通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

旧大野陸軍病院供養塔

2015年09月15日 | 見て歩き
旧大野陸軍病院

水害死没者供養塔

枕崎台風






枕崎台風(まくらざきたいふう)は1945年(昭和20年)9月、

鹿児島県の枕崎に上陸したあと、

日本を縦断した台風。





この台風は、

室戸台風(むろとたいふう。1934年)、

伊勢湾台風(いせわんたいふう。1959年)と並ぶ

「昭和の三大台風」のひとつに数えられとる。





そのため被害も大きく、

死者2,473人、行方不明者1,283人、

そして負傷者2,452人。





広島県だけでも、

死者・行方不明者合わせて2,000人を超える被害があったそうじゃ。





広島では原爆投下から1か月後ということもあって、

原爆の被害に追い打ちをかけるものでもあったんじゃの。





その供養塔が、広島県西部の廿日市市(はつかいちし)

大野にあるというので行ってみた。







国道2号線の宮浜温泉口交差点を山側に入り、

(この看板が目印)







坂道を上って行くと洗心園があり、







その敷地内に供養塔がある。

(向かって右側)







水害死没者 供養塔
昭和二十年十二月八日建立







日本赤十字病院大野療養所に入院中の広島被爆者実態調査研究に来所中の京都大学真下俊一教授以下十一名と入院中の陸軍将兵並に被爆者同療養所の医師看護婦等百五十六名は昭和二十年九月十七日の大風水害のため死歿(死没)されましたこの霊を慰め供養のため之を建立するもの也

昭和四十二年九月十七日

施主 大野町 四田増五郎

仝(同) 育子






供養塔が建てられた昭和20年(1945年)12月といえば、

水害発生から2ヶ月半後、

そして、原爆投下・戦争が終って4ヶ月後のこと。





そんな戦後の混乱した時に、

この供養塔が建てられたんじゃ。





供養のためとはいえ、

なぜこんな時に…?





地元出身の大下准尉が村の石屋に頼んで、高さ一米半程の石碑で供養塔を作ってもらった。
食糧難の時代だったので、石屋は斯林院長と大下准尉が持ち寄った多少の米との物々交換でこの仕事に応じてくれた。
供養塔は、昭和二十年十二月八日に病院東側の海を見下ろす小高い丘の上に建てられた。

柳田邦男『空白の天気図』(文春文庫 2011年)






斯林(しばやし)院長、大下准尉(じゅんい)とも

旧大野陸軍病院の勤務で、

台風の被害に遭われた方の霊を慰めるために

手持ちの米と引き換えに供養棟を建てられたということじゃ。







廿日市市といえば、

世界遺産・厳島神社のある宮島がある。

大野からは、大野瀬戸を挟んで

すぐ目の前に宮島を望むことができるんじゃ。





↓枕崎台風については、こちら↓

「枕崎台風」広島県防災Web





訪問日:2015年9月13日




今日は、廿日市市大野にある旧大野陸軍病院 水害死没者供養塔について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿猴橋復元工事(その4)

2015年09月15日 | 広島の話題
猿猴橋復元工事

被爆70年事業

工事中








猿猴橋(えんこうばし)復元工事は、

広島市の被爆70年事業の一環として行わる、

南区にある猿猴橋を戦前の華麗な姿に復元するための工事じゃ。







橋を西側から見たところ。

看板が立ててあるので、

近くに寄ってみると…、







9月14日(月)~16日(水)まで

「全面通行止め」

とある。







橋を東側から見たところ。

橋の両側の欄干(らんかん)がすべて撤去されとった。

橋に残されたのは、親柱と、その脇にある柱。







親柱を後ろから見たところ。

欄干を撤去した後が痛々しいのう。







猿猴橋を手前に、左はエールエールA館(地上12階)。

右は広島駅前Bブロック東棟(地上10階)。

そして中央に高くそびえるのが、広島駅前Bブロック西棟。





西棟は、中四国で最も高い

タワーマンションや商業施設などを含む、

地下2階、地上52階(高さ約193メートル)の建物。





今、27~28階あたりを建設中じゃけぇ、

この建物が完成した時には、

今の高さの倍の高さになるんじゃのう。





↓猿猴橋復元工事については、こちら↓

「猿猴橋復元事業について」広島市ホームページ





↓猿猴橋については、こちら↓

猿猴橋復元の会





訪問日:2015年9月13日





今日は、猿猴橋で行われている復元工事について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿猴橋復元工事(その3)

