西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

住戸選択のトレードオフ

2006-06-26 | 住まい・建築と庭
戸建てで、道路の端か、中に入ったところか。:道路の端で四つ辻になっている敷地は、一寸した商売をするには向いている。大体、端に造られる公園、集会所、ゴミ置き場等には一番近く便利だが、「迷惑」にも近い。端は風通しが一番良いが、台風の時は一番困る。
集合住宅で、地上階か最上階か中間階か。左右の端か真ん中か。:地上階は階段上がらず楽、地面を一番いじれる。が、外から中を見られやすく泥棒も入りやすい。最上階は見晴らし良く風通しも良いが、上がり降りに苦労し、太陽日射を屋根に受けて暑い。中間階は、ほどほどだが上下に挟まれてプライバシイは低い。
左右の端は、熱の逃げが多く光熱費が相対的にかさむ、真ん中は左右、上下から壁・床を通じて熱の流入がありえ、光熱費は安い。
さて、皆さん、どうしますか。

日本国「公式高齢者」になった感想

2006-06-26 | 生活描写と読書・観劇等の文化
本日、小生は無事に満65歳に到達した。いわば日本国の「公式高齢者」に今日から仲間入りだ。今日のことは、洒落では「露天風呂の日(6.26の日、これは実際にある)」、少し教養をひけらかすと「モーツアルト作曲の曲目を整理したケッヘル番号最後(626)の日」と言っている。それは「レクイエム」である。
とにかく、今はなき祖父母と両親の庇護や、日ごろ家族や友人達に陽に陰に支えていただいたお蔭と深く感謝したい。年金は基礎年金として国民年金が出ることになる。今後やりたいことは色々あるが、半顧半望(はんこはんぼう)でスロー・アンド・ステディで進みたい。JRの「ジパング倶楽部」にも入って「安い」旅行もしたい。今後とも宜しくお願いします。

共感の構造

2006-06-26 | 色々な仮説や疑問
ブログ、mixi、ホームページ上で様々な情報が飛び交っている。それらを読んだりして共感するとは、どういうことだろうか。共感のベースには同じ空間、同じ時間を過ごしているということがある。その空間や時間についてスケール感覚は皆違っているのではないか。今、仮に「町づくり」についてWeb上で議論しているとしよう。当然、読む人は具体的に例えば自分の住んでいる町、住んだことのある町、内外で行ったことのある町、専門家なら行って調べたことのある町などを思い浮かべながら議論に参加したり、読んだりするだろう。それで、若干「ベース」がずれていても許容範囲で共感の感情が生まれる場合もあるが、心底「本当だなあ」と思うためには、やはり最終的にはリアルな「町」を共有する以外にないのかもしれない。しかし、「都市、農村交流の必要性」などは農村経験のない都市住民にも是非、理解・共感して貰いたいところだが・・。放っておくと「我々から多くの税金を取って農村に回している」という感情が都市住民に起こりかねないのである。
まあ他に「岡目八目」ということもあるけれど・・。昔、西山先生から「住んでいる人より、旅行者がポイントが分かることがある。住んでいる人は当たり前と思っていることでも旅行者には新鮮に感じられることもあるからだ・・」と伺ったことがある。

