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【インタビュー】藤戸竹喜さん(木彫家)|木彫りの熊でアイヌ文化を伝承

2018-02-06 | アイヌ民族関連
サライ2018年02月04日

藤戸竹喜さん
(ふじと・たけき、木彫家)
――木彫りの熊でアイヌ文化を伝承
「彫るのではなく、彫らせてもらう。どんな小さな作品も、まず神への祈りを捧げます」
──今にも唸り声をあげそうな熊です。
「こういう彫り方は毛彫りといいます。細かい毛筋まで表現する技法で、少しでも“逃げ”や“ごまかし”があるとバランスが崩れてしまいます。例えば、熊にも人間のつむじのような毛の流れがあります。それを知るため……というより、ただ動物好きだっただけですが、私は若いときに熊(羆)を飼っていたこともあります。そうした経験も生きています」
──木彫り熊は素朴なものと思っていました。
「素朴なものはハツリ彫りとか面彫りと呼ばれるもので、ひと息で削ったような作風が特徴です。一定の型はありますが、職人それぞれが工夫を凝らし、手に取ってもらう努力をしてきたのが熊彫りです。私が得意とする毛彫りも、時代ごとに雰囲気が異なります」
──木彫り熊は北海道を代表する民芸です。
「ひと口に木彫り熊といわれますが、実はルーツがふたつあります。ひとつは、道南の八雲町に入植した和人が大正の終わり頃に始めた木彫り。八雲は尾張藩(現・愛知県)の武士だった人たちが開拓に入った土地です。大正12年(1923)、尾張徳川家19代当主の徳川義親さんが、外遊先のスイスで民芸品として売られていた木彫りの熊を買って帰りました。これを手本に八雲の農民に彫刻を奨励したというもので、収入が途絶える冬の職業支援だったそうです。
もうひとつのルーツは、アイヌ民族がマキリと呼ぶ小刀で表現してきた伝統的な彫刻です。アイヌの男性が被るサバンベという冠の中央には、木彫りの熊の顔がついています。イクパスイという酒を扱う祭具にも、よく熊が彫られている。明治以降盛んになった和人との交流の中で、この民族彫刻が民芸品になっていったのです。アイヌの末裔である私の技術的な源流は、後者です」
──そもそも、なぜ熊なのでしょう。
「アイヌはさまざまな動物をカムイ、つまり神の化身として崇めてきました。サルルン・カムイは丹頂で、湿原の神。コタン・コロ・カムイは島梟のことで、集落を守る神です。そして、カムイとひと言でいう場合は羆を指します。数ある神の化身の中でも熊は特別な存在です。アイヌの習俗を代表するイヨマンテも、神である熊の魂を神の国へ送り帰す儀式です。網走市にあるモヨロ貝塚など先史時代の遺跡からも、海獣の牙を彫って作った熊の像が出土しています。熊は北方民族にとって、太古から神なのです」
──お父上も腕のよい職人だったとか。
「父方の実家は旭川市の近文コタン(アイヌ集落)にありました。曾祖父の川上コヌサはそこの酋長として一目置かれる存在でした。父は、コタンでの暮らしの中でアイヌ伝統の木彫りの基本を身につけました。旭川は陸軍の第七師団が置かれ、早くから観光地としても開けていました。明治政府は、木の伐採や鮭の捕獲の禁止といった一方的な決まりをアイヌに押し付けましたが、そうした抑圧者の象徴が第七師団でした」
──さぞ不満が燻ぶっていたことでしょう。
「ですから、軍の新しい高官が赴任してきたときは、コタンの酋長を表敬訪問して融和を図るのが慣例でした。そのとき珍しがられたのが、彫刻や刺繍といったアイヌ芸術だったのです。軍人が勇ましさに通じる熊の彫り物を欲しがったことから次第に独立した彫像となり、土産物になっていきました」
──商品化の始まりですね。
「父は既にコタンに5軒ほどできていた木彫り店の仕事を面白いと感じたようです。若い仲間とあれこれ議論しながら、新しい技法にも挑戦しました。マキリぐらいしかなかった時代の彫刻は素朴でしたが、大工鑿(のみ)や彫刻刀が手に入るようになると、毛彫りのような精巧な彫りもできるようになりました。
技法の広がりと同時に、姿形も多様化していきました。私が子供の頃までは四つん這い姿の這い熊が基本でしたが、父親たち旭川の熊彫り職人は、鮭を咥えた“食い熊”、後ろ足で立ち上がった“立ち熊”といった、変わり熊と呼ばれるものを考案していきました」
──最近、木彫り熊の人気はどうですか。
「悩ましい問題です。売れていませんし、もうよいものが少ないのです。作り手そのものがほとんどいません。土産物として好まれなくなってきた理由としては、住宅事情の変化で飾る場所がないこと、生鮮品やお菓子の人気が高まっていることなどが挙げられています。しかし私は、売れたときに胡坐をかいていたことがいちばんの原因だと思っています。高度経済成長期、観光の絶頂期を迎えた北海道では、機械彫りの安い熊や海外製の粗悪な熊の木彫りが大量に出回りました。ここが、分かれ道だったように感じます」
