事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「壬生義士伝」(松竹) 滝田洋二郎監督 中井貴一主演

2008-11-22 | 邦画

Mibugishiden 実は原作を一度ほっぽり出している。吝嗇きわまりない、プライドをかなぐり捨てた新選組隊士という設定がちょっとつらくなったから。ウチの娘は、なんらかの“ふりをする”登場人物が出てくると、見ているのが耐えられないのか必死で耳を押さえて目をふさいだりしているが、まあ、それと似た対応か。親子です。

 しかし、予想されたこととはいえ、主人公の吉村貫一郎が真のラストサムライぶりを見せるラストの大芝居のあたり、涙が止まらなくなる。あざといと言えばこれほどあざとい展開もない。「鉄道員(ぽっぽや)」や「ラブレター」系の浅田次郎らしさ全開だ。クールな脇役が熱血主人公をかばい立てするあたりは、「熱中時代」のイクミ(太川陽介)が泣かせてくれた(「一生懸命のどこが悪いんだよ!」)のとおんなじ定石かな。

冷静になれば、主人公のとった行動は無益の極地。少なくとも、息子には新時代の日本を背負う男になれと命じてもよかったはずなのに……しかし南部弁の味わいと、滝田洋二郎の達者な演出のおかげで観ている間はそんなことも気づかせない。この監督、「木村家の人びと」や「コミック雑誌なんかいらない!」に顕著なように、どこか醒めた感触があってファンなのだ。まさかこんな大作請負人になるとは思わなかったけれど。

東宝が佐田啓二の娘の中井貴恵をスカウトしたのは、むしろ弟の貴一が目当てという噂がデビュー当時流れていた。「なんであんな木偶の坊を?」と不思議に思ったのも今は昔、ジュニア俳優対決で、あの佐藤浩市を向こうに回し、中井はみごとな“主役の芝居”を見せる。成長したんだなあ。

どうやらNHKの「新選組!」は、この映画のキャスティングへの返歌になっている。微妙なダブりがあったり、解釈として興味深いのだ。沖田総司役だった堺雅人を山南敬助に起用したりね。こんなことも含めて、新選組とはドラマにとっておいしいネタなのがわかる。オールスターキャストにぴったり。

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「スーパーサイズ・ミー」モーガン・スパーロック監督・出演

2008-11-22 | 事務職員部報

Super_size_me_verdvd  一ヶ月間、マクドナルドのメニューを食べ続ける(マックアタック)と人間はどうなるか。スパーロックが自らの身をけずって、というか膨らませて検証したドキュメンタリー。体重増加は予想どおりにしろ、鬱状態、性欲減退、そして何らかの中毒症状まで……マイケル・ムーアの作品と同種の痛快さ。マクドナルドを糾弾するだけでなく、アメリカの給食事情の貧困さも学習できるお得な作品。日米ともに大ヒットした。

 ただ、やっぱりムーアと同様に「その撮り方は卑怯だろ」といいたくなる場面も多い。ビッグマックの食べ過ぎで嘔吐するスパーロックの症状が、はたして一般人にも通用するかは微妙なところだと思う。あ、なんかマック側の発想になってないか、とお気づきのあなたはするどい。わたし、学生時代はマクドナルドのバイトで食いつないでいたのです(笑)。でも腹が減り放題だったのに、あそこはバイトに商品を流してくれないんだよな。あの頃なら、一ヶ月ぐらいのマックアタックは軽かったかも。

07年9月11日付事務職員部報「新財務システム⑤」より

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「天空の蜂」東野圭吾著 講談社文庫

2008-11-22 | 事務職員部報

Tenkunohachi 原子力発電所の高速増殖炉の上でヘリコプターをホバリングさせ、「全国の原発を即刻使用不能にしろ」という要求を国が飲まなければヘリを墜落させると脅迫するテロリスト……中越沖地震における柏崎原発の右往左往を考えると、まことにタイムリーな選択。

資源をもたない日本において、安全保障の側面から原発を推進する意見にはうなずける点もあります。しかし同様に、安全保障の面から原発がひたすらハイリスクであることがきちんと説明されているのでしょうか。北朝鮮の脅威をあおるのと同じ人が、日本海側に原発を稼働させることになんの疑問ももたない不思議。わたしたちは、いつの間に電力会社に命をあずけることを承知したのでしょう。

07年9月4日付事務職員部報「新財務システム④」より

……原発に対して懐疑的な気持ちでいるのは今も変わらない。食品の偽造が相次いでいるけれど、原発の隠蔽体質はケタが違う。理系作家である東野圭吾が、リスクの多寡という一点で原発を告発するこの小説は、冷静なだけに説得力あり。