ブログ1周年、mixi元年

2006-06-25 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
今日は、このブログをはじめて満1年である。1573件目のコンテンツである。カテゴリーを20作ってあるが、当然ばらつきがある。ブログを長続きさせるコツは、日記メモと考え、話題が思い浮かばなかったらカテゴリー順に一寸覗く。それで「つなぎ話題」はすぐ見つかる。時事問題に引っ掛けて「思い」を書くのも良い。最近はワールドカップサッカーだ。「ジーコ監督がじーこじーこ頑張ったが駄目、これで惜しまれて辞める。次の監督は、そのオシム氏のようだ。どうなりますやら、又これから4年間ああだこうだと楽しめる・・」と言った具合に。おかげで本体の日記(これはプライベートに書く。)が少しやせ細っている。
ブログも1年経ったなあ、と思っていたら私のブログの愛読者のお一人のFUTANさんが「mixi」なるものを始めないか、と仲間に入れてくれた。まあ梅田望夫著『ウェブ進化論ー本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)を読むと、凄い将来も予感される。まあ知的貴族は「そんなことする時間ないよ」とタッチしなくても構わないかも・・、だが大量の知恵を濃縮する方策の進歩につれ安閑としておられないのでは・・、私も専門的関心のある「コミュニティ」を立ち上げた。正にリアルな現実に目の前にあるコミュニティとWeb上での「コミュニティ」の相互貫入が面白そうだと思う。現在の私が立ち上げたコミュニティ:郊外戸建て住宅・住宅地、匂い付けの事例、西山卯三等。既存で入ったもの:町づくり、けいはんな市、奈良女、万葉集等。連絡していただけばメールで「招待状」送りますよ。このmixiとblogの役割分担を考える要もある。次の1年の課題である。

安藤元夫さんを偲ぶ会

2006-06-25 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
昨日、大阪の梅田(駅北)で「安藤元夫さんを偲ぶ会」があり多くの人が参加した。大学時代からの知り合い、近畿大学の関係者、阪神・淡路大震災調査研究の関係者等だ。近畿大学で建築学科教授(都市計画)だった安藤元夫さんは、4月27日に62歳で亡くなった、胃がんだった。(6月28日ブログ等参照)その安藤元夫さんを偲ぼうというわけだ。私は、前にも一寸書いたが、私が助手で彼が院生(博士課程)の時に、彼の友人の田中 明君が「失踪」した。その時に、安藤君は京大建築学科の事務室に陣取って、仲間の院生達を指揮して全国を「捜査」し、田中君が推理小説で松本清張ファンと知っていたので、松本清張本人に電話をかけさせていた・・と一つのテーブルで話した。それを横で聞いていたS.君が「その電話をしたのは僕です」と言った。35年ぶりに「そうだったのか」と分かった。全体として当時についての私の記憶も大体あっているな、とも思った。
安藤元夫君の粘っこく徹底する性格をものがっているエピソードと思う。
奥さんも最後に挨拶されていた。

NPO法人「西山卯三記念すまい・まちづくり文庫」総会

2006-06-24 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
本日、第7回NPO法人「西山卯三記念すまい・まちづくり文庫」総会が開かれた。場所は、京都府木津町の積水ハウス総合住宅研究所の会議室だ。第7回と言うのだから2000年に第1回が開かれたことになる。理事の卯三先生の長男の西山勝夫さん(滋賀医科大学教授)によると今年は西山卯三先生の13回忌、西山卯三先生の前の奥さんが亡くなり同時に勝夫さんの子供が高層住宅から転落して亡くなって33回忌だったと言う。文庫からは参加できなかった。西山先生は「タンポポ」が好きだったかもしれないので司馬遼太郎の「菜の花忌」のように亡くなられた4月2日を「タンポポ忌」としても良いかもしれない。「地のはてに 散りても咲けよ タンポポの花」とは、西山先生が京大退官にあたり記念に我々にいただいた色紙であるからだ。
総会には三輪泰司さん(アルパック会長)、住田昌二さん(大阪市大名誉教授)、三宅 醇さん(豊橋技術科学大学名誉教授)等の先輩も来ておられた。理事長だった安藤元夫君(近畿大学教授)が亡くなったので、新理事長に塩崎賢明君(神戸大学教授)がなることになった。副理事長は広原盛明さん(龍谷大教授)、海道清信さん(名城大教授)、中嶋明子さん(和洋女子大教授)で、私は平理事の一人となった。理事・運営委員長は松本 滋君(兵庫県立大教授)だ。今後のあり方は塩崎原案に基づき8月から議論することになった。