──彫刻にこもる意味が伝わらなくなった。
「私たちが彫ってきた熊は、アイヌ民族の心そのものです。私はどんな小さな作品を彫るときも、必ず原木に対してアイヌ伝統の儀式であるカムイノミ(神への祈り)を捧げてきました。彫るのではなく、彫らせてもらうという気持ちで今も向き合っています」
──木彫りを始めたのは何歳からですか。
「私は生まれてすぐに母親を亡くし、小学校へ上がるまで祖母に育てられました。入学は実家のある近文だったのですが、あちこちの観光地へ出稼ぎに行く父についていくため転校ばかりで、友達もできません。学校がすっかり嫌になり、2年生を終える頃には不登校になってしまいました。ですから、83歳になった今も文字を書くことが苦手です。
熊を彫っている父の傍らで、いつも木っ端で遊んでいたので、刃物の使い方は自然に覚えました。今でも忘れることができないのが11歳のときの出来事です。見よう見まねで一体の熊を彫り上げました。褒めてもらおうと父に見せると、黙ったまま鉞(まさかり)で割られ、薪ストーブの中にくべられてしまったのです」
──さぞ悔しかったことでしょう。
「泣きたかったですよ。けれど、それを見ていた祖母がこう言いました。“褒められて上手になった人はいないんだよ”と。悔しさをばねにしろということですね。祖母もアイヌで、抑圧や差別のひどかった時代の人です。アイヌの言葉を喋ることができ、アイヌの叙事詩・ユーカラを語れた最後の世代でしょう。祖先が語り継いできた民話や教訓話もたくさん聞かせてもらいました。私が熊彫りの技術を教わったのは父からですが、アイヌ民族としての精神は優しかった祖母に学びました」
── 阿寒湖畔へ来たのはいつ頃ですか。
「昭和25年、15歳のときです。父に連れられ、土産物店の住み込み職人として働き始めたのが縁でした。観光客の前で熊を彫るのです。今でいう実演販売。丸刈りの少年が器用に熊の姿を彫り出していくので、どんどん人が集
まりました。17歳のとき、北海道じゅうの観光地を回ってほかの熊彫り職人の技を学ぶ武者修行に出ました。ひと通り見終えた感じがしたのが8年後の25歳。再び、阿寒湖へ帰ってきました」
──北海道観光が最高潮の時代ですね。
「昭和35年です。旅館や土産物店がずいぶん増え、町全体が今の東京・原宿のようでした。木彫りの熊が飛ぶように売れました。当時の北海道は新婚旅行先として人気でした。旅行の前に餞別を包んだ時代で、木彫りの熊は、たくさん餞別をくれた人へのお返しとして大きさも値段も手頃だったのです。どの店も大繁盛し、職人は大事にされました。
当時の阿寒湖には、若い熊彫り職人たちを中心にアイヌ・ルネッサンスともいうべき活気が漂っていて、毎晩、酒を飲んでは表現論などを闘わせていました。観光で訪れた女性とアイヌ青年が恋に落ちることもよくありました。何を隠そう、私もそのひとり。青森県出身の妻・茂子とは、ここで出会いました」
──今も賑やかさが聞こえてくるようです。
「仲間に、やがてモダンアートに転向していく砂澤ビッキ(彫刻家、1931〜89)がいました。私より3歳上でひと月ほど父の下で熊彫りの修業をしていましたが、写実的なものにはそれほど興味がなく、ここでは抽象的なデザインのアクセサリーを作っていました。ビッキは気難しい男だといわれますが、私にとって数少ない幼馴
染みで、気のおけない親友でした」
──彫刻にはどんな木を使いますか。
「道内の木では、胡桃、槐(えんじゅ)、一位です。ただ、今はもう太い木は出ませんね。かつての乱伐のツケです。残っている大きな木は保護の対象になっていて、作品の大きさは手に入る木の太さに規定されてしまいます。アイヌが大事にしてきた自然を無計画に壊した影響が、こんなところにも表れているわけです。等身大像のような大きな作品を頼まれたときは、不本意ですが本州産の楠を使います」
──彫る前にデッサンはするのですか。
「しません。というより、私はそもそもデッサンというものを知らないのです。頭の中に思い浮かんだ形を、鉞や鑿(のみ)で木の塊から直接彫り出すだけ。事前に完成イメージを描いてみたり、木塊に線を引いて彫るような作り方はやったことがありません」
──熊以外の作品も手がけておられます。
「人物像も作ります。旧ソ連時代には、クレムリンに頼まれてレーニンの胸像を彫りました。生誕100周年のときでした。さまざまな彫刻に挑戦するようになったきっかけは、自分の民芸品店を出すときお世話になった前田一歩園(明治39年に官僚の前田正名が始めた、未開だった阿寒湖周辺の農林事業体)3代目の前田光子さんから、ご主人の十三回忌に合わせて地元の寺に観音像を奉納したいと頼まれたことです。
私はそれまで熊をはじめとする動物しか彫ったことがありませんでした。父の背中を見てきただけで、正式な彫刻の勉強もしていません。もちろん、仏教も仏像のこともわからない。でも、声を掛けていただいた気持ちに応えたい一心で、京都や奈良のお寺を訪ね、仏像を見て回りました。仏像に込められている思いや願いを、無学の自分なりに読み解いてみようと思ったのです」
