サライ2018年02月04日
藤戸竹喜さん
(ふじと・たけき、木彫家)
――木彫りの熊でアイヌ文化を伝承
「彫るのではなく、彫らせてもらう。どんな小さな作品も、まず神への祈りを捧げます」
──今にも唸り声をあげそうな熊です。
「こういう彫り方は毛彫りといいます。細かい毛筋まで表現する技法で、少しでも“逃げ”や“ごまかし”があるとバランスが崩れてしまいます。例えば、熊にも人間のつむじのような毛の流れがあります。それを知るため……というより、ただ動物好きだっただけですが、私は若いときに熊(羆)を飼っていたこともあります。そうした経験も生きています」
──木彫り熊は素朴なものと思っていました。
「素朴なものはハツリ彫りとか面彫りと呼ばれるもので、ひと息で削ったような作風が特徴です。一定の型はありますが、職人それぞれが工夫を凝らし、手に取ってもらう努力をしてきたのが熊彫りです。私が得意とする毛彫りも、時代ごとに雰囲気が異なります」
──木彫り熊は北海道を代表する民芸です。
「ひと口に木彫り熊といわれますが、実はルーツがふたつあります。ひとつは、道南の八雲町に入植した和人が大正の終わり頃に始めた木彫り。八雲は尾張藩(現・愛知県)の武士だった人たちが開拓に入った土地です。大正12年(1923)、尾張徳川家19代当主の徳川義親さんが、外遊先のスイスで民芸品として売られていた木彫りの熊を買って帰りました。これを手本に八雲の農民に彫刻を奨励したというもので、収入が途絶える冬の職業支援だったそうです。
もうひとつのルーツは、アイヌ民族がマキリと呼ぶ小刀で表現してきた伝統的な彫刻です。アイヌの男性が被るサバンベという冠の中央には、木彫りの熊の顔がついています。イクパスイという酒を扱う祭具にも、よく熊が彫られている。明治以降盛んになった和人との交流の中で、この民族彫刻が民芸品になっていったのです。アイヌの末裔である私の技術的な源流は、後者です」
──そもそも、なぜ熊なのでしょう。
「アイヌはさまざまな動物をカムイ、つまり神の化身として崇めてきました。サルルン・カムイは丹頂で、湿原の神。コタン・コロ・カムイは島梟のことで、集落を守る神です。そして、カムイとひと言でいう場合は羆を指します。数ある神の化身の中でも熊は特別な存在です。アイヌの習俗を代表するイヨマンテも、神である熊の魂を神の国へ送り帰す儀式です。網走市にあるモヨロ貝塚など先史時代の遺跡からも、海獣の牙を彫って作った熊の像が出土しています。熊は北方民族にとって、太古から神なのです」
──お父上も腕のよい職人だったとか。
「父方の実家は旭川市の近文コタン(アイヌ集落)にありました。曾祖父の川上コヌサはそこの酋長として一目置かれる存在でした。父は、コタンでの暮らしの中でアイヌ伝統の木彫りの基本を身につけました。旭川は陸軍の第七師団が置かれ、早くから観光地としても開けていました。明治政府は、木の伐採や鮭の捕獲の禁止といった一方的な決まりをアイヌに押し付けましたが、そうした抑圧者の象徴が第七師団でした」
──さぞ不満が燻ぶっていたことでしょう。
「ですから、軍の新しい高官が赴任してきたときは、コタンの酋長を表敬訪問して融和を図るのが慣例でした。そのとき珍しがられたのが、彫刻や刺繍といったアイヌ芸術だったのです。軍人が勇ましさに通じる熊の彫り物を欲しがったことから次第に独立した彫像となり、土産物になっていきました」
──商品化の始まりですね。
「父は既にコタンに5軒ほどできていた木彫り店の仕事を面白いと感じたようです。若い仲間とあれこれ議論しながら、新しい技法にも挑戦しました。マキリぐらいしかなかった時代の彫刻は素朴でしたが、大工鑿(のみ)や彫刻刀が手に入るようになると、毛彫りのような精巧な彫りもできるようになりました。
技法の広がりと同時に、姿形も多様化していきました。私が子供の頃までは四つん這い姿の這い熊が基本でしたが、父親たち旭川の熊彫り職人は、鮭を咥えた“食い熊”、後ろ足で立ち上がった“立ち熊”といった、変わり熊と呼ばれるものを考案していきました」
──最近、木彫り熊の人気はどうですか。
