
秋の温泉旅行は今年も信州方面。
記紀(古事記、日本書記)で興味ある部分を訪れる事と長野県の建立物国宝の訪問です。更に来年の大河ドラマ「真田丸」を一層面白く見るために真田三代の上田城と松代城を訪れます。
※コースは
善光寺→松代城→上田城→上山田温泉(泊)→別所(塩田平)→諏訪
初日は一気に善光寺まで走る、眠い顔の妻を起こし早朝4:30に自宅を出発。
8時前に善光寺と長野駅の中間点にある駐車場に到着、まだ開けきらない門前街を善光寺に向けて北上する。
※仁王門:仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作。

境内地入り口から三門下までの400メートルに敷かれている石畳は古来より7777枚あると言われている。
この時間まだ人通りは少なく門前町は起き出した頃か?

「牛に引かれて善光寺参り」
昔、信濃国小諸にケチで性根の悪いおばあさんが住んでいた。
ある日、川で布を洗濯して軒先で乾かしていたところ、一頭の牛が現れて角で布を引っかけ走り出した。おばあさんはその牛を追いかけ、なんと善光寺まで来てしまったという。
日が暮れて牛が入っていったお堂におばあさんも入ってみると、光明に照らされて、牛のよだれが「牛とのみ思いすごすな仏の道に 汝を導く己の心を」と読めた。するとおばあさんの心に仏の心が芽生え、すっかり信心深い人間に生まれ変わってしまった。
後日、近くの観音堂を詣でると堂内の観音様に牛にさらわれた布がかけてあった。それを見たおばあさんは、牛と思ったのはじつは仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深めて往生を遂げた。
・山門:重要文化財
「善光寺」と書かれた額「鳩字の額」字の中に鳩が5羽と牛の顔が隠されています。

※国宝:善光寺本堂
間口23.89メートル、高さ25.82メートル、奥行き53.67メートルの規模をもつ江戸時代中期仏教建築を代表する大伽藍で奥行きが広いのが特徴です。

さて本堂に入ります(写真は撮影禁止なのでありません)
内々陣左側の奥、瑠璃壇に向けてお参りをする(秘仏の御本尊「一光三尊阿弥陀如来像」が御安置)
内々陣正面は三体の像が祀られています開山された本田善光卿を中心に、向かって右に奥様の弥生御前、左は息子の善佐卿で「御三卿の間」と言う。
そして「お戒壇巡り」の階段を降りて無事「極楽の錠前」に触れる事ができた。
お戒壇巡りとは:瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です。
※仏教伝来から善光寺が出きるまでの流れを私なりにまとめた図がこれです。

丁未の乱(587年)で蘇我氏に滅ぼされた物部氏の最後の当主が守屋でその守屋を鎮魂するために本堂108本の中、祭壇中心に金箔を張られた四角い守屋柱があるそうです。守屋の霊魂は祟る神なのです。
「祟る」のは祟れれる方が不条理な事をした場合だと思うと守屋に興味が沸きますね。
そこで物部氏に関する書物、伝承、史跡などなど調べれば調べるほど深みに嵌ってゆく。
また物部氏の祖神「ニギハヤヒ」は神武天皇東征で大和に入った時点で天津神として先に降臨し大和を支配していました。
え?、それでは初代天皇は「ニギハヤヒ」??とならない所が「記紀」古事記・日本書紀の面白さで読み解くは個人の自由でその世界にどっぷり使っている今日この頃です。
横から見た本堂、確かに奥に長いですね。

歴代の回向柱。(一番新しいのが今年の御開帳で立てられた柱)
回向柱とは、卒塔婆の一種で、御開帳期間中に本堂前に立てられる高さ約10mの柱です。前立本尊の御手と「善の綱」によって結ばれるため、前立本尊に触るのと同じ御利益あるといわれます。
回向柱は毎回松代の地より寄進されます。この柱の一部(名刺大)が我が家にもあります。
今回の旅行に合わせて観光資料を取り寄せた中に入っていたもので、仏壇に備えてあります。

資料館など合わせてお参りや見学で3時間を費やす。
この時間混み合ってきました。

門前町で少し早めの昼食「更科の十割そば」+お稲荷+天ぷら
更科そば:ソバの実の中心部分のみを挽いたさらしな粉を使用、香りより上品な歯ざわりとのど越しを珍重。(白っぽい)
黒っぽい田舎そばの方が俺的には好きかな、香りが鼻から抜けるのが良い。