──わかったことはなんですか。
「後世への願いなのだろうな、ということでした。アイヌの彫刻に込められたものは自然への感謝ですが、未来にその思いを伝えていく伝承方法でもあります。観音像の意味も、そう変わるものではないはずだと。
私は、心が落ち着く真夜中に仕事をするのですが、カンカンと音を立てていると、よく電話がかかってきました。そしてこう言われました。“熊彫りのお前に仏像なんか作れっこないべや”。冷やかし、嫌がらせですね。
その度に“絶対彫り上げる”と心に誓いました。その間、ほかの仕事は一切しませんでした。米も買えなくなるほど困窮しましたが、無事、地元の正徳寺に奉納し、盛大な開眼供養が執り行なわれました。昭和44年です」
──連作的な彫刻もありますね。
「アイヌの伝承からヒントを得た創作なのですが、動物とアイヌと和人の話です。12の山場を彫刻で表現したものです。登場するのは絶滅してしまった蝦夷狼。狼もアイヌにとっては偉大なるカムイでした。連作は完結までかなり時間を要するので、これから新作を手がけるのはさすがに難しいですね」
──健康状態はいかがですか。
「もう、ぼろぼろです(笑)。腰は3回も手術して、脊椎にボルトが入っています。両肩も手術をしまして、今も両肩の腱の一部が切れたままで手が上がりません。無理に振りかざすと痛みが走ります。彫刻は力のいる仕事なので困っています。一昨日も痛み止めの注射を打ってきたところです。
歳をとったせいか、最近は先に死んでいった人たちのことをよく考えます。祖母、父親、そして先に旅立ってしまった私のふたりの子供、友人……。心の準備に入っているのかな。でも不思議と焦りはありません。今はまだ、作りたいものへの気持ちが強いです」
──どんな最期を迎えたいとお思いですか。
「父は熊を彫っている最中に脳溢血で倒れて意識がなくなり、間もなく息を引き取りました。どうせ死ぬなら、仕事場でというのも悪くないかなと思います。突然だと周りは驚くだろうけど、迷惑はそれほどかからないでしょう。理想をいえば、最後のひと削りを終えた直後がよいのだけどねえ」(笑)
●藤戸竹喜(ふじと・たけき)
昭和9年、北海道生まれ。木彫り熊の名人といわれた父・竹夫の下で11歳から職人修業。昭和39年、阿寒湖畔に民芸品店『熊の家』を構え、熊彫り以外の個人作品にも精力的に取り組む。北海道の野生動物やアイヌの老人像など力強い木彫表現に定評。北海道文化賞受賞。文化庁地域文化功労者。米国スミソニアン国立自然史博物館の北方民族展にも出品。写真集に『熊を彫る人』(小学館)がある。
【藤戸竹喜さんの本】
『熊を彫る人』
(写真/在本彌生、文/村岡俊也、小学館)
【展覧会案内】
アイヌ工芸品展「現れよ。森羅の生命 木彫家 藤戸竹喜の世界」
■会期:2018年1月11日(木)~3月13日(火)
■場所:国立民族学博物館 本館企画展示場
 大阪府吹田市千里万博公園10番1号
■開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
■休館日:水曜日
■Webサイトはこちら※この記事は『サライ』本誌2018年1月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)
https://serai.jp/hobby/293328
小百合さんら、節目に華 札幌でキタデミー賞授賞式
北海道新聞02/06 05:00
 北海道命名150年を記念し、歴史を彩った人や動物、グルメなどを表彰するイベント「キタデミー賞」が5日、札幌市中央区のニトリ文化ホールで開かれた。米アカデミー賞に見立てた授賞式を行い、女優の吉永小百合さんや歌手の北島三郎さんら道内ゆかりの豪華出演陣が花を添えた。
 道や北海道新聞社などでつくる実行委の主催。開演前にはアカデミー賞風に吉永さんらがレッドカーペットを歩き、会場入りした。
 監督賞や美術賞など12の賞を決定。監督賞には映画監督山田洋次さんやプロ野球北海道日本ハムの栗山英樹監督ら、主演女優賞には吉永さんのほか、リオデジャネイロ・パラリンピック陸上の銅メダリスト辻沙絵さん(函館出身)らが輝いた。
 主演男優賞にヒグマ、インスタ映えするグルメを対象にした撮影賞にジンギスカンが選ばれ、来場者約2300人の笑いを誘う場面も。歌曲賞を受賞した北島さんは「北の大地は私の誇り」と喜んだ。吉永さんは「北海道は景色を見るだけでも心が和む」と話し、札幌旭丘高合唱部と「いつでも夢を」を合唱した。
 最優秀作品には「北海道」が選ばれ、高橋はるみ知事が「アイヌ民族をはじめ150年の歴史を紡いだ先人に感謝し、さらなる高みを目指したい」と述べた。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/162048