サッカー本流日本へ

2006-06-24 | 色々な仮説や疑問
またまたサッカーのこと、今日の『朝日』一面に中小路徹記者が「・・日本はこれまで、個人能力の劣勢を、組織力を研ぎ澄ませることでカバーしようとしてきた。現実的な策ではあったが、個人能力の不足と正面から向き合わない、逃げでもあった。戦うのは選手なのだ、という強いメッセージを出し続けたジーコ監督の信頼に、チーム全体が応えなかった面もある。・・懸念されるのは、この4年間が否定されてしまうことだ。組織と個人能力は対立軸ではなく両方備えてこそ、強いチームになる。やっぱり個人能力重視はだめだと、組織頼みに針を戻すようでは、日本サッカーは退行するだけだろう。」と書いている。正論である。個人能力を上げるにはまず素材、体力(特にヘディングのことも考え身長や運動能力)の優れた選手の養成、基礎練習に個人の工夫練習、ヨーロッパの選手で後ろに目がついているのか、と思わせるヒールでのバックパスをゴール前で見たが、あれなどは個人のセンスだろう。普通の練習では身につかない。それに、とにかくサッカーでは点を取らないと勝てないから攻撃第一なのだ。どうゴールに近づいてシュートするのか、近づけなかったらミドルシュートをどう打つのか、シュートを攻撃のアリバイのように打つのではなく、打つ限りは「枠」に入れる、それもキーパーのいない方を正確に咄嗟に、時には弱く狙って打つことが出来ることを徹底的に練習すべきだろう。
攻撃が上手くいけばディフェンスも楽になり上がれることもある。その意味で攻撃でも相手から球を奪う当たりが大事だ。今回の日本は、攻撃が上手くいかないので防御に圧力がかかり最後にばてばてになって穴が出来てしまう。オーストラリア戦の最後、ブラジル戦の後半は正にそれだったのだ。
再論するが、個人技から組織戦のように単純に変える、そのために高い金を払って安易にヨーロッパから監督を招くのではなく、これでトルシエ、ジーコと両方を経験したのだから、それらを踏まえて日本お得意の外来技術を自家薬籠(じかやくろう)とする日本型(本流日本)を築いていく時代になりつつあるのではないだろうか。

残念「テーハーミング」

2006-06-24 | 時論、雑感
またサッカーの話題だが、今朝早起きしてテレビを見たら、テーハーミング(大韓民国)がスイスに2点入れられて負け、もう一方でフランスがトーゴに勝ったので、このG組はスイスとフランスのヨーロッパ勢が決勝トーナメントに進むことになった。前回は、テーハーミング旋風を起こしたが、今回は日本とともに予選どまりとなった。残念だが仕方がない。次回の4年後、南アフリカ大会で日韓ともにベスト16になってほしい。
決勝トーナメントでは、全体として、やはりヨーロッパ勢(ドイツ、フランス、イングランド、オランダ、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、イタリア、スイス、ウクライナ)が優勢かな。ブラジル、アルゼンチンも見逃せない。アフリカのガーナはどうかな。メキシコ、オーストラリア、エクアドルもあなどれない。決勝トーナメントは全試合面白い。ドイツ対ブラジル、アルゼンチン対イングランドなどの決勝戦を想像するだけでわくわくする。

亜流ブラジルから本流日本へ転換すべし

2006-06-23 | 時論、雑感
サッカーのことだが、日本のZICO監督は周知のようにブラジル出身の名選手だった。日本に来ても鹿島アントラーズで38歳で現役復帰し一生懸命プレーした。
だが、彼はフランス出身のトルシエ監督の後、4年前に日本チーム監督となった時、トルシエ流のヨーロッパ型組織サッカーからブラジル型個人技重視サッカーに転換させた。で、今回のブラジル戦だが、ブラジルこそ個人技重視サッカーの本家であり、そこに亜流ブラジルの日本が勝てるわけがない。
で、これでZICO監督は辞める。もう次はドイツのクリスマン監督を引っ張ろうかとの話が出ているようだ。又ヨーロッパ流の組織サッカーに転換という訳かもしれないが、とにかく外国依存は情けない。日本として方針を決め日本型(本流日本)を追求していくべきだろう。岡田監督の再登場はどうだろうか。
諸賢のご意見をお聞きしたい。

