こんにちは、総務文教委員会所属の石井伸之です。
11月22日から23日の一泊二日で総務文教委員会において、被災地へ視察に行きました。
初日は釜石市、二日目は大船渡市を視察します。

釜石駅に到着し、少し坂道を上り、釜石はまゆり飲食店街を視察しました。

マミーという喫茶店で話しを聞くと10月上旬に国立の方がモチツキやかたもみのボランティアに来たそうです。

国立市商工会青年部でも女川の復興支援に携わっているように国立市内の団体が支援に来ているとの話しを聞くことが出来、嬉しい限りです。

釜石駅から釜石市役所に向かうと釜石市街地は津波の被害に遭っていることから所々津波の凄まじさを物語かのように傷ついた建物が残っています。

それでも、そういった建物は少なくなっており、市街地には多くの建物が新築され、賑わいを取り戻しているようです。

釜石市役所に到着して目に飛び込んでくるのは、津波到達地点を示す青い看板です。

昭和29年に建設された釜石市役所はもう少し海側であれば波に飲まれたところを絶妙な位置に建設されたことが、この青い看板でわかります。

この場所に建設したことも先人の津波被害を教訓にしたものなのかもしれません。

視察では、釜石市議会議長に挨拶をいただき、釜石市は江戸時代に鉄鉱石が発見されて以来、明治維新の11年前に近代的な製鉄が成功し、それ以来製鉄業で栄え、明治時代には日本における7割の鉄を生産していたそうです。
平成23年3月11日は予算委員会中で、市役所屋上から釜石市内が津波に呑まれる状況をなすすべなく見ているしかなかったと言われました。
続いて防災係長により被災状況の説明がありました。
釜石市における、市域の九割が山地で一割が平地ということから、居住地域は限られているそうです。
被害状況としては、4万人弱の住民登録があり、そのうち釜石市が収容した死亡者は888人、住民の行方不明者数は152人となっており、死者の中には水門閉鎖や救助活動に尽力された消防団8名の方も含まれております。
1896年に発生した明治三陸地震では約6700人の方が亡くなり、1933年の昭和三陸地震でも約400人の方が津波で亡くなったことにより、市内各地で津波被害の怖さを伝える石碑などが建立されていたが、そういった先人たちの教えにどこまで従ったかというと、その辺りの情報共有が不十分だったという話がありました。
その中で情報過多になっていたという話があり、東日本大震災における津波の初報は3mということから住民が安心してしまい避難が遅れたこと、その後津波の予測が6m→10mと変わったが、その頃は既に電気が通じておらず、その情報が届かなかったことも被害を拡大した一因だったそうです。
津波が押し寄せる様子を動画で見せていただきましたが、津波により木造住宅の瓦礫が市役所玄関に押し寄せていました。
説明していただいた係長も家族が被災され、家族は亡くなったことを覚悟して被災者支援活動を続けたそうです。
釜石の奇跡ということで小中学生の避難活動が特筆されていますが、釜石の奇跡といっても全員が助かった訳では無く、欠席した児童や地震発生後保護者に引き取られた児童で亡くなった方もおり、多くの児童の両親や親戚が亡くなられたことからも奇跡だ奇跡だと浮かれてはいられないと言われていました。
それでも、群馬大学大学院工学研究科災害社会工学研究室防災教育 片田敏孝教授が平成16年に釜石市の防災を研究され、平成21年に釜石市防災・危機管理アドバイザーを委嘱し、防災教育に力を入れたことが実ったことは間違いありません。
釜石小学校は既に放課後となっていましたが、自宅に1人でいた児童も海辺で釣りをしていた児童、義足の児童を代わる代わる交代でおんぶし避難した児童達、児童の率先的な避難で多くの家族が救われ、孫に助けられたという方もいたそうです。
「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて」(中学2年女子)という言葉が後世に残されることとなりましたが、後世に語り継ぐことの大切さを実感しました。
特に児童の心のケアは重大な課題となっており、津波の映像などでフラッシュバックをおこし、精神が不安定になる児童も多いそうです。
被災者支援において一番苦労されたのは何と言っても肉親の安否確認であったように感じました。
誰がどこに避難しているか一時的に確認出来ても、肉親を探す為に避難場所を移動しており、なかなか出会うことができなかったということもあったそうです。
市役所入口にも避難者情報がメモ書きされ、ホワイトボードへビッシリと貼られているメモを食い入るように見ていたという話を聞きました。
最後に質問の機会となり避難所の運営について、リーダーの選出とペットについて聞きました。
リーダーは避難所の方々より自然な形で選出され、主に自治会長、消防団の方が務められたそうです。
ペットの扱いについても避難所によってそれぞれ違い、外の一部であったり、玄関前であったり室内の一カ所であったりと教えていただきました。
避難所運営マニュアルを作成する際に意見が分かれるのはペットの取り扱いと聞いておりましたので、その扱いも特に正しいものは無く、避難所避難所の中で定めた方が良いようです。
また、津波での被災という事から、NTTの無料仮設電話が設置された時期が三日後という事もあり、災害伝言ダイヤル171よりも掲示板のメモ書きや避難所でまとめた被災者情報が役に立ったそうです。
1時間半余りの視察ですが、生の情報に触れられたので今後に生かしたいと思います。

