を描いた台湾映画『セデック・バレ』で教えられたのだが、それ以来、漢字本来の意味にのっとって「原住民」の表記を使っている。
――というように、人種にまつわる言葉の使い方はものすごくむずかしい。そしてこのことは、映画『捜索者』にも大きな影を落としている。インディアンが「政治的に正しく」描かれているかが映画の評価に直結するからだ。
映画『捜索者』のストーリーは実話だった
西部開拓の歴史とはインディアンの土地をヨーロッパから移民した貧しい白人たちが略奪していく過程だが、彼らはそれを「神の意思」だと考えていた。アメリカとは、キリストを信じる敬虔な者たちに神が与えた祝福で、荒野をさまよう者たちは自らを「モーゼの民」の現身(うつしみ)だと信じていた。
そんな彼らにとってインディアンは、「卑劣で、野蛮で、何の信念も持たない動物、すなわち人間以下の存在」以外の何者でもなかった(カッコ内はフランクル『捜索者』からの引用。以下同)。アメリカ独立宣言のなかでトマス・ジェファーソンは、「無慈悲で野蛮なインディアン、あらゆる年齢、性別、境遇を問わず、すべての人間を無条件に殺戮することを闘いの目的とするインディアンを、フロンティアの開拓者たちに立ち向かわせようとした」と、イギリスのジョージ三世を非難している。
現在のリベラルな立場からは、インディアンへの復讐に偏執する男を主人公にした『捜索者』の物語設定は「白人中心主義」と呼ぶほかないが、フランクルは著書のなかで、映画のストーリーは創作ではなく実話であることを明らかにする。
1836年5月19日、「テキサス共和国」の辺境にあるパーカー家の砦がコマンチ族に襲われ、男たちが殺され、9歳の少女シンシア・アンら5人が連れ去られた。そのことを知ったジェームズ・パーカーは、姪たちを奪還するため「捜索者」として生涯を捧げる。ただし史実では、ジェームズは姪を見つけ出すことができず、シンシアは叔父の死後に「発見」されている。その後、シンシアとコマンチ族とのあいだに生まれたクアナという子どもまでが「発見」されたことでアメリカじゅうに知られる大ニュースになった。
この出来事を第二次世界大戦後、西部を舞台とした娯楽小説を書いていたアラン・ルメイが発掘し、シンシアやクアナではなく、「捜索者」であるジェームズを主人公にした作品を世に出した。これがジョン・フォードの目にとまって、映画化が決まったのだ。
さらにフランクルは、西部開拓時代にはこれは特別な出来事ではなかったという。
1682年、マサチューセッツのランカスター村に住んでいたにメアリー・ロウランドソンという女性が3人の子どもとともにナラガンセット・インディアンにさらわれたが、彼女の手記はアメリカで生まれた最初のベストセラーになった。その後、「インディアン虜囚譚」とでも呼ぶべき大衆小説のジャンルが成立する。そのなかでもっとも有名なのがジェイムズ・フェニモア・クーパーの『モヒカン族の最後』(1826)で、イングランド軍の隊長の美しい姉妹が狡猾なインディアンの族長に拉致されるが、それをモヒカン族の若きリーダー(白人との混血児)が救出して恋に落ちる。ダニエル・デイ=ルイス主演で映画化もされたから(『ラスト・オブ・モヒカン』)覚えているひともいるだろう。
だがこの頃になると、都市に暮らす白人たちのあいだで「残酷な野蛮人」というインディアンへのステレオタイプが崩れてくる。1830年代に書かれた『メアリー・ジェミソン夫人の生涯』では、ニューヨーク西部のセネア・インディアンに囚われた若い白人女性が、文明社会には戻らず、自分を迎え入れたインディアンの部族と生きる道を選ぶのだ。19世紀になると、「白人の男を殺して頭髪を剥ぎ、女を犯し、子どもたちを拉致する」(開拓者たちによる)インディアン像とは別に、「高貴な野蛮人」というもうひとつのイメージがつくられた。インディアンという「未知との遭遇」は、恐怖と憧憬の双方からアメリカ創世の神話に埋め込まれているのだ。
これに関して興味深いのは、新渡戸稲造がアメリカでの療養中に、知人たちに請われるままに『武士道』を英文で書いたことだ。19世紀末のアメリカの知識層が新渡戸から聞きたかったのは、日本の「正しい歴史」ではなく、高貴な野蛮人としての「サムライ」の物語だった。都市化したアメリカ人にとっては、インディアンもサムライ(武士)も、文明化によって失われた「古き良き騎士道の時代」を思い起こさせるコンテンツだったのだ。――このことはトム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』によく描かれている。
コマンチ族は白人の憎悪を理解していなかった
広大な北アメリカに上陸したヨーロッパの白人たちは、当初はごく少数の商人や冒険家で、インディアンと戦ったり奴隷化するのではなく交易によって富を得ようとした。こうしてインディアンは、馬と銃を手に入れることになる。開拓者たちが出会ったのは伝統的社会で暮らす「高貴な野蛮人」ではなく、強力な武装勢力だった。
そのなかでもコマンチ族は、18世紀半ばにはテキサス西南部でもっとも恐れられる最強の部族となった。彼らにとって戦闘は一つの祭典であり、「敵の肉体をめちゃくちゃにすれば魂を永遠の地獄に落とすことができる」とされていた。コマンチは捕虜を拷問にかけ、手足を切断し、内臓をえぐり、首を切り落とし、頭皮をはいだ。もちろんこうした衝突が起こるのは白人開拓者が彼らの領土を侵食するからだが、その残酷さはヨーロッパ人にはとうてい理解できないものだった。