「悩ましい問題です。売れていませんし、もうよいものが少ないのです。作り手そのものがほとんどいません。土産物として好まれなくなってきた理由としては、住宅事情の変化で飾る場所がないこと、生鮮品やお菓子の人気が高まっていることなどが挙げられています。しかし私は、売れたときに胡坐をかいていたことがいちばんの原因だと思っています。高度経済成長期、観光の絶頂期を迎えた北海道では、機械彫りの安い熊や海外製の粗悪な熊の木彫りが大量に出回りました。ここが、分かれ道だったように感じます」
──彫刻にこもる意味が伝わらなくなった。
「私たちが彫ってきた熊は、アイヌ民族の心そのものです。私はどんな小さな作品を彫るときも、必ず原木に対してアイヌ伝統の儀式であるカムイノミ(神への祈り)を捧げてきました。彫るのではなく、彫らせてもらうという気持ちで今も向き合っています」
──木彫りを始めたのは何歳からですか。
「私は生まれてすぐに母親を亡くし、小学校へ上がるまで祖母に育てられました。入学は実家のある近文だったのですが、あちこちの観光地へ出稼ぎに行く父についていくため転校ばかりで、友達もできません。学校がすっかり嫌になり、2年生を終える頃には不登校になってしまいました。ですから、83歳になった今も文字を書くことが苦手です。
熊を彫っている父の傍らで、いつも木っ端で遊んでいたので、刃物の使い方は自然に覚えました。今でも忘れることができないのが11歳のときの出来事です。見よう見まねで一体の熊を彫り上げました。褒めてもらおうと父に見せると、黙ったまま鉞(まさかり)で割られ、薪ストーブの中にくべられてしまったのです」
──さぞ悔しかったことでしょう。
「泣きたかったですよ。けれど、それを見ていた祖母がこう言いました。“褒められて上手になった人はいないんだよ”と。悔しさをばねにしろということですね。祖母もアイヌで、抑圧や差別のひどかった時代の人です。アイヌの言葉を喋ることができ、アイヌの叙事詩・ユーカラを語れた最後の世代でしょう。祖先が語り継いできた民話や教訓話もたくさん聞かせてもらいました。私が熊彫りの技術を教わったのは父からですが、アイヌ民族としての精神は優しかった祖母に学びました」
── 阿寒湖畔へ来たのはいつ頃ですか。
「昭和25年、15歳のときです。父に連れられ、土産物店の住み込み職人として働き始めたのが縁でした。観光客の前で熊を彫るのです。今でいう実演販売。丸刈りの少年が器用に熊の姿を彫り出していくので、どんどん人が集
まりました。17歳のとき、北海道じゅうの観光地を回ってほかの熊彫り職人の技を学ぶ武者修行に出ました。ひと通り見終えた感じがしたのが8年後の25歳。再び、阿寒湖へ帰ってきました」
──北海道観光が最高潮の時代ですね。
「昭和35年です。旅館や土産物店がずいぶん増え、町全体が今の東京・原宿のようでした。木彫りの熊が飛ぶように売れました。当時の北海道は新婚旅行先として人気でした。旅行の前に餞別を包んだ時代で、木彫りの熊は、たくさん餞別をくれた人へのお返しとして大きさも値段も手頃だったのです。どの店も大繁盛し、職人は大事にされました。
当時の阿寒湖には、若い熊彫り職人たちを中心にアイヌ・ルネッサンスともいうべき活気が漂っていて、毎晩、酒を飲んでは表現論などを闘わせていました。観光で訪れた女性とアイヌ青年が恋に落ちることもよくありました。何を隠そう、私もそのひとり。青森県出身の妻・茂子とは、ここで出会いました」
──今も賑やかさが聞こえてくるようです。
「仲間に、やがてモダンアートに転向していく砂澤ビッキ(彫刻家、1931〜89)がいました。私より3歳上でひと月ほど父の下で熊彫りの修業をしていましたが、写実的なものにはそれほど興味がなく、ここでは抽象的なデザインのアクセサリーを作っていました。ビッキは気難しい男だといわれますが、私にとって数少ない幼馴
染みで、気のおけない親友でした」
──彫刻にはどんな木を使いますか。
「道内の木では、胡桃、槐(えんじゅ)、一位です。ただ、今はもう太い木は出ませんね。かつての乱伐のツケです。残っている大きな木は保護の対象になっていて、作品の大きさは手に入る木の太さに規定されてしまいます。アイヌが大事にしてきた自然を無計画に壊した影響が、こんなところにも表れているわけです。等身大像のような大きな作品を頼まれたときは、不本意ですが本州産の楠を使います」