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追悼の達人 PART4 島崎藤村

2008-11-22 | うんちく・小ネタ

Toson01 「啄木、安吾」篇はこちら

 嵐山が唾棄しているのが島崎藤村。彼の藤村嫌いは徹底していて、「本の雑誌」でミステリを弁護士の観点から読み解く連載をもっている木村晋介に、藤村の「新生」を読み解かせて彼の非人間性を露わにさせたくらいなのだ。

芥川龍之介は、藤村の人も文学も嫌っていた。自費出版で儲ける藤村は、版元からも嫌われており、時代のおぞましい痣のような文学商人の一面があった。岩野泡鳴は、藤村を「思わせぶり」と酷評した。藤村には、マッチポンプのように自ら不幸の種をまいて、それを小説の仕掛けとして悩み、告白してみせる性格がある。
藤村が、姪の島崎こま子に手を出して、妊娠させたのは42歳のときである。こま子は藤村の次兄広助の次女で、藤村の家へ家事手伝いに来ていた。
藤村はフランスへ逃げるが、三年後に帰国して、またこま子との性の陥穽におちいる。それが原因で兄広助とは義絶したが、その懊悩と懺悔による罪の浄化を「新生」と題して朝日新聞に連載した。作家としてはしぶといが、人間としては批判されてもしかたがない。

……さ、最低の野郎である。自らの呪われた血への懊悩があったとしても、だ。やっぱり、生前のおこないをきちんとしていないと、後世でこんな総括をかまされてしまうんだなあ。自重あるべし。

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追悼の達人 PART3 石川啄木、坂口安吾

2008-11-22 | うんちく・小ネタ

Kawabata01  嵐山光三郎は追悼文をこうも表現する。

追悼文は、ナマの感情である。その場その瞬間の心情を、思い出すままに書きつづってしまう。まさか後世に、文献として残るとは思わない。だから本心が出る。日記にも似た要素はあるが、日記は残されるから本心を隠そうとする配慮が出る。追悼文が一番油断する。

 そんな追悼の真の達人が川端康成であると嵐山は主張する。彼は多くの文人を見送り、自らを「葬儀の名人」と自嘲するほどだったが、川端の弔辞は作品としても凄みがある。坂口安吾への“作品”はこうだ。

……文学者にとっては、一人の作家の葬式につらなり、弔辞をのべるのは、自らの幾分かを葬り、弔う思いをまぬがれない。親しい交わりがあるにしろ、ないにせよ、坂口氏を失ったことは、私たち自身のうちの、あるものを失ったことである……

短いが、もうひとつこれぞ名文という追悼文は北原白秋が石川啄木の死をつたえたもの。

「石川啄木氏が死なれた。私はわけもなく只氏を痛惜する。ただ黙って考えよう。赤い一杯の酒が、薄汚い死の手につかまれて、ただ一息に飲み干されて了ったのだ。氏もまた百年を刹那にちぢめた才人の一人であった」

嘘つきで、金にだらしなく、まったくの破綻者であった啄木も、こう追悼されればもって瞑すべきだろう。次回は島崎藤村篇。

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追悼の達人 PART2 若山牧水、鈴木三重吉

2008-11-22 | うんちく・小ネタ

Bokusui01 PART1「紅葉、八雲」はこちら

若山牧水

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」

この歌は牧水が26歳のときのもの。このとき牧水はアル中で療養中の身だった。
死ぬ三年前の九州めぐりの旅では
「51日の間、殆ど高低なく飲み続け、朝、三四合、昼、四五合、夜、一升以上というところであった。而してこの間、揮毫をしながら大きな器で傾けつつあるのである。また、別に宴会なるものがあった。一日平均二升五合に見積もり、この旅の間に一人して約一石三斗を飲んで来た」

一日平均二升五合ですよ。つまり一日あたり4.5リットル!きいてますか奥さん!芋焼酎 3合のわたしなどまだまだ及びも……及んでどうする。

腐臭がしそうなくらいの酒量。教科書にまで載った「白玉の~」が別の色彩をおびてくる。このくらいまでくれば立派なアル中だよね。わたくしなどまだまだです。ほんとです。

鈴木三重吉
葬式の客がほとんど帰ってしまったあと、八字髭の大男があらわれた。男は霊前に額ずいて静かに焼香し、縁側に坐って仏間をみつめていたが、突如大声をワアッと張りあげて、爆発するように泣いた。涙は八字髭を伝ってポタポタと畳に落ち続けた。内田百閒であった。

Miekichi01 ……鈴木三重吉は「赤い鳥」の主宰者。漱石門下の結束は強く、しかも有能な弟子を次々に輩出した。師匠の人徳というものだろうか。わたしは内田百閒のファンで、彼のとぼけた貧乏ぶりこそが文学者というものだと思う。かつて旺文社文庫から出ていた彼の作品群は、いまはどこから刊行されているのだろうか。

次回は「啄木、安吾」篇。

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