次に、鵜(うーの)!はまなす商店街へ行き、プレハブでの商店がオープンしております。

こちらの商店も津波で被災され、この場所へ移転して来たそうです。

当初二年間という事でしたが、戻る場所の区画整理が遅れており一年間延長したという話を聞きました。

ここでいただいたクッキーが大変美味しく、もう一度買いに行きたいほどです。

鵜住居(うのすまい)小学校児童と釜石東中学校生徒が最初に避難してきた老人福祉施設グループホーム「ございしょの里」です。

ここに留まっていることなく、生徒児童は坂を上って、介護福祉施設から石材店まで上がり、津波を逃れました。
その後は大船渡市へ行き、国立市役所から大船渡市役所へ派遣されている職員と懇談し、一日が終わりました。
11月22日から23日の一泊二日で総務文教委員会において、被災地へ視察に行きました。
初日は釜石市、二日目は大船渡市を視察します。

釜石駅に到着し、少し坂道を上り、釜石はまゆり飲食店街を視察しました。

マミーという喫茶店で話しを聞くと10月上旬に国立の方がモチツキやかたもみのボランティアに来たそうです。

国立市商工会青年部でも女川の復興支援に携わっているように国立市内の団体が支援に来ているとの話しを聞くことが出来、嬉しい限りです。

釜石駅から釜石市役所に向かうと釜石市街地は津波の被害に遭っていることから所々津波の凄まじさを物語かのように傷ついた建物が残っています。

それでも、そういった建物は少なくなっており、市街地には多くの建物が新築され、賑わいを取り戻しているようです。

釜石市役所に到着して目に飛び込んでくるのは、津波到達地点を示す青い看板です。

昭和29年に建設された釜石市役所はもう少し海側であれば波に飲まれたところを絶妙な位置に建設されたことが、この青い看板でわかります。

この場所に建設したことも先人の津波被害を教訓にしたものなのかもしれません。

視察では、釜石市議会議長に挨拶をいただき、釜石市は江戸時代に鉄鉱石が発見されて以来、明治維新の11年前に近代的な製鉄が成功し、それ以来製鉄業で栄え、明治時代には日本における7割の鉄を生産していたそうです。
平成23年3月11日は予算委員会中で、市役所屋上から釜石市内が津波に呑まれる状況をなすすべなく見ているしかなかったと言われました。
続いて防災係長により被災状況の説明がありました。
釜石市における、市域の九割が山地で一割が平地ということから、居住地域は限られているそうです。
被害状況としては、4万人弱の住民登録があり、そのうち釜石市が収容した死亡者は888人、住民の行方不明者数は152人となっており、死者の中には水門閉鎖や救助活動に尽力された消防団8名の方も含まれております。
1896年に発生した明治三陸地震では約6700人の方が亡くなり、1933年の昭和三陸地震でも約400人の方が津波で亡くなったことにより、市内各地で津波被害の怖さを伝える石碑などが建立されていたが、そういった先人たちの教えにどこまで従ったかというと、その辺りの情報共有が不十分だったという話がありました。
その中で情報過多になっていたという話があり、東日本大震災における津波の初報は3mということから住民が安心してしまい避難が遅れたこと、その後津波の予測が6m→10mと変わったが、その頃は既に電気が通じておらず、その情報が届かなかったことも被害を拡大した一因だったそうです。
津波が押し寄せる様子を動画で見せていただきましたが、津波により木造住宅の瓦礫が市役所玄関に押し寄せていました。