──彫る前にデッサンはするのですか。
「しません。というより、私はそもそもデッサンというものを知らないのです。頭の中に思い浮かんだ形を、鉞や鑿(のみ)で木の塊から直接彫り出すだけ。事前に完成イメージを描いてみたり、木塊に線を引いて彫るような作り方はやったことがありません」
──熊以外の作品も手がけておられます。
「人物像も作ります。旧ソ連時代には、クレムリンに頼まれてレーニンの胸像を彫りました。生誕100周年のときでした。さまざまな彫刻に挑戦するようになったきっかけは、自分の民芸品店を出すときお世話になった前田一歩園(明治39年に官僚の前田正名が始めた、未開だった阿寒湖周辺の農林事業体)3代目の前田光子さんから、ご主人の十三回忌に合わせて地元の寺に観音像を奉納したいと頼まれたことです。
私はそれまで熊をはじめとする動物しか彫ったことがありませんでした。父の背中を見てきただけで、正式な彫刻の勉強もしていません。もちろん、仏教も仏像のこともわからない。でも、声を掛けていただいた気持ちに応えたい一心で、京都や奈良のお寺を訪ね、仏像を見て回りました。仏像に込められている思いや願いを、無学の自分なりに読み解いてみようと思ったのです」
──わかったことはなんですか。
「後世への願いなのだろうな、ということでした。アイヌの彫刻に込められたものは自然への感謝ですが、未来にその思いを伝えていく伝承方法でもあります。観音像の意味も、そう変わるものではないはずだと。
私は、心が落ち着く真夜中に仕事をするのですが、カンカンと音を立てていると、よく電話がかかってきました。そしてこう言われました。“熊彫りのお前に仏像なんか作れっこないべや”。冷やかし、嫌がらせですね。
その度に“絶対彫り上げる”と心に誓いました。その間、ほかの仕事は一切しませんでした。米も買えなくなるほど困窮しましたが、無事、地元の正徳寺に奉納し、盛大な開眼供養が執り行なわれました。昭和44年です」
──連作的な彫刻もありますね。
「アイヌの伝承からヒントを得た創作なのですが、動物とアイヌと和人の話です。12の山場を彫刻で表現したものです。登場するのは絶滅してしまった蝦夷狼。狼もアイヌにとっては偉大なるカムイでした。連作は完結までかなり時間を要するので、これから新作を手がけるのはさすがに難しいですね」
──健康状態はいかがですか。
「もう、ぼろぼろです(笑)。腰は3回も手術して、脊椎にボルトが入っています。両肩も手術をしまして、今も両肩の腱の一部が切れたままで手が上がりません。無理に振りかざすと痛みが走ります。彫刻は力のいる仕事なので困っています。一昨日も痛み止めの注射を打ってきたところです。
歳をとったせいか、最近は先に死んでいった人たちのことをよく考えます。祖母、父親、そして先に旅立ってしまった私のふたりの子供、友人……。心の準備に入っているのかな。でも不思議と焦りはありません。今はまだ、作りたいものへの気持ちが強いです」
──どんな最期を迎えたいとお思いですか。
「父は熊を彫っている最中に脳溢血で倒れて意識がなくなり、間もなく息を引き取りました。どうせ死ぬなら、仕事場でというのも悪くないかなと思います。突然だと周りは驚くだろうけど、迷惑はそれほどかからないでしょう。理想をいえば、最後のひと削りを終えた直後がよいのだけどねえ」(笑)
●藤戸竹喜(ふじと・たけき)
昭和9年、北海道生まれ。木彫り熊の名人といわれた父・竹夫の下で11歳から職人修業。昭和39年、阿寒湖畔に民芸品店『熊の家』を構え、熊彫り以外の個人作品にも精力的に取り組む。北海道の野生動物やアイヌの老人像など力強い木彫表現に定評。北海道文化賞受賞。文化庁地域文化功労者。米国スミソニアン国立自然史博物館の北方民族展にも出品。写真集に『熊を彫る人』(小学館)がある。
【藤戸竹喜さんの本】
『熊を彫る人』
(写真/在本彌生、文/村岡俊也、小学館)
【展覧会案内】