駐車場に戻り、松代へ移動し真田ゆかりの地を散策する。
※松代城跡

ます(信之から松代藩真田氏十代)真田宝物館をじっくり見学する。
※真田邸

※文武学校

真田の旗頭「六文銭」:三途の川を舟で渡る際の渡し賃で死ぬ気で戦うぞの意気込みを記した旗頭。
松代からは高速を利用して1時間程度車を走らせ信州上田に向かう。
結構車が多く駐車場は一杯で体育館駐車場に止める。
※上田城跡公園

真田石:天正11年(1583)、真田昌幸(幸村の父)が上田城を築くとき、本丸の入口右手の石垣に高さ 約2・5メートル、横3メートルほどの大きな石を柱石として据えた。城内で最も大きな石である。真田信之(幸村の兄)が松代へ移る時この石を父の形見に持って行こうとしたが、数万人の人夫の力でも動かなかったという。

真田神社本殿

真田十勇士:真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣であくまでも伝承だが実在した家臣もいる。
猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎。
子供の頃、好きな遊びは「チャンバラ」で同年代よりは10年ほど古い遊びが中心でした。
親は明治、大正生まれで近所の大好きなお兄ちゃんが8才ほど上だったからで、今考えればこのお兄ちゃんは僕のスーパースターでした。最近家に何故か木刀があり、リビングで剣舞しているおやじでです。
妻や子や飼い猫は私に切られないように避けて通ります。
「ブチャー」「ブチャー」
日暮れも近く予約した戸倉上山田温泉の宿に移動。
夕食は名物「おしぼりそば」辛味大根と味噌でいただくこの地方の食べ物です。
館内は広く、温泉にサウナもありゆっくり寛ぎ床に入る。
年よりは目が覚めるのが早い5時半には露天風呂で温まる。(朝はかなり冷え込み気温5度)
朝食はバイキング形式で7時から、今日の予定もタイトなので早めに。
8時旅館を出発。車で30分程度で最初の目的地へ。
※国宝「大法寺三重塔」:塔の美しさから「見返りの塔」とも呼ばれている国宝三重塔

長野県には建立物の国宝が5点ある、今回はその中のまだ行っていない3点を巡る旅でもある。

大法寺三重塔と本堂

住職としばし歓談。
三重塔はお墓だそうです。

そして別所温泉へ。
北向観音に一番近い駐車場に止める事ができた。
別所温泉は、日本武尊が東征した際に発見した日本最古の温泉と言われ、7つの温泉を開き、「七苦離の温泉」と名付けたと言う。「七久里の湯」と呼ばれるのは、これが由来。平安時代に清少納言によって書かれた「枕草子」に、「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一説があるほど昔から有名な温泉だった。

※北向観音(常楽寺)
縁起:北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。
安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。
本堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がりません。
北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願い、また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願います。
現在と未来の片方だけですと片詣りと言われおり、たまたま向き合ってる両方をお詣りしたほうが良いと言われるようになりました。今の時代の幸せを願い極楽世界でも幸せであるようお詣りください。
ふむふむ、
これで極楽世界でもテニスと山登りができるかな?

温泉薬師瑠璃殿

石造多宝塔(重文)

安楽寺 国宝 八角三重塔
木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定。

国としても「国宝」に指定し、一たん出火事があった場合、塔全体を水の幕で覆うような施設をして、厳重に保護しております。
ハイテクで守られています。

ふくよかな六地蔵。

中禅寺薬師堂(重文)
約八百年前の長野県最古の建物であるばかりでなく、中部日本(中部地方・関東地方)を通じて最も古い。
ここから見える独鈷山は雨が少なく溜池が多いこの地方の雨乞いの山だそうです。

前山寺三重塔

この塩田平一帯は、鎌倉幕府の重職であった北条義政から三代に渡り約六十年、塩田北条氏が統治したことから「信州の鎌倉」と呼ばれており、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた神社仏閣など、数多くの文化財が残っています。
これで長野県には建立物の国宝はすべて訪れた。
・安楽寺八角三重塔
・松本城天守
・仁科神明宮
・善光寺本堂
・大法寺三重塔
さあここから峠を抜け諏訪へ向かいます。
記紀(古事記、日本書記)で興味ある部分を訪れる事と長野県の建立物国宝の訪問です。更に来年の大河ドラマ「真田丸」を一層面白く見るために真田三代の上田城と松代城を訪れます。
※コースは
善光寺→松代城→上田城→上山田温泉(泊)→別所(塩田平)→諏訪
初日は一気に善光寺まで走る、眠い顔の妻を起こし早朝4:30に自宅を出発。
8時前に善光寺と長野駅の中間点にある駐車場に到着、まだ開けきらない門前街を善光寺に向けて北上する。
※仁王門:仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作。

境内地入り口から三門下までの400メートルに敷かれている石畳は古来より7777枚あると言われている。
この時間まだ人通りは少なく門前町は起き出した頃か?