だがそれ以上に白人たちの怒りを買ったのは、子どもが拉致されることだった。もともとコマンチには捕虜を奴隷として使う慣習があり、そのため女子どもを連れ去ったのだが、そのうち彼らは奇妙なことに気づく。どういう理由かはわからないが、開拓民たちは白人の子どもを買い戻そうとするのだ。それも、とてつもない大金で。
こうしてコマンチ族は、白人との接触によって「身代金ビジネス」に手を染めることになる。彼らの論理では、開拓民を襲って女子どもを拉致すればするほど、それは大金となって戻ってくるのだ。
開拓民がインディアンの領土の最深部に入り込むにつれて、「身代金ビジネス」の格好の標的となって子どもたちが拉致されていく。さらに問題をこじらせたのは、コマンチ族が、白人の捕虜を残酷に扱うと、より高い身代金が取れると学んだことだった。しかし、これがどれほど白人たちの憎悪をかきたてるのかを最後まで理解することはできなかった。
もちろんこれは、コマンチ(インディアン)には家族の愛情がない、ということではない。コマンチに拉致されたサラ・アン・ホーンというイギリス人女性は、彼らが同胞に対してかぎりなくやさしいことに驚いた。「お互いの連帯心の強さ、自分が飢えてまで乏しい食糧を仲間に分け与えようとする優しさ、それを見たら敬虔なキリスト教徒を自認する白人も、恥ずかしさのあまり赤面するでしょう!」と彼女は書く。「ところが、その彼らが、外部の人間に対してまったく逆の仕打ちをするのです」
だとすればこれは、典型的な「文明の衝突」だ。フランクルは次のように述べている。
「コマンチが白人の虜囚を手放さないかぎり平和共存の道はなかった。そしてコマンチは、テキサス人の女子供の拉致がどんなに深い文明的、宗教的、性的、人種的憎悪をもたらすか、ついに理解できなかった。コマンチがごく当たり前のように虜囚に加える残虐行為故に、テキサス人は彼らを人間以下の存在と見なすようになった」
インディアンに対する大規模な“民族浄化(エスニック・クレンジング)”が始まるのは時間の問題だった。
やがてコマンチだけでなくすべてのインディアンが“民族浄化”の対象となった
開拓民とインディアンとの「文明の衝突」の最前線は、メキシコから独立して「共和国」になったばかりのテキサスだった。
2代目テキサス大統領ミラボー・ラマーは、「森に棲む野蛮な人食い部族が殺戮をやめず、虎やハイエナのごとき獰猛さでわれわれを襲いつづけるのなら、断固たる報復をすべきである。われらが目的とは、彼らの殲滅、もしくは完全な駆逐である」と述べて、“ジェノサイド”のための白人部隊を創設した。これが西部劇に出てくる「騎兵隊」だ。
皮肉なのは、この戦いにおいてインディアンと白人の双方が相手を非人間的な動物と見なしていたものの、じつは彼らがとてもよく似ていたことだ。お互いにライフル、ピストル、トマホーク、弓矢で殺し合い、ルールや限度もなく、非戦闘員という概念もなく、相手のみならずその家族をも皆殺しにするのを当然とした。相手に最大限の苦痛と屈辱を与えなければ、勝利とはいえなかった。
コマンチの残虐行為を形容するにあたって、テキサス人は“損壊”という言葉を使った。彼らにすれば、コマンチの所業は文明人の戦争行為ではなく、「野獣によるあさましくも原始的な捕食行為」だった。それをやめさせるには、捕食者を檻に閉じ込めるか、殺すしかなかった。
標的はコマンチにとどまらなかった。テキサスの強硬路線の支持者たちは東テキサスで帰順した友好的なインディアンまでコマンチと同列に見なした。1839年の夏、耕した農場と集落から“自発的”に退去すべしという政府命令にチェロキー族が抵抗すると、2日間にわたって略奪と虐殺の戦いをしかけて追い出し、彼らの家屋と農地を焼き払った。
白人部隊はなおも地域一帯の掃討作戦をつづけ、チェロキー、デラウェア、ショーニー、カド、キッカブー、セミノール諸族の集落を焼き払った。インディアンの逃げたあとには白人の入植者たちが素早く移り住んだ。こうして“民族浄化”は完成した。
これが『捜索者』の背景で、このように説明されてようやく映画を観たときの違和感の正体がわかる。
コマンチの襲撃で兄の一家が殺され、子どもたちが拉致されたと知ってもイーサンが冷静なのは、ジョン・ウェインが大根役者だからではなく、当時はそういうことがいくらでも起きていたからだ。イーサンの相棒となる若きマーティン・ポリーがインディアンとの混血児なのは奇をてらったわけではなく、白人女性が頻繁に拉致されているのだから、インディアンとのあいだに子どもが生まれるのは珍しくなかった。
映画では、イーサンはコマンチの言葉を話すにもかかわらずインディアンを異常に憎悪しており、姪のデビーが拉致されたまま大人の女になった頃には、彼女を見つけたら殺そうと考えている。マーティンはそれを止めるために、イーサンから離れずに捜索をつづけるのだ。
主人公のこの歪んだ執念が『捜索者』に勧善懲悪ではない深い陰影を与え、後世の再評価につながったのだろうが、ここにもちゃんとした理由がある。それは、拉致された女の子が大人になってから「救出」されることが実際に起きたからだ。だがこの話は次回にしよう。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)など。最新刊は『80's エイティーズ ある80年代の物語』(太田出版)が好評発売中。
http://diamond.jp/articles/-/158039