アイヌ工芸品展「現れよ。森羅の生命 木彫家 藤戸竹喜の世界」
■会期:2018年1月11日(木)~3月13日(火)
■場所:国立民族学博物館 本館企画展示場
大阪府吹田市千里万博公園10番1号
■開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
■休館日:水曜日
■Webサイトはこちら※この記事は『サライ』本誌2018年1月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)
https://serai.jp/hobby/293328
小百合さんら、節目に華 札幌でキタデミー賞授賞式
北海道新聞02/06 05:00
北海道命名150年を記念し、歴史を彩った人や動物、グルメなどを表彰するイベント「キタデミー賞」が5日、札幌市中央区のニトリ文化ホールで開かれた。米アカデミー賞に見立てた授賞式を行い、女優の吉永小百合さんや歌手の北島三郎さんら道内ゆかりの豪華出演陣が花を添えた。
道や北海道新聞社などでつくる実行委の主催。開演前にはアカデミー賞風に吉永さんらがレッドカーペットを歩き、会場入りした。
監督賞や美術賞など12の賞を決定。監督賞には映画監督山田洋次さんやプロ野球北海道日本ハムの栗山英樹監督ら、主演女優賞には吉永さんのほか、リオデジャネイロ・パラリンピック陸上の銅メダリスト辻沙絵さん(函館出身)らが輝いた。
主演男優賞にヒグマ、インスタ映えするグルメを対象にした撮影賞にジンギスカンが選ばれ、来場者約2300人の笑いを誘う場面も。歌曲賞を受賞した北島さんは「北の大地は私の誇り」と喜んだ。吉永さんは「北海道は景色を見るだけでも心が和む」と話し、札幌旭丘高合唱部と「いつでも夢を」を合唱した。
最優秀作品には「北海道」が選ばれ、高橋はるみ知事が「アイヌ民族をはじめ150年の歴史を紡いだ先人に感謝し、さらなる高みを目指したい」と述べた。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/162048
藤戸竹喜さん
(ふじと・たけき、木彫家)
――木彫りの熊でアイヌ文化を伝承
「彫るのではなく、彫らせてもらう。どんな小さな作品も、まず神への祈りを捧げます」
──今にも唸り声をあげそうな熊です。
「こういう彫り方は毛彫りといいます。細かい毛筋まで表現する技法で、少しでも“逃げ”や“ごまかし”があるとバランスが崩れてしまいます。例えば、熊にも人間のつむじのような毛の流れがあります。それを知るため……というより、ただ動物好きだっただけですが、私は若いときに熊(羆)を飼っていたこともあります。そうした経験も生きています」
──木彫り熊は素朴なものと思っていました。
「素朴なものはハツリ彫りとか面彫りと呼ばれるもので、ひと息で削ったような作風が特徴です。一定の型はありますが、職人それぞれが工夫を凝らし、手に取ってもらう努力をしてきたのが熊彫りです。私が得意とする毛彫りも、時代ごとに雰囲気が異なります」
──木彫り熊は北海道を代表する民芸です。
「ひと口に木彫り熊といわれますが、実はルーツがふたつあります。ひとつは、道南の八雲町に入植した和人が大正の終わり頃に始めた木彫り。八雲は尾張藩(現・愛知県)の武士だった人たちが開拓に入った土地です。大正12年(1923)、尾張徳川家19代当主の徳川義親さんが、外遊先のスイスで民芸品として売られていた木彫りの熊を買って帰りました。これを手本に八雲の農民に彫刻を奨励したというもので、収入が途絶える冬の職業支援だったそうです。
もうひとつのルーツは、アイヌ民族がマキリと呼ぶ小刀で表現してきた伝統的な彫刻です。アイヌの男性が被るサバンベという冠の中央には、木彫りの熊の顔がついています。イクパスイという酒を扱う祭具にも、よく熊が彫られている。明治以降盛んになった和人との交流の中で、この民族彫刻が民芸品になっていったのです。アイヌの末裔である私の技術的な源流は、後者です」
──そもそも、なぜ熊なのでしょう。
