西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

私の誕生パーティ関連

2006-06-18 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
私はこの6月26日で満65歳になる、晴れて「公式高齢者」、「年金満額世代」、そしてジパング倶楽部(JRの高齢者利用クラブ)に仲間入りだ。日程の都合もあり、今日6月18日に1週間ほど早い「誕生パーティ」をしてもらった。奈良女子大の最近の卒業生、修了生8人が「つなね」集会所に集まってくれたのだ。「つなね」の住人で奈良女子大に勤めていた田中智子先生(現・兵庫県立大学助教授)もデザート持参で覗いてくれた。現・奈良女子大教授の瀬渡章子先生もちらっと覗かれたが、大学院の仕事で出かけられた。住人のO.さんにも参加して貰った。聞くと、O.さんは大学一期校二期校選択の最後の世代、1978年に一期校に奈良女子大、二期校に大阪外大を選び、結局、大阪外大朝鮮語学科にすすまれたようだ。皆に近況も聞けて良かった。私も名刺を配り近況を話した。昨日の新井 満さんの『千の風になって』講演についても詩を朗読して話した。皆からのプレゼントは何と「サッカー・ワールドカップ」に日本代表が着る公式ユニフォーム(上)だった。早速着てみたが今晩の対クロアチア戦をこれで応援しないといけないだろう。ところで、私の誕生日は何時か知っているか、と聞くと何と田中智子先生が「露天風呂の日、6.26でしょう」と言う、その通りで覚え方もそれでよい。しかし、もう少しアカデミックな覚え方があるよ、と言って、モーツアルト作曲の整理をしたケッヘルに因んで言うと、最終曲がケッヘル626番でレクイエムである、と話した。
他にこの夏にフランスにル・コルビュジェ作品を訪ねての旅をしよう、となった。日程調整、アポイント等、結構難しい問題が含まれているが、何とかクリアして進みたい。

吊りズボンと腹巻と 祖母とお袋との思い出

2006-06-18 | 金沢の思い出
昨日、新井 満さんと喋っていて「自分は子供の頃から体が弱く、お袋に心配かけた」と言われた。そう言えば少し線が細いかな、という感じだ。それにスタイルに興味があったので色々観察したが、吊りズボンだった。腹の辺りが楽そうだった。ふと私も金沢の少年時代を思い出した。おばあちゃん子だった私は祖母から体の注意を色々言われていたが、一つにはズボンにバンド(ベルト)をしたのは高校時代で、それまで「吊りズボン」だった。腹を締め付けないためである。付随して思い出したのは、腹巻を大人になるまでしていたのではないか。これも祖母が「腹を冷やしてはいけない」と言っていたからである。
新井さんの母親が新潟で産婆をして新井さん等を育てたことを聞いて、私はお袋が金沢で洋裁学校を経営して我々兄弟(私と妹)を育てたのも思い出した。

新井 満さんとの会話あれこれ等

2006-06-18 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
『千の風になって』は前に買って読んでいたので昨日は新井さん歌のCDを買った。帯に「故人の人生をオマージュし、冥福を祈る、作家・新井満の絶唱。」とあるが、「実は、これは私自身が作ったコピー」と新井さん。私は前に買った本の扉に記念にサインしてもらったが「再生」という言葉を書いてもらった。山岡理事長が、京都での「付き合いの仕方や京言葉」の本を出したい、と言うと即座に「題名」案を言われた。新井さんによると、本は題名、ネーミングが半分(勝負)、後半分は表紙デザイン、中味は「付録」とのことだ、中々うがった言い方だ。
ある一人が新井さんのトレードマークの帽子を話題にした。新井さんは「てっぺんと足元が重要、帽子と靴は気にしている」と言う。そういえば、私は最前列で講演を聞いていたので歩き回る新井さんの靴の裏まで見えた。「一本真ん中に太い溝がありましたね」と言うと「へーそんなところまで見ているのですか」と言われた。「パフォーマンス評論家」としては、見ているのである。
講演では最近の新井さんの全ての関連作品を筋に合わせて巧みにPRした。さすが「電通」出身と思った。