「牛に引かれて善光寺参り」
昔、信濃国小諸にケチで性根の悪いおばあさんが住んでいた。
ある日、川で布を洗濯して軒先で乾かしていたところ、一頭の牛が現れて角で布を引っかけ走り出した。おばあさんはその牛を追いかけ、なんと善光寺まで来てしまったという。
日が暮れて牛が入っていったお堂におばあさんも入ってみると、光明に照らされて、牛のよだれが「牛とのみ思いすごすな仏の道に 汝を導く己の心を」と読めた。するとおばあさんの心に仏の心が芽生え、すっかり信心深い人間に生まれ変わってしまった。
後日、近くの観音堂を詣でると堂内の観音様に牛にさらわれた布がかけてあった。それを見たおばあさんは、牛と思ったのはじつは仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深めて往生を遂げた。
・山門:重要文化財
「善光寺」と書かれた額「鳩字の額」字の中に鳩が5羽と牛の顔が隠されています。

※国宝:善光寺本堂
間口23.89メートル、高さ25.82メートル、奥行き53.67メートルの規模をもつ江戸時代中期仏教建築を代表する大伽藍で奥行きが広いのが特徴です。

さて本堂に入ります(写真は撮影禁止なのでありません)
内々陣左側の奥、瑠璃壇に向けてお参りをする(秘仏の御本尊「一光三尊阿弥陀如来像」が御安置)
内々陣正面は三体の像が祀られています開山された本田善光卿を中心に、向かって右に奥様の弥生御前、左は息子の善佐卿で「御三卿の間」と言う。
そして「お戒壇巡り」の階段を降りて無事「極楽の錠前」に触れる事ができた。
お戒壇巡りとは:瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です。
※仏教伝来から善光寺が出きるまでの流れを私なりにまとめた図がこれです。

丁未の乱(587年)で蘇我氏に滅ぼされた物部氏の最後の当主が守屋でその守屋を鎮魂するために本堂108本の中、祭壇中心に金箔を張られた四角い守屋柱があるそうです。守屋の霊魂は祟る神なのです。
「祟る」のは祟れれる方が不条理な事をした場合だと思うと守屋に興味が沸きますね。
そこで物部氏に関する書物、伝承、史跡などなど調べれば調べるほど深みに嵌ってゆく。
また物部氏の祖神「ニギハヤヒ」は神武天皇東征で大和に入った時点で天津神として先に降臨し大和を支配していました。
え?、それでは初代天皇は「ニギハヤヒ」??とならない所が「記紀」古事記・日本書紀の面白さで読み解くは個人の自由でその世界にどっぷり使っている今日この頃です。
横から見た本堂、確かに奥に長いですね。

歴代の回向柱。(一番新しいのが今年の御開帳で立てられた柱)
回向柱とは、卒塔婆の一種で、御開帳期間中に本堂前に立てられる高さ約10mの柱です。前立本尊の御手と「善の綱」によって結ばれるため、前立本尊に触るのと同じ御利益あるといわれます。
回向柱は毎回松代の地より寄進されます。この柱の一部(名刺大)が我が家にもあります。
今回の旅行に合わせて観光資料を取り寄せた中に入っていたもので、仏壇に備えてあります。

資料館など合わせてお参りや見学で3時間を費やす。
この時間混み合ってきました。

門前町で少し早めの昼食「更科の十割そば」+お稲荷+天ぷら
更科そば:ソバの実の中心部分のみを挽いたさらしな粉を使用、香りより上品な歯ざわりとのど越しを珍重。(白っぽい)
黒っぽい田舎そばの方が俺的には好きかな、香りが鼻から抜けるのが良い。