「アイヌはさまざまな動物をカムイ、つまり神の化身として崇めてきました。サルルン・カムイは丹頂で、湿原の神。コタン・コロ・カムイは島梟のことで、集落を守る神です。そして、カムイとひと言でいう場合は羆を指します。数ある神の化身の中でも熊は特別な存在です。アイヌの習俗を代表するイヨマンテも、神である熊の魂を神の国へ送り帰す儀式です。網走市にあるモヨロ貝塚など先史時代の遺跡からも、海獣の牙を彫って作った熊の像が出土しています。熊は北方民族にとって、太古から神なのです」
──お父上も腕のよい職人だったとか。
「父方の実家は旭川市の近文コタン(アイヌ集落)にありました。曾祖父の川上コヌサはそこの酋長として一目置かれる存在でした。父は、コタンでの暮らしの中でアイヌ伝統の木彫りの基本を身につけました。旭川は陸軍の第七師団が置かれ、早くから観光地としても開けていました。明治政府は、木の伐採や鮭の捕獲の禁止といった一方的な決まりをアイヌに押し付けましたが、そうした抑圧者の象徴が第七師団でした」
──さぞ不満が燻ぶっていたことでしょう。
「ですから、軍の新しい高官が赴任してきたときは、コタンの酋長を表敬訪問して融和を図るのが慣例でした。そのとき珍しがられたのが、彫刻や刺繍といったアイヌ芸術だったのです。軍人が勇ましさに通じる熊の彫り物を欲しがったことから次第に独立した彫像となり、土産物になっていきました」
──商品化の始まりですね。
「父は既にコタンに5軒ほどできていた木彫り店の仕事を面白いと感じたようです。若い仲間とあれこれ議論しながら、新しい技法にも挑戦しました。マキリぐらいしかなかった時代の彫刻は素朴でしたが、大工鑿(のみ)や彫刻刀が手に入るようになると、毛彫りのような精巧な彫りもできるようになりました。
技法の広がりと同時に、姿形も多様化していきました。私が子供の頃までは四つん這い姿の這い熊が基本でしたが、父親たち旭川の熊彫り職人は、鮭を咥えた“食い熊”、後ろ足で立ち上がった“立ち熊”といった、変わり熊と呼ばれるものを考案していきました」
──最近、木彫り熊の人気はどうですか。
「悩ましい問題です。売れていませんし、もうよいものが少ないのです。作り手そのものがほとんどいません。土産物として好まれなくなってきた理由としては、住宅事情の変化で飾る場所がないこと、生鮮品やお菓子の人気が高まっていることなどが挙げられています。しかし私は、売れたときに胡坐をかいていたことがいちばんの原因だと思っています。高度経済成長期、観光の絶頂期を迎えた北海道では、機械彫りの安い熊や海外製の粗悪な熊の木彫りが大量に出回りました。ここが、分かれ道だったように感じます」
──彫刻にこもる意味が伝わらなくなった。
「私たちが彫ってきた熊は、アイヌ民族の心そのものです。私はどんな小さな作品を彫るときも、必ず原木に対してアイヌ伝統の儀式であるカムイノミ(神への祈り)を捧げてきました。彫るのではなく、彫らせてもらうという気持ちで今も向き合っています」
──木彫りを始めたのは何歳からですか。
「私は生まれてすぐに母親を亡くし、小学校へ上がるまで祖母に育てられました。入学は実家のある近文だったのですが、あちこちの観光地へ出稼ぎに行く父についていくため転校ばかりで、友達もできません。学校がすっかり嫌になり、2年生を終える頃には不登校になってしまいました。ですから、83歳になった今も文字を書くことが苦手です。
熊を彫っている父の傍らで、いつも木っ端で遊んでいたので、刃物の使い方は自然に覚えました。今でも忘れることができないのが11歳のときの出来事です。見よう見まねで一体の熊を彫り上げました。褒めてもらおうと父に見せると、黙ったまま鉞(まさかり)で割られ、薪ストーブの中にくべられてしまったのです」
──さぞ悔しかったことでしょう。
「泣きたかったですよ。けれど、それを見ていた祖母がこう言いました。“褒められて上手になった人はいないんだよ”と。悔しさをばねにしろということですね。祖母もアイヌで、抑圧や差別のひどかった時代の人です。アイヌの言葉を喋ることができ、アイヌの叙事詩・ユーカラを語れた最後の世代でしょう。祖先が語り継いできた民話や教訓話もたくさん聞かせてもらいました。私が熊彫りの技術を教わったのは父からですが、アイヌ民族としての精神は優しかった祖母に学びました」