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[東蝦夷地絵巻をみる]交易や漁業 にぎわう釧路

2018-02-06 | アイヌ民族関連
北海道新聞02/05 16:00
河口付近に多数の家屋
 かつて箱館奉行を務めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)が今から160年前の1858年(安政5年)に釧路・根室地方を巡視した時の絵巻「東蝦夷地絵巻(ひがしえぞちえまき)」(国立公文書館所蔵)のうち、今回は釧路(クスリ)を海から描いた絵を取り上げる。アイヌ民族の住居とみられる大型家屋が河口付近にひしめく様子が分かり、交易や漁業の拠点施設「会所」の大きな建物が当時のにぎわいを伝える。解説は釧路短大教授の佐藤宥紹(ひろつぐ)さん(74)にお願いした。(椎名宏智)
■苧足糸にも4軒
 沖合に停泊する2本マストの船は「箱館丸」です。この船は、洋式帆船としては日本で最も早い時期に建造されました。左の川は「クスリ川(釧路川)」。その釧路川の河口左岸から伸びる砂嘴(さし)が苧足糸(おだいと)です。苧足糸を細かく見ると、アイヌ民族の住居とみられる家屋が1軒、昆布や漁具の干しざお、和風家屋が3軒あるようです=拡大写真《1》=。
 家屋の存在は、苧足糸の地盤がしっかりしていたことを意味します。それにしても、川の増水時に危険な砂嘴に、なぜ家屋を建てたのでしょうか。特に先端部の1軒は、恐らくアイヌ民族の住居です。会所の商人らの考えがあったと思いますが、理由ははっきりしません。
 ただ、この絵からは、描き手の抱いた問題意識、すなわちこのような場所に家屋を建てるのはいかがか、という問題意識を感じます。詳細に描き込むことでそれを今に伝え、絵の価値を高めています。
 苧足糸は、砂の岬を意味すると解釈できるアイヌ語由来の地名です。その苧足糸を、私たちはもう見ることができません。掘削としゅんせつで水深を確保する工事を行った結果、姿を消しました。
■宿泊できる会所
 陸上に、ひときわ大きな建物があります=同《2》=。会所です。会所はアイヌ民族や和人を雇い、働かせました。この時代、釧路の会所《久寿里(くすり)会所》は今の米町公園に近い佐野碑園(釧路市の公園)にあり、交易、漁業、交通の中心でした。
 ここで交易というのは、幕府がアイヌ民族との間で行った交易を指します。漁業は、サケ、マス、コンブなどの漁場経営。交通は、陸上海上双方を指します。
 久寿里会所にはまた、訪れた役人や商人が宿泊できる備えもありました。
 村垣が東蝦夷地を巡視した1858年、松浦武四郎(江戸末期の蝦夷地探検家)も釧路を訪れました。この時、武四郎が残した記録「東蝦夷日誌」に会所の内訳として次のような記載があります。
 通行屋(宿泊施設)
 板蔵十六棟
 会所(新潟の商人の店)
 大工小屋三
 鍛冶蔵一
 勤番所(江戸幕府の役人の出張所)一
 備米くら一
 馬小屋二
 秋味小屋一
 かやくら(ヨシを束ねて造った小屋)二
 昆布小屋多し
 武器蔵
 備品蔵二棟
 このうち板蔵は、魚肥、魚かす、クマや海獣の皮革類の保管場所に使った可能性があります。かやくらは馬の餌の保管場所でしょうか。これだけの規模の需要があり、それに見合った数の人が働き、にぎわったことが想像できます。
 一方、会所は二階屋のように見えます。1階は執務室だと思いますが、上層階をどう使ったか、はっきりしません。恐らく1階とは違う意味があったはずです。会所の支配人や通辞(アイヌ語通訳)らの生活空間や、献上品(タカやワシの羽根など)の保管場所として使われたのではないでしょうか。献上品には塩鶴、つまり食用に塩漬けされたタンチョウも含まれていたようです。
■特異な土地表す
 また、この絵には、アイヌ民族の住居と推定できる家屋=同《3》=が、河口付近を中心に数十戸描かれています。
 村垣の東蝦夷地絵巻には、様似(日高管内)や厚岸の絵にもアイヌ民族のものとみられる家屋が描かれていますが、釧路は他地域と比べ戸数が多く、大型です。村垣はあえて、釧路はアイヌ民族が多く居住する特異な土地であることを絵で表現したのかもしれません。
 当時、釧路のアイヌ民族の家屋数がどのくらいあったかというと、島義勇(しまよしたけ)が記録に残しています。この絵の1年前、すなわち1857年(安政4年)8月、79軒だったそうです。島は肥前(佐賀県)出身の開拓判官で、79軒の記録は島の「入北記」にあります。村垣の釧路の絵を読み解くとき、参考になる数字です。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/161908

