西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

地井昭夫さんの思い出

2006-06-30 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
今朝、神戸大の山崎寿一君から電話があって、広島国際大の地井昭夫さんが亡くなられた、と言う。食道がんだったようだ。去年の大阪(近畿大学など)での建築学会大会の時に特別に二人で会って、広島の「田舎」の彼のセカンドハウスで囲炉裏を囲んで駄弁ろうと約束していたのに・・。思えば、地井さんが早稲田大学から広島工大に移られ、私が豊田高専から京大助手になってから本格的付き合いが始まったのではないか。37年ほど前である。彼は大学では私と同期(彼は早稲田大学吉阪隆正研究室出身、歳は一つ上)、私は『建築雑誌』に「漁村を見直す視点」の記事を書き、京都府の伊根町や熊本の水俣に取り組みだした頃、既に彼は日本の漁村計画に精力的に取り組み伊根町にも私より一歩先に入られ調査しておられた。早稲田で彼の同期で大学院は京大に来た霜田 稔君(元鳥取大教授)と一緒に京都の天性寺で語り合ったこともある。その後、金沢大学教育学部に転任、金沢が私の郷里だったこともあり金沢で何度か会った。彼が後押しする金沢の雑誌に寄稿したこともある。地井さんの遠い先祖は加賀の小松出身と言っていた。私の親父の先祖は大聖寺藩の出だから近くである。彼は、早稲田の吉阪先生を深く尊敬しておられ、吉阪先生が亡くなられた時、精力的に吉阪隆正全集の出版に取り組まれた。(私の書棚にもある、早稲田の吉阪研出身は大抵ユニーク、吉阪先生の薫陶によるだろう)
その後、広島大学学校教育学部教授として赴任、以来、広島で過ごした。瀬戸内海沿岸や島に沢山漁村があって良い、と言っていた。子供の名に「漁夢(あさむ)」と付けるほど漁村に入れ込んでいた。昨年の建築学会の時、農村計画委員会集住文化小委員会編集の『集住の知恵』(技報堂刊)を買ったが、やはりそこで地井昭夫さんは「舟小屋」を執筆、伊根浦を紹介している。昨年会った時に地井さんは、広島で田舎にセカンドハウスを作り田圃で米も作っている。その飯を食い上手い広島の酒を飲んで囲炉裏を囲んで語ろうよ、一度おいでよ!と言われていた。前の冬は駄目だったので今度の冬かなと思っていたのに・・。伊根町にも一緒に行って、「舟小屋が岡に上がって妻入りになる」という彼の説に対して、案外、伊根では平入りが多いことをどう解釈するかの見方の違いをディスカッションしたかったが出来なくなった。安らかに眠ってください。もし起きたら、吉阪隆正先生に宜しくね。(図は、建物、集落の方向性に執着していた地井さん描く鎌倉・鶴が岡八幡と海)

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7 コメント

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Unknown (先生の弟子)
2006-07-13 23:36:01
どうもはじめまして、私は広島国際大学の学生で地井先生の弟子の山本です。本当に先生がなくなられたのは残念です。
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merci! (ichiro)
2006-07-14 05:24:29
コメント有難う。どうやって、この記事にたどり着きましたか。「地井昭夫」でブログ検索したのですか。
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Unknown (先生の弟子)
2006-07-18 01:10:18
はい先生の名前を入れてみました。再来月に私の学校で先生を偲ぶ会をおこなう予定で、先生の資料などを集めている最中にこのブログを読ませていただきました。
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8 月の何時ですか (ichiro)
2006-07-18 05:37:27
「偲ぶ会」は、何時、何処で開かれますか。もし広島国際大学以外からでも行ってよいなら、日時により参加したいと思います。連絡は、ichiro@cc.nara-wu.ac.jp
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残念でなりません (高橋滋彦)
2006-09-14 14:46:09
地井先生の近況を知ろうと、検索したところ、このブログにたどりつきました。私は広島工大で先生の教えを受けたものです。

先生にご報告できる仕事がやっとでき始めたかなと思った矢先、残念でなりません。

この場をお借りして、こころより、追悼の意を表したいと思います。



地井先生、私は発見的方法を続けていますし、これからも、一生継続します。地域を計画することにも関わり続けます。

地井先生、やすらかに。
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merci! (ichiro)
2006-09-14 16:16:20
そうでしたか。30年ぶりというと、もう50歳半ばですね。今後ともがんばってください。
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ありがとうございます (高橋滋彦)
2006-09-20 11:38:20
コメントありがとうございます。

ところで、私、まだ40代です。
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