2021年10月12日(火)西郷隆盛終焉の地から歩いて
14時34分
私学校跡に至る。
私学校とは1873年(明治6年)に征韓論が通らず参議の職を辞し下野した西郷隆盛が主となり、翌1874年(明治7年)に設立した学校である。
事の起こりは鹿児島に戻った西郷を慕って不平士族すなわち明治新政府に不満を抱く元武士らが600人も鹿児島に集結、その数は最終的に3万人近くに及んだとされ、彼らの暴発を抑えるため作られたもので、鹿児島県内に100校ほど分校があったそうな。
学校そのものは残っておらず
石塀が残るだけである。
元々は鹿児島城の厩だった場所に作られた私学校、主に軍事教練と一般教養を不平士族らに修めさせ彼らの暴発を防ごうとしたもので、今風に言えばガス抜きであろうが、この私学校が西南戦争の原因を作ってしまったのは、何とも言えぬ歴史の皮肉であろうと思うのである。
14時34分
私学校跡に至る。
私学校とは1873年(明治6年)に征韓論が通らず参議の職を辞し下野した西郷隆盛が主となり、翌1874年(明治7年)に設立した学校である。
事の起こりは鹿児島に戻った西郷を慕って不平士族すなわち明治新政府に不満を抱く元武士らが600人も鹿児島に集結、その数は最終的に3万人近くに及んだとされ、彼らの暴発を抑えるため作られたもので、鹿児島県内に100校ほど分校があったそうな。
学校そのものは残っておらず
石塀が残るだけである。
元々は鹿児島城の厩だった場所に作られた私学校、主に軍事教練と一般教養を不平士族らに修めさせ彼らの暴発を防ごうとしたもので、今風に言えばガス抜きであろうが、この私学校が西南戦争の原因を作ってしまったのは、何とも言えぬ歴史の皮肉であろうと思うのである。