イマジン 自分訳

2006-06-23 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
新井 満さんからお聞きしたが、8月頃に新井 満自由訳の『イマジン』が発売になるようだ。『千の風になって』『自由訳 般若心経』を読んできたものとして『イマジン』にも期待したい。又何よりオノ・ヨーコとの対談にも関心がある。さて、それに先立ち、頭の体操で一寸「自分訳」を試みてみたい。
先ず原詩:Imagine there's no Heaven    it's easy if you try
No Hell below us         Above us only sky
Imagine all the people      Living for today
Imagine there's no countries   It isn't hard to do
Nothing to kill or die for    And no religion too
Imagine all the people      Living life in peace
You may say I'm a dreamer     But I'm not the only one
I hope someday you'll join us   And the world will live as one
imagine no possessions       I wonder if you can
No need for greed or hunger    A brotherhood of man
Imagine all the people      Sharing all the world
You may say I'm a dreamer     But I'm not the only one
I hope someday you'll join us   And the world will be as one

天国なんてないんだと想像してごらん そうすることは簡単なことです
私達の足下には地獄はなく 私達の上には空があるだけなのです
世界中の人々が今日のために生きているのだと想像してごらん
国なんてないんだと想像してごらん そうすることは難しいことじゃない
そのために殺したり死んだりすることもない そのための宗教も要らないのです
世界中の人々が平和に生活をおくっていると想像してごらん
あなた達は私を夢見る人と言うかもしれない でもそれは私だけではないのです
いつかあなた達が私達に加わって世界は一つになって生きるでしょう
財産なんてないんだと想像してごらん あなたにそれが出来るかどうかと思うけど
もう貪欲さやひもじさを持つ必要はないんだよ 私達の兄弟よ
世界中の人々が全ての世界を共に支えていると想像してごらん
あなた達は私を夢見る人と言うかもしれない でもそれは私だけではないのです
いつかあなた達が私達に加わって世界は一つになるでしょう(西村一朗訳)

まあ「イマジン」の「ヒマジン」(?!)による自分訳である。
新井さんなら「私達の上には空があるだけなのです」のところを「私達の上には風が吹き渡っているだけなのです」とされるかも、とふと思った。

終わってみればブラジル圧勝

2006-06-23 | 時論、雑感
数日前に予想しておいたが、やはりブラジルは強い。玉田が先制したが、皮肉にもこれでブラジルが本気となり顔つきも変わったようだ。終わってみれば4-1でブラジル圧勝、最後にロナウドにもミドルシュートを決められ調子に乗せた。こうなったら歴史的に移民を通じても日本との関係が深く、ジーコ監督の祖国でもあるブラジルに優勝して欲しいものだ。日本もこの経験を糧に新たな歴史を築いて欲しい。
明日、隣の「テーハーミング!」も勝って、予選突破、アジアの気を吐いて欲しい。

カラスのゴミ場あさり

2006-06-22 | 地域居住学
今日は木曜日、ゴミの日だ。朝起きてゴミ袋や箱を出した。で、ゴミ置き場にカラスがいて、ゴミをつついているのが目撃された。一応、出されたゴミにはネットがかけられているのだが、カラスは、その下に口ばしを突っ込んで食べれそうなものを引きずりだしているのだ。私は「し!し!」と追ってからゴミをネットの下にいれ、カラスの口ばしが入らないようにした。
家内に自動車で高の原に送ってもらってから、帰ったらカラスは仲間を連れてきて更にゴミ置き場を荒らしていたようだ。まあ人間とカラスの知恵比べ、我慢比べが当分続くことになるだろう。これも居住地管理の一つの問題である。