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「ゴールデンカムイ」鶴見中尉は大塚芳忠、尾形は津田健次郎、谷垣は細谷佳正

2018-02-06 | アイヌ民族関連
ニコニコニュース 2018/02/05 18:31コミックナタリー

野田サトル原作によるテレビアニメ「ゴールデンカムイ」の追加キャストが発表された。鶴見中尉役を大塚芳忠、尾形百之助役を津田健次郎、谷垣源次郎役を細谷佳正が演じる。
鶴見はアイヌの金塊を軍資金として、自らが率いる軍事政権を実現させるという野望を抱く大日本帝国陸軍の第七師団中尉。尾形は精密射撃を得意とし、300メートル以内なら確実に相手の頭を撃ち抜くことが可能という第七師団の上等兵だ。谷垣も同じく第七師団に一等卒として属しており、杉元たちを追跡中にエゾオオカミのレタラと遭遇する。
「ゴールデンカムイ」はゴールドラッシュに湧いた明治後期の北海道を舞台に、アイヌが遺した莫大な埋蔵金を狙う「不死身の杉元」の異名を取る元軍人の杉元と、アイヌの少女・アシリパを軸に描く冒険活劇。3月24日、25日に東京・東京ビッグサイトで開催される「AnimeJapan 2018」の1日目には、杉元役の小林親弘、アシリパ役の白石晴香、白石役の伊藤健太郎と津田が出演する本作のステージイベントが行われる。
※レタラのラとアシリパのリは小文字が正式表記。
大塚芳忠(鶴見中尉役)コメント
いつもいつも、新しいキャラクターに遭遇すると胸がときめきます。
どんなセリフをどんな表情で喋るんだろう、動きにはどんな特徴があるんだろう、性格はどうなんだろうと考えるだけで興奮してきます。
まだキャラクターの設定概要を頂いたばかりなので想像でしかありませんが、奇矯・残忍・謀略・策謀などなど興味が尽きません。
演ずる者としては震い付きたくなるほどの魅力あるキャラクターだと思えます。
日露戦争という時代設定も逆に新しく、これは楽しめそうだと期待でいっぱいです。
津田健次郎(尾形百之助役)コメント
力強い物語、個性的なキャラクター、エネルギーの塊の様な原作世界にアニメで参加出来るのをとても嬉しく思います。
クールなスナイパー尾形百之助を演じられるのをとても嬉しく思います。
尾形カッコイイなぁ。アニメではどんな絵なんだろう、どんな演出なんだろう、どんな脚本でどんな音楽で、皆さんどんな芝居するんだろう。嗚呼、収録が楽しみだ。
スナイパー尾形が観て下さる皆さんの心を撃ち抜ける様に頑張ります。嗚呼、楽しみだ!
細谷佳正(谷垣源次郎役)コメント
この度、谷垣源次郎の声をやらせて頂くことになりました。
漫画ゴールデンカムイのファンの皆様に楽しんで頂ける様に、このキャラクターがより魅力的になるように努めて行きたいと思います。よろしくお願い致します。
テレビアニメ「ゴールデンカムイ」
スタッフ
原作:野田サトル(集英社「週刊ヤングジャンプ」連載)
監督:難波日登志
シリーズ構成:高木登
キャラクターデザイン:大貫健一
銃火器設定:渡辺浩二
プロップ設定:浅沼信也
動物設定:墨佳遼
美術監督:森川篤
色彩設計:茂木孝浩
撮影監督:戸澤雄一郎
CGディレクター:奥村優子/濱田康平
編集:定松剛
音響監督:明田川仁
音響制作:マジックカプセル
音楽:末廣健一郎
アニメーション制作:ジェノスタジオ
製作:ゴールデンカムイ製作委員会
キャスト
杉元佐一:小林親弘
アシリパ:白石晴香
白石由竹:伊藤健太郎
鶴見中尉:大塚芳忠
尾形百之助:津田健次郎
谷垣源次郎:細谷佳正
(c)野田サトル/集英社・ゴールデンカムイ製作委員会 (c)野田サトル/集英社
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3270568