新井 満さんの講演会に参加-4新井さんとの会食を楽しむ

2006-06-18 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
新井 満さんの講演の後、平安女学院の山岡景一郎理事長のセッティングで会食があった。新井夫妻を囲んで夫妻も含め10人が談笑したが、色々と新井さんのお話は勉強になった。例えば、講演は演者と聴衆の共同作業、自分は聴衆の一人二人の反応に注目して話を進める。今日は真ん前の最前列におられたヴァイオリニストの佐藤陽子さん(同じく客員教授)の反応を見ながら進めた・・。少し食事が進んだところで新井さんが「自分も含め、ショートスピーチをしたらどうか」と提案され、順に「生い立ち、平女にきた事情や今日の講演で感じたことや思っていること等」を話した。新井さんの奥さんも話された。それで今日の講演の最後に「千の風になって」の詩の話だけでなく、いわば「アンコール講演」として、「私はこの町が好きだ、私は好きなあなたとこの町で過ごしたい、おばあちゃんとなっておじいちゃんのあなたと歩きたい、おじいちゃんとなっておばあちゃんのあなたと歩きたい・・」と言った、愛して長生きして一緒にこの町を歩みたい、といった趣旨の新井さんの「詩」の朗読を配したのは、奥さんの昨夜の打ち合わせでのアイデアだったことが分かった。新井さんによると、「千の風になって」だけだと、感動はして貰え、涙も誘うが、「お帰り」は気が重い感じの足取りになる。この話を最後におけば、少し上向きの軽い心で帰られる・・。さすが「電通」での総合プロデューサー経験者だと思った。
最後の新井 満さんのお話も「とれとれ」で興味があった。最近、新井さんは、ニューヨークの「ダコタハウス」に行った、と言われたがピンと来なかった。セントラルパークに接して建つこのコンドミニアム(マンション)は大変古く有名なのだとマンション専門家のKさんの指摘でわかった。新井さんは、このマンションに住むオノ・ヨーコさんと対談のために行かれたのだ。このマンションの玄関先でジョン・レノンが1980年12月8日に凶弾に倒れた。そのジョン・レノンの代表作品一つあげるとすれば、やはり「イマジン」になると言う。その後、平和と言えば「イマジン」となったのだ。新井さんが関わった長野オリンピックでは、開幕での音楽はベートーベン作曲、シラー詩の「歓喜の歌」となったが、最後までジョン・レノンの「イマジン」と争ったとのこと、今なら「イマジン」になっているだろう、と言う。この冬のトリノオリンピックの開会式にオノ・ヨーコさんが出てきて「Imagine Peace!」と叫んだのは記憶に新しい。(私も06年2月12日ブログで紹介)新井さんは、この「イマジン」の自由訳をするためにもオノ・ヨーコさんと話をしに行かれたのだ。この「イマジン」の詩(2月12日ブログ参照)は、ジョン・レノンも言っているが、オノ・ヨーコの原詩に基づくとのことだ。新井さんは、オノ・ヨーコ邸の「憧れの」ホワイト・ルームにも通された、そこはシャガールをはじめ20世紀の美術館だった、勿論ジョン・レノンが愛用のホワイト・ピアノもあった、とのこと。新井さんの「イマジン」自由訳とオノ・ヨーコ対談集は8月頃に発売と言う。待たれる。
他に、岩崎ちひろ絵の『千の風になって』も作られるようだ。これも待たれる。

新井 満さんの講演会に参加-3講演を楽しむ(続き)

2006-06-18 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
「千の風になって」が生まれたのは、新井さんの新潟の幼馴染の友人・弁護士の川上 耕さんの奥さんの桂子さんが乳癌で49歳の命を閉じた後、1年後に送られてきた追悼文集にあった山添明子さん紹介の「1000の風」という“作者不詳の西洋の詩”からだった。で、詳しくは『千の風になって』(講談社)の「あとがき」に代える十の断章を見てほしい。今度の講演では、そこに書かれていない後日談が聞いている聴衆の涙を誘ったのではないか。「千の風になって」のCDが葬儀屋や住職に売れていると話は書いた。それが、何とおめでたい結婚式にも「流された」というのだ。その話はこうだ。耕・桂子夫妻には3人の子供がいたが次女の川上朋子さんは桂子さんが亡くなった頃は17歳の高校生だったが、7年後に24歳で結婚することになった。結婚式の前の日に新井さんから川上家に贈られた「千の風になって」の私家版CDを聞いた朋子さんは自分の結婚式披露宴で流す音楽に急遽これを選んだのだと言う。そして、披露宴の最後に「お父さん、お母さん」と呼びかける「感謝の言葉」を述べたが、それを新井 満さんは取材して、この講演会で「詩」のように朗読された。朋子さんは「私はお母さんの生き方が好きだ。お母さんは今も風となって、光や雪や鳥や星となって自分を見守っていると思う。お母さん、自分を生んでくれて本当にありがとう。私はお父さんお母さんの子で本当によかった。お父さんお母さん本当にありがとう」といった風に述べたようだ。新井さんはこれを一言一言ゆっくりと朗読した。私は「観察者」として最前列から新井さんのパフォーマンスを比較的冷静に眺めていたが、背後の500人も入った会場にすすり泣きが広がるのを感じたのである。

新井 満さんの講演会に参加-2講演を楽しむ

2006-06-18 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
『千の風になって』の本を読んでいたので話の内容は予想できた。しかし、メリハリがきいていた。新潟の母親が産婆さんで亡くなる91歳まで3千人以上の赤ん坊を取り上げたことの話を「命のバトンタッチ」の導入部にしつつ、この自由訳詩が出来た事情、さらにCDになって売り出された事情、そしてこの本やCDがどこでよく売れているかの話で、全国の葬儀屋とかお寺とかだ、と言って「笑い」を取りながら、「千の風になって」の朗読、歌唱と続く。このパターンを何故取るかを、後で一緒に夕食をとった時に新井さん自身からお聞きして「そうだな」と納得した。歌唱だけだとメロディは残るが詩が残りにくい。詩だけだと印象が弱い。詩を最初に提示しつつ、歌唱で追いかける。これだとはっきりと印象に残る、とのことだ。
確かに講義でも、だらだら説明していたのでは印象に残りにくいかもしれない。そこで、私は、昔「コミュニティ計画論」の講義で「とんとんトンカラリンの隣組」「バス通り裏」等の歌を交えたこともあったことを思い出した。