── 阿寒湖畔へ来たのはいつ頃ですか。
「昭和25年、15歳のときです。父に連れられ、土産物店の住み込み職人として働き始めたのが縁でした。観光客の前で熊を彫るのです。今でいう実演販売。丸刈りの少年が器用に熊の姿を彫り出していくので、どんどん人が集
まりました。17歳のとき、北海道じゅうの観光地を回ってほかの熊彫り職人の技を学ぶ武者修行に出ました。ひと通り見終えた感じがしたのが8年後の25歳。再び、阿寒湖へ帰ってきました」
──北海道観光が最高潮の時代ですね。
「昭和35年です。旅館や土産物店がずいぶん増え、町全体が今の東京・原宿のようでした。木彫りの熊が飛ぶように売れました。当時の北海道は新婚旅行先として人気でした。旅行の前に餞別を包んだ時代で、木彫りの熊は、たくさん餞別をくれた人へのお返しとして大きさも値段も手頃だったのです。どの店も大繁盛し、職人は大事にされました。
当時の阿寒湖には、若い熊彫り職人たちを中心にアイヌ・ルネッサンスともいうべき活気が漂っていて、毎晩、酒を飲んでは表現論などを闘わせていました。観光で訪れた女性とアイヌ青年が恋に落ちることもよくありました。何を隠そう、私もそのひとり。青森県出身の妻・茂子とは、ここで出会いました」
──今も賑やかさが聞こえてくるようです。
「仲間に、やがてモダンアートに転向していく砂澤ビッキ(彫刻家、1931〜89)がいました。私より3歳上でひと月ほど父の下で熊彫りの修業をしていましたが、写実的なものにはそれほど興味がなく、ここでは抽象的なデザインのアクセサリーを作っていました。ビッキは気難しい男だといわれますが、私にとって数少ない幼馴
染みで、気のおけない親友でした」
──彫刻にはどんな木を使いますか。
「道内の木では、胡桃、槐(えんじゅ)、一位です。ただ、今はもう太い木は出ませんね。かつての乱伐のツケです。残っている大きな木は保護の対象になっていて、作品の大きさは手に入る木の太さに規定されてしまいます。アイヌが大事にしてきた自然を無計画に壊した影響が、こんなところにも表れているわけです。等身大像のような大きな作品を頼まれたときは、不本意ですが本州産の楠を使います」
──彫る前にデッサンはするのですか。
「しません。というより、私はそもそもデッサンというものを知らないのです。頭の中に思い浮かんだ形を、鉞や鑿(のみ)で木の塊から直接彫り出すだけ。事前に完成イメージを描いてみたり、木塊に線を引いて彫るような作り方はやったことがありません」
──熊以外の作品も手がけておられます。
「人物像も作ります。旧ソ連時代には、クレムリンに頼まれてレーニンの胸像を彫りました。生誕100周年のときでした。さまざまな彫刻に挑戦するようになったきっかけは、自分の民芸品店を出すときお世話になった前田一歩園(明治39年に官僚の前田正名が始めた、未開だった阿寒湖周辺の農林事業体)3代目の前田光子さんから、ご主人の十三回忌に合わせて地元の寺に観音像を奉納したいと頼まれたことです。
私はそれまで熊をはじめとする動物しか彫ったことがありませんでした。父の背中を見てきただけで、正式な彫刻の勉強もしていません。もちろん、仏教も仏像のこともわからない。でも、声を掛けていただいた気持ちに応えたい一心で、京都や奈良のお寺を訪ね、仏像を見て回りました。仏像に込められている思いや願いを、無学の自分なりに読み解いてみようと思ったのです」
──わかったことはなんですか。
「後世への願いなのだろうな、ということでした。アイヌの彫刻に込められたものは自然への感謝ですが、未来にその思いを伝えていく伝承方法でもあります。観音像の意味も、そう変わるものではないはずだと。
私は、心が落ち着く真夜中に仕事をするのですが、カンカンと音を立てていると、よく電話がかかってきました。そしてこう言われました。“熊彫りのお前に仏像なんか作れっこないべや”。冷やかし、嫌がらせですね。
その度に“絶対彫り上げる”と心に誓いました。その間、ほかの仕事は一切しませんでした。米も買えなくなるほど困窮しましたが、無事、地元の正徳寺に奉納し、盛大な開眼供養が執り行なわれました。昭和44年です」