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テレビアニメの鶴見中尉役に大塚芳忠 津田健次郎、細谷佳正も出演

2018-02-06 | アイヌ民族関連
毎日新聞2018年2月5日
 野田サトルさんのマンガが原作のテレビアニメ「ゴールデンカムイ」に声優として大塚芳忠さん、津田健次郎さん、細谷佳正さんが出演することが5日、明らかになった。大塚さんは、アイヌの金塊を軍資金として、軍事政権の実現の野望を抱く鶴見中尉、津田さんは精密射撃が得意な尾形百之助、細谷さんは、東北マタギの生まれで、山で生きるすべを心得ている谷垣源次郎をそれぞれ演じる。
 大塚さんは「いつもいつも、新しいキャラクターに遭遇すると胸がときめきます。どんなせりふをどんな表情でしゃべるんだろう、動きにはどんな特徴があるんだろう、性格はどうなんだろうと考えるだけで興奮してきます。まだ、キャラクターの設定概要をいただいたばかりなので想像でしかありませんが、奇矯、残忍、謀略、策謀などなど興味が尽きません。演ずる者としては震い付きたくなるほどの魅力あるキャラクターだと思えます」とコメントを寄せている。
 「ゴールデンカムイ」は、2014年から「週刊ヤングジャンプ」(集英社)で連載中のマンガ。かつて日露戦争で活躍した“不死身の杉元”が、北海道で死刑囚が隠した埋蔵金の手掛かりをつかみ、アイヌの少女アシリパらと共に冒険を繰り広げる姿を描いている。アイヌの文化や歴史、食事の描写なども評価され、「マンガ大賞2016」で大賞を受賞した。
 アニメは、劇場版アニメ「虐殺器官」(村瀬修功監督)を手がけたアニメ制作会社「ジェノスタジオ」が制作する。小林親弘さんが杉元、白石晴香さんがアシリパをそれぞれ演じる。4月からTOKYO MXほかで放送。 
https://mainichi.jp/articles/20180205/dyo/00m/200/018000c

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インスタ映え必至!氷の花とアイヌの世界に触れる友達との冒険旅行へ