駐車場に戻り、松代へ移動し真田ゆかりの地を散策する。
※松代城跡

ます(信之から松代藩真田氏十代)真田宝物館をじっくり見学する。
※真田邸

※文武学校

真田の旗頭「六文銭」:三途の川を舟で渡る際の渡し賃で死ぬ気で戦うぞの意気込みを記した旗頭。
松代からは高速を利用して1時間程度車を走らせ信州上田に向かう。
結構車が多く駐車場は一杯で体育館駐車場に止める。
※上田城跡公園

真田石:天正11年(1583)、真田昌幸(幸村の父)が上田城を築くとき、本丸の入口右手の石垣に高さ 約2・5メートル、横3メートルほどの大きな石を柱石として据えた。城内で最も大きな石である。真田信之(幸村の兄)が松代へ移る時この石を父の形見に持って行こうとしたが、数万人の人夫の力でも動かなかったという。

真田神社本殿

真田十勇士:真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣であくまでも伝承だが実在した家臣もいる。
猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎。
子供の頃、好きな遊びは「チャンバラ」で同年代よりは10年ほど古い遊びが中心でした。
親は明治、大正生まれで近所の大好きなお兄ちゃんが8才ほど上だったからで、今考えればこのお兄ちゃんは僕のスーパースターでした。最近家に何故か木刀があり、リビングで剣舞しているおやじでです。
妻や子や飼い猫は私に切られないように避けて通ります。
「ブチャー」「ブチャー」
日暮れも近く予約した戸倉上山田温泉の宿に移動。
夕食は名物「おしぼりそば」辛味大根と味噌でいただくこの地方の食べ物です。
館内は広く、温泉にサウナもありゆっくり寛ぎ床に入る。
年よりは目が覚めるのが早い5時半には露天風呂で温まる。(朝はかなり冷え込み気温5度)
朝食はバイキング形式で7時から、今日の予定もタイトなので早めに。
8時旅館を出発。車で30分程度で最初の目的地へ。
※国宝「大法寺三重塔」:塔の美しさから「見返りの塔」とも呼ばれている国宝三重塔

長野県には建立物の国宝が5点ある、今回はその中のまだ行っていない3点を巡る旅でもある。

大法寺三重塔と本堂

住職としばし歓談。
三重塔はお墓だそうです。

そして別所温泉へ。
北向観音に一番近い駐車場に止める事ができた。
別所温泉は、日本武尊が東征した際に発見した日本最古の温泉と言われ、7つの温泉を開き、「七苦離の温泉」と名付けたと言う。「七久里の湯」と呼ばれるのは、これが由来。平安時代に清少納言によって書かれた「枕草子」に、「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一説があるほど昔から有名な温泉だった。

※北向観音(常楽寺)
縁起:北向観音堂は、平安時代初期の天長2年(825年)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により開創された霊場です。
安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられています。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。
本堂が北に向いているのは、わが国でもほとんど例がりません。
北向観音様は北向に建立され 千手観音様を御本尊として現世利益を願い、また善光寺様は南向きに建立され阿弥陀様を御本尊として未来往生を願います。
現在と未来の片方だけですと片詣りと言われおり、たまたま向き合ってる両方をお詣りしたほうが良いと言われるようになりました。今の時代の幸せを願い極楽世界でも幸せであるようお詣りください。
ふむふむ、
これで極楽世界でもテニスと山登りができるかな?

温泉薬師瑠璃殿

石造多宝塔(重文)

安楽寺 国宝 八角三重塔
木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定。

国としても「国宝」に指定し、一たん出火事があった場合、塔全体を水の幕で覆うような施設をして、厳重に保護しております。
ハイテクで守られています。

ふくよかな六地蔵。

中禅寺薬師堂(重文)
約八百年前の長野県最古の建物であるばかりでなく、中部日本(中部地方・関東地方)を通じて最も古い。
ここから見える独鈷山は雨が少なく溜池が多いこの地方の雨乞いの山だそうです。

前山寺三重塔

この塩田平一帯は、鎌倉幕府の重職であった北条義政から三代に渡り約六十年、塩田北条氏が統治したことから「信州の鎌倉」と呼ばれており、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた神社仏閣など、数多くの文化財が残っています。
これで長野県には建立物の国宝はすべて訪れた。
・安楽寺八角三重塔
・松本城天守
・仁科神明宮
・善光寺本堂
・大法寺三重塔
さあここから峠を抜け諏訪へ向かいます。
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