──連作的な彫刻もありますね。
「アイヌの伝承からヒントを得た創作なのですが、動物とアイヌと和人の話です。12の山場を彫刻で表現したものです。登場するのは絶滅してしまった蝦夷狼。狼もアイヌにとっては偉大なるカムイでした。連作は完結までかなり時間を要するので、これから新作を手がけるのはさすがに難しいですね」
──健康状態はいかがですか。
「もう、ぼろぼろです(笑)。腰は3回も手術して、脊椎にボルトが入っています。両肩も手術をしまして、今も両肩の腱の一部が切れたままで手が上がりません。無理に振りかざすと痛みが走ります。彫刻は力のいる仕事なので困っています。一昨日も痛み止めの注射を打ってきたところです。
歳をとったせいか、最近は先に死んでいった人たちのことをよく考えます。祖母、父親、そして先に旅立ってしまった私のふたりの子供、友人……。心の準備に入っているのかな。でも不思議と焦りはありません。今はまだ、作りたいものへの気持ちが強いです」
──どんな最期を迎えたいとお思いですか。
「父は熊を彫っている最中に脳溢血で倒れて意識がなくなり、間もなく息を引き取りました。どうせ死ぬなら、仕事場でというのも悪くないかなと思います。突然だと周りは驚くだろうけど、迷惑はそれほどかからないでしょう。理想をいえば、最後のひと削りを終えた直後がよいのだけどねえ」(笑)
●藤戸竹喜(ふじと・たけき)
昭和9年、北海道生まれ。木彫り熊の名人といわれた父・竹夫の下で11歳から職人修業。昭和39年、阿寒湖畔に民芸品店『熊の家』を構え、熊彫り以外の個人作品にも精力的に取り組む。北海道の野生動物やアイヌの老人像など力強い木彫表現に定評。北海道文化賞受賞。文化庁地域文化功労者。米国スミソニアン国立自然史博物館の北方民族展にも出品。写真集に『熊を彫る人』(小学館)がある。
【藤戸竹喜さんの本】
『熊を彫る人』
(写真/在本彌生、文/村岡俊也、小学館)
【展覧会案内】
アイヌ工芸品展「現れよ。森羅の生命 木彫家 藤戸竹喜の世界」
■会期:2018年1月11日(木)~3月13日(火)
■場所:国立民族学博物館 本館企画展示場
大阪府吹田市千里万博公園10番1号
■開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
■休館日:水曜日
■Webサイトはこちら※この記事は『サライ』本誌2018年1月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)
https://serai.jp/hobby/293328
小百合さんら、節目に華 札幌でキタデミー賞授賞式
北海道新聞02/06 05:00
北海道命名150年を記念し、歴史を彩った人や動物、グルメなどを表彰するイベント「キタデミー賞」が5日、札幌市中央区のニトリ文化ホールで開かれた。米アカデミー賞に見立てた授賞式を行い、女優の吉永小百合さんや歌手の北島三郎さんら道内ゆかりの豪華出演陣が花を添えた。
道や北海道新聞社などでつくる実行委の主催。開演前にはアカデミー賞風に吉永さんらがレッドカーペットを歩き、会場入りした。
監督賞や美術賞など12の賞を決定。監督賞には映画監督山田洋次さんやプロ野球北海道日本ハムの栗山英樹監督ら、主演女優賞には吉永さんのほか、リオデジャネイロ・パラリンピック陸上の銅メダリスト辻沙絵さん(函館出身)らが輝いた。
主演男優賞にヒグマ、インスタ映えするグルメを対象にした撮影賞にジンギスカンが選ばれ、来場者約2300人の笑いを誘う場面も。歌曲賞を受賞した北島さんは「北の大地は私の誇り」と喜んだ。吉永さんは「北海道は景色を見るだけでも心が和む」と話し、札幌旭丘高合唱部と「いつでも夢を」を合唱した。
最優秀作品には「北海道」が選ばれ、高橋はるみ知事が「アイヌ民族をはじめ150年の歴史を紡いだ先人に感謝し、さらなる高みを目指したい」と述べた。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/162048