2018-02-06 | アイヌ民族関連
ウオーカープラス 2018/02/05 11:00

最近の私のブームはインスタ映えするスポット巡り。友達との旅行も兼ねて、北海道・釧路にある阿寒湖に1泊2日で行ってきました。今回の旅のお目当ては阿寒湖の「フロストフラワー」。限られた気象条件下でしか見ることのできない氷の造形物として、必ず見ておきたい絶景の一つです。一方、友達は「民芸喫茶ポロンノ」が提供するアイヌ料理に興味津々!
未知の味、アイヌ料理に人生初挑戦!
まずは、飛行機とバスを乗り継いで阿寒湖に到着。食事も兼ねて一息入れようと民芸喫茶ポロンノに直行。伝統的なアイヌ料理を提供するお店だけに、民芸の木彫りやアイヌの民族楽器などが飾られていて雰囲気が出ていました。
店に入ってさっそく人生初のアイヌ料理「ポッチェいも」を注文。
「どんな味なんだろう?」、と緊張の一瞬…
「あ、おいしい!けど、なんて表現したらいいんだろう…」
今までに食べたことがない素朴な味わいが口の中に広がって、チヂミのような、ホットケーキのような不思議な食感を感じます。材料にはジャガイモを使用しているそうで、発酵したジャガイモを数回こして水分を絞り乾燥させたものを、食べる時に水で戻して焼くのだとか。現代のフリーズドライ製法のような食品で、手軽に食べられる保存食として食べられていたそうです。ほかにも甘い味わいで後味がピリっとしたカボチャサラダのように見える「ラタスケップ」や、昆布ダシと塩で味付けをした鹿汁の鍋「ユックオハウ」なども頼みましたが、どれもおいしく「アイヌ料理って、思っていたよりもずっと食べやすいね」と友達と2人で心行くまでいただきました。
アイヌ民族伝統の「火の儀式」は圧巻のひと言
アイヌ料理に満足し、あたりもすっかり暗くなってくると、私たちは「アイヌコタン・阿寒湖氷上フェスティバルICE・愛す・阿寒 『冬華美』」へ。雪で作られたメインステージでは、アイヌ民族伝統の「火の儀式」を見ることができました。民族衣装を着て燃えさかる炎を操る男性の迫力は圧巻で、手に汗握ります。
その後の花火は音楽と美しく競演するスターマイン。冬の花火ならではの、澄んだ空に上がる美しい夜の花にため息がもれました。
阿寒湖に咲き誇る雪の花に、早くも再訪を誓う!?
2日目は「白銀の阿寒湖 早朝散歩ツアー」に参加のため日の出前から集合。気温マイナス15度以下の極寒で行うツアーだけに、いくら着込んでも着たりません。そのせいか厚着をし過ぎた友達が雪だるまみたいに丸くなってしまって、思わず失笑。湖の氷が割れないように祈りながらガイドについて行くと、日の光が差し込み幻想的な光景が広がりました。
その光の先に氷の上の白い塊を発見。湖の上でフロストフラワーが花びらのように咲き誇っているのが見えました。
思わず写真を撮ることを忘れるほどきれいな光景に友達と2人で感激。まさにインスタ映えする美しい光景でした。そして最後に2人で記念撮影をしてツアーは終了。
その後は阿寒湖をゆっくりと回って帰りのバスに乗車。友達はフロストフラワーが気に入ったようなので、釧路にはほかにも世界三大夕日や釧路湿原などの撮影スポットがあることを伝えると、興奮気味に「また来よう!」という話に。釧路は極寒でしたが、この熱はしばらく冷めそうにありません。
今回紹介したのはこちら
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◆アイヌ料理の店 民芸喫茶 ポロンノ
伝統的なアイヌ料理とお店オリジナルの料理を楽しめるお店
住所:釧路市阿寒町阿寒湖温泉4-7-8
電話:0154・67・2159
時間:夏季12:00~15:00/18:00~21:30 、冬季12:00~15:00/18:30~20:30
休み:不定休
席数:25席
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◆阿寒湖氷上フェスティバルICE・愛す・阿寒 『冬華美』
氷点下の澄みきった夜空に咲く大輪の花火は、まさに圧巻!
会場:阿寒湖氷上特設会場(釧路市阿寒町阿寒湖温泉)
電話:0154・67・3200
時間:19:30~20:30
休み:なし(開催期間2月3日(土)~3月4日(日))
料金:無料
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◆白銀の阿寒湖早朝散歩ツアー
極寒の朝にこそ見ることのできる氷の造形美
住所:釧路市阿寒町阿寒湖温泉2-6-20
電話:0154・67・3200
時間:6:30~8:00
休み:なし(開催期間1月15日(月)~3月11日(日))
料金:大人2500円、小人1750円
席数:10名
================
【北海道ウォーカー編集部/PR】取材・文=永田正雄
https://news.walkerplus.com/article/134326/

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青森県史編さん年度内に終了 全36巻、着手から20年余

2018-02-06 | アイヌ民族関連
デーリー東北新聞社2/5(月) 10:09配信

本年度で全36巻がそろう青森県史の一部
 1996年に始まった青森県の県史編さん事業が本年度で終了する。残る通史編3冊は既に校了、印刷の段階に入っており、全36巻が間もなくそろう。事業開始時から携わる県県民生活文化課県史編さんグループマネジャーの古川淳一副参事は「資料を集めて活字化する機会はなかなかなく、貴重。100年後まで残る事業として取り組んだ」と意義を語る。
 県史の編さんは、県の歴史的発展の過程を明らかにすることや、貴重な資料を後世に伝えることなどが目的。原始・古代から現代までを取り扱い、2016年度までに資料編25巻、民俗編3巻、文化財編2巻、自然編2巻、別編1巻を刊行した。図書館や学校など公共施設に配置しているほか、希望者への有償頒布も行っている。
 刊行を控える「通史編1」は「交流と交易」をテーマに原始、古代、中世を扱う。ビジュアル性を重視し、使用するイラストや写真にもこだわった。「通史編2」は近世が対象。南部と津軽の枠を取り払い、同時代を横断的に描いたのがポイントだ。北海道への出稼ぎや本州アイヌの動向など、人々の暮らしぶりにもスポットを当てている。
 「通史編3」は、廃藩置県から現在までの近現代6章と、県内各地での民俗調査の成果を収めた民俗総論3章の構成。担当者は「新しい時代は資料が豊富で整理、選別が大変。県民にとって同時代史でもあり、中立の立場で偏りなく扱うよう意識した」と話す。民俗編に付くDVDには祭りの様子などを収める。
 県史作成のために集めた膨大な資料は学術的な価値が高く、県は引き続き、多くの県民が検索、閲覧できるデジタルアーカイブ(保存記録)の構築にも取り組む。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180205-00010000-dtohoku-l02

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米寿老人の冒険譚――佐江衆一『エンディング・パラダイス』