説明していただいた係長も家族が被災され、家族は亡くなったことを覚悟して被災者支援活動を続けたそうです。
釜石の奇跡ということで小中学生の避難活動が特筆されていますが、釜石の奇跡といっても全員が助かった訳では無く、欠席した児童や地震発生後保護者に引き取られた児童で亡くなった方もおり、多くの児童の両親や親戚が亡くなられたことからも奇跡だ奇跡だと浮かれてはいられないと言われていました。
それでも、群馬大学大学院工学研究科災害社会工学研究室防災教育 片田敏孝教授が平成16年に釜石市の防災を研究され、平成21年に釜石市防災・危機管理アドバイザーを委嘱し、防災教育に力を入れたことが実ったことは間違いありません。
釜石小学校は既に放課後となっていましたが、自宅に1人でいた児童も海辺で釣りをしていた児童、義足の児童を代わる代わる交代でおんぶし避難した児童達、児童の率先的な避難で多くの家族が救われ、孫に助けられたという方もいたそうです。
「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて」(中学2年女子)という言葉が後世に残されることとなりましたが、後世に語り継ぐことの大切さを実感しました。
特に児童の心のケアは重大な課題となっており、津波の映像などでフラッシュバックをおこし、精神が不安定になる児童も多いそうです。
被災者支援において一番苦労されたのは何と言っても肉親の安否確認であったように感じました。
誰がどこに避難しているか一時的に確認出来ても、肉親を探す為に避難場所を移動しており、なかなか出会うことができなかったということもあったそうです。
市役所入口にも避難者情報がメモ書きされ、ホワイトボードへビッシリと貼られているメモを食い入るように見ていたという話を聞きました。
最後に質問の機会となり避難所の運営について、リーダーの選出とペットについて聞きました。
リーダーは避難所の方々より自然な形で選出され、主に自治会長、消防団の方が務められたそうです。
ペットの扱いについても避難所によってそれぞれ違い、外の一部であったり、玄関前であったり室内の一カ所であったりと教えていただきました。
避難所運営マニュアルを作成する際に意見が分かれるのはペットの取り扱いと聞いておりましたので、その扱いも特に正しいものは無く、避難所避難所の中で定めた方が良いようです。
また、津波での被災という事から、NTTの無料仮設電話が設置された時期が三日後という事もあり、災害伝言ダイヤル171よりも掲示板のメモ書きや避難所でまとめた被災者情報が役に立ったそうです。
1時間半余りの視察ですが、生の情報に触れられたので今後に生かしたいと思います。

次に、鵜(うーの)!はまなす商店街へ行き、プレハブでの商店がオープンしております。

こちらの商店も津波で被災され、この場所へ移転して来たそうです。

当初二年間という事でしたが、戻る場所の区画整理が遅れており一年間延長したという話を聞きました。

ここでいただいたクッキーが大変美味しく、もう一度買いに行きたいほどです。

鵜住居(うのすまい)小学校児童と釜石東中学校生徒が最初に避難してきた老人福祉施設グループホーム「ございしょの里」です。

ここに留まっていることなく、生徒児童は坂を上って、介護福祉施設から石材店まで上がり、津波を逃れました。
その後は大船渡市へ行き、国立市役所から大船渡市役所へ派遣されている職員と懇談し、一日が終わりました。