「コミュニティ」の分節化と活性化

2006-06-22 | 色々な仮説や疑問
SNSのmixiに参加して4日が経った。この機能に、知り合いとリンクを張ることと、あるグループ、これを「コミュニティ」と言っているのだが、そこに参加すること、これらがあることが単なるホームページと違うところだ。
で、私は紹介してくれた「FUTAN」さんと彼が立ち上げた町づくり関係の「コミュニティ」と先ずリンクを張った。その後、考えて見ると、まず第一に、歴史的に過ごした組織(私の場合は皆学校だが)に「コミュニティ」があるかどうかチェックして、あれば入ってみること、第二に、地理的に居たところ、調査や観光で行った所に関しても「コミュニティ」があるかどうかチェックしてみることが大切と思った。後者は「イギリス」を除いて未だやっていない。いずれやりたい。前者では、金沢の小学校、中学校そして勤めた豊田高専、奈良女は見つけて「コミュニティ」に入って「挨拶」しておいた。
ところで、これらの「コミュニティ」のサイズを見てみると、数人から数十人はまあ実際の「向こう三軒両隣」やそのいくつかの集まりなので認識も出来、情報やりとりで活性化も出来るだろうと思うが、数百、数千の「コミュニティ」になるとどうなのか、頭を抱えてしまう。組織して放っておいてメンバーはドンドン増えるが、内実はどうなのか、工夫する要があろう。多分、組織の「コミュニティ」の責任者が、一定のグループ分け、分節化を提起し、絶えず全体にも問題を提起してコメントを求め、活性化しつつ一定の「結論」も得ながら進んでいくべきではないか、と仮説的に思っている今日この頃ですが、皆様如何でしょうか。

夏至、梅雨、今日この頃

2006-06-22 | 時論、雑感
昨日は夏至だった。今日は雨が本格的に降り、梅雨だなあと思う。「つなね」の書斎の窓からから中庭を見ると雨が緑を洗って目に気持ちが良い。
mixiも一寸眺めて金沢時代の小学校、中学校のコミュニティがあったので入った。どうも出身大学(京大建築学科)等のコミュニティはないようだ。関連で「武田五一」というのがあったので入ってみた。まあ、ないものは自分で作るしかないと思うが、どうしようかな。「ふじた」さんの記事を読んで『東洋経済』を駅売店で買ってざっと読んだ。WEB2.0という言葉遣いが初めて分った。去年の今頃にブログを始めて、1年経ってSNS(Social Network System)の「mixi」にぶつかったのだ。ブログとmixiをどう使い分けるか、新たな問題であろう。試行錯誤で進みたい。乞う応援!

新井 満著『自由訳 般若心経』を読む

2006-06-22 | 生活描写と読書・観劇等の文化
新井 満さんに会ったものだから、『千の風になって』に続いて『自由訳 般若心経』(朝日新聞刊)を読んでしまった。mixiにもレビューしたが、こちらにも転載しておきたい。(一部編集増補)
「電通」に勤め、ノルウエーのリレハンメルで次の長野冬季オリンピックのデモンストレーション総合プロデューサーを務めていた新井 満は直前にお母さんの死に目にあってデモンストレーションに参加せず、新潟のお母さんの元に帰った事が『般若心経』を訳そうとなったのだ。お母さんの遺品にそれがあったためだ。リレハンメルでも「風」がキーワード、『千の風になって』でもキーワードは「風」だ。『般若心経』の「色即是空 空即是色」の最初の「空」とは「全てが風になる」とも解釈できる。昔、生命科学者の柳澤桂子さんの「般若心経」の話をテレビできいたこともある。(私のブログ06年3月21日参照)しかし、又、空は色になるのだ。万物流転である。 最後の「ぎゃあてい ぎゃあてい・・」というのは赤ん坊が生まれて泣く「おぎゃ おぎゃ・・」である、との新井解釈も面白い。
瞬点の我が宇宙を想う時心頭の広々とする 市路
いい本だった。