2018-02-06 | 先住民族関連
新潮社 2/5(月) 8:00配信
 東京大空襲の炎熱下を逃げ回った少年の悲惨な記憶。日系二世ということで家を奪われ、強制収容所に入れられた少女の苦難と屈辱の体験。これらの実際の記憶や体験を持っている人物は、今では八、九十代以上の老人に限られている。この小説のヒーローとヒロインが、必然的に八十八歳と九十歳の老男老女とならなければならなかったのは、そのためだ。戦争体験者を「戦争一世」とするなら、現在は、「戦争二世」が後期高齢者となり、戦争体験がもはやこれ以降の世代に継承されることが難しくなっているのである。
 ヒーローとヒロイン? 老人ホームから抜け出して来た、元畳職人のショウヘイ(昭平――昭和と平成か)と、年齢不詳の老美人のツルコ(鶴子)とは、まさに秘境をめぐる冒険物語のヒーローとヒロインといわざるをえない。ショウヘイはパプアニューギニアの先住民族の未開社会で、背中に傷をつけるという傷身儀礼を受けて部族の英雄、そして長老となるし、ツルコは、およそ六、七十歳も歳の差のある若者に惚れ、同居するという老いたシンデレラというべき恋物語のヒロインなのだ。
 このようなストーリーだけを見たら、これはそうした老人たちの夢物語であり、蒙昧な野蛮人の世界に文明人が入り込むというターザンや冒険ダン吉の原始世界というユートピアの物語のように思える。敗残の逃亡日本兵として村人たちに受け入れられた父親と同じように、ショウヘイも、ニューギニア奥地のタントゴラン村の人々に温かく迎えられる。村の若者たちといっしょに森や大河や樹木の精霊を信仰する原始の世界に触れ合うのである。
 しかし、暗黒世界といわれたパプアニューギニアという小説の舞台の暗い闇を透かせば、そこに夥しい日本の兵隊たちの死屍累々たる惨状が浮かびあがってくる。ショウヘイの父親は、日本軍が進出したニューギニア戦線から、かろうじてほとんど唯一の復員兵として日本へ帰ってくることができたが、その背後には異土の鬼となった戦友たちの無念の死があった。父親は死の前に、息子のショウヘイにニューギニアの戦場で仆(たお)れた戦友たちの遺骨を収集して弔うことと、自分を救ってくれた原住民の子孫たちに感謝を伝えることを、旅のミッションとして残したのである。
 ショウヘイは、ケアハウスを出て、中国の豪華客船に乗り込み、南太平洋の船旅に出た。その船内で、彼はツルコや、香港人の黄永宝(この人物の性格はちょっと曖昧だが)と出会い、いっしょにパプアニューギニアのタントゴラン村を目指すことになる。彼らは大河セピックを遡って、奥地にたどりつき、村の一員として受け入れてもらう。しかし、原始のパラダイスのようなニューギニアの奥地にも、シェールガスの発掘などの開発の手が伸び、原始の部族民をその居住地から追い出そうとする政策が取られることになる。地元民の焼畑農業の比ではない大規模な環境破壊だ。太古からの原始の森や大河を汚し、痛めつけ、破壊しようとする中国・日本・アメリカなどの先進国の巨大な開発産業、工業資本、ODAなどと戦わなければならなくなったのである。
 ミクロネシアやメラネシアやオセアニアの南太平洋の島々には、まだこの前の大戦の犠牲者たちの遺骨がジャングルや洞窟や水辺に散らばっている。日本の敗残兵のものも、戦勝者アメリカの不運な兵士たちのものも。そうした死者たちの魂を慰撫・鎮魂しないことには、私たちの「戦後」は終わらない。米寿の老日本人の冒険譚が書かれなければならなかったのは、高年齢化した日本社会において、それが一種の希望や理想ともいえる物語としてあったからだ。もう一つは、「戦争一世」が「戦争二世」たちのために残したミッションを、三世、四世以降の世代にも引き継いでもらいたいとの底意もあったのではないか。小説の最後に、夥しいチプネ(カヌー)で大河を遡ってくる先住民たちは戦争とも植民地支配とも関わりのない新世代の人々だろう。アジア太平洋戦争で戦場となったパプアニューギニア(や東南アジア)にとって、中国・日本・米国は「戦争当事国」にほかならない。当事国ではないニューギニアやフィリピンやビルマが悲惨な戦場となった。こうした戦争当事者としての「文明国」に対抗するのが、本来、戦争とは関わりのなかった、未開発国の原住民たちだ。戦争は文明国の賜物であり、平和なパラダイスは、未開・野蛮といわれる人たちの側にある。未開の人たちの方にこそ、地球の環境保全の最後の希望がある。エンターテインメント性を横溢させながら、シリアスな冒険小説。「戦争二世」世代の、未来を切り開く遺言的作品である。
[レビュアー]川村湊(文芸評論家)
かわむら・みなと
新潮社 波 2018年2月号 掲載
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180205-00546628-bookbang-ent

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