2015年09月08日 | 広島の話題
猿猴橋復元工事

被爆70年事業

工事中








猿猴橋(えんこうばし)復元工事は、

広島市の被爆70年事業の一環として行わる、

南区にある猿猴橋を戦前の華麗な姿に復元するための工事じゃ。







橋を西側から見たところ。







川下側の欄干がすべて取り外され、







親柱の橋灯(きょうとう)も取り去られとった。

黄色のロープが、痛々しく感じられるのう。





↓猿猴橋復元工事については、こちら↓

「猿猴橋復元事業について」広島市ホームページ





↓猿猴橋については、こちら↓

猿猴橋復元の会





訪問日:2015年9月6日





今日は、猿猴橋で行われている復元工事について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廣島護国神社 被爆鳥居台座

2015年09月03日 | 広島の話題
廣島護国神社(旧広島護国神社)

被爆鳥居の台座

広島市青少年センター前








先日、広島市青少年センター前を通りかかったとき、

廣島護国神社の被爆鳥居台座を

久しぶりに見た。







原爆(昭.20.8.6.あさ.8:15)によって折れた
旧護国神社鳥居(北面)の脚部

昭和46年この公園内を南北に走る下水工事中現位置より北約20メートルのところで発見した、上記鳥居であることが確認されたのは佐々木禎一郎氏(市内元宇品写真家)の貴重なフィルムによる。即ち氏は被爆一ヶ月後からの「ひろしま」を数多く撮影しているがその中にこの鳥居に関したもの3枚があった。館内玄関に展示している。
尚、これが発掘・設置については清水建設の協力を得た。

昭和46年12月22日

広島市青少年センター

(説明板より)






廣島護国神社?

今は広島城跡にある広島護国神社は

以前、このあたり(現:旧広島市民球場)にあったんじゃの。





広島護国神社の歴史をたどってみると…。



1868年(明治元年)戊辰戦争(ぼしんせんそう)に従軍して戦死した広島藩士を祀る「水草神社」を二葉の里に造営したのが始まり。


1876年(明治8年)官祭招魂社、

1901年(明治34年)官祭広島招魂社と名前を変える。


1934年(昭和9年)社殿の老朽化に伴い、西練兵場の西端に移る。


1939年(昭和14年)廣島護国神社と名前を変える。


1945年(昭和20年)爆心地の北約370メートルの位置にあった廣島護国神社は、原爆により社殿すべてを焼失。


1956年(昭和31年)現在地(広島城跡)に再移転し、新社殿が造営される。





廣島護国神社には、鳥居が3つあったそうじゃ。

本殿の東側と北側にあった2つの鳥居と、

南側(原爆ドーム側)にあった鳥居の、全部で3つ。





東側の鳥居は西側に、

北側の鳥居は北側へと、

原子爆弾の爆風に沿うように倒れた。





南側の鳥居は爆心地に近く、ほぼ真上から爆風を受けたため倒れることがなかった。

この鳥居は現在、護国神社の東側(RCC側)、裏御門跡入り口に移設されとるそうじゃ。





北側にあった鳥居の西側の台座が、

今も残っているこの台座

ということじゃそうな。







広島市青少年センター玄関に掲示してある

故・佐々木雄一郎(ささき ゆういちろう)氏が撮影した

被爆1ヶ月後の鳥居の台座写真。







鳥居が根元から折れたのがよくわかる。














以前は、こんな感じで木に囲まれて

台座に近づくのが難しかったんじゃが…、

(この写真のみ撮影日:2010年10月30日)







今は周囲の木が伐採されて、

台座が見やすくなっとる。











↓広島護国神社については、こちら↓

広島護國神社





↓広島市青少年センターについては、こちら↓

広島市青少年センターホームページ





訪問日:2015年8月30日





今日は、広島市青少年センター前に残されている被爆鳥居の台座について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿猴橋復元工事(その2)

2015年09月01日 | 広島の話題
猿猴橋復元工事

被爆70年事業

工事中








猿猴橋(えんこうばし)復元工事は、

広島市の被爆70年事業の一環として行わる、

南区にある猿猴橋を戦前の華麗な姿に復元するための工事じゃ。







橋を西側から見たところ。







近くに寄って見ると、

川上側の欄干がすべて取り外され、

親柱の橋灯(きょうとう)も取り去られとった。





橋灯いうのは、

橋の親柱や欄干の上に付けれられた、

明かりのことじゃ。







川下側の欄干も一部、取り外してあった。







親柱をよう見てみると、ガムテープが張ってある。(写真右上)

これは橋をばらしたあと、

もう一度組み立てる時の目印のために張っとってんじゃろうの。





余談じゃが、この親柱には

「ゑ(=え)んこうは志(=し)」

と書いてある。





↓猿猴橋復元工事については、こちら↓

「猿猴橋復元事業について」広島市ホームページ





↓猿猴橋については、こちら↓

猿猴橋復元の会





訪問日:2015年8月30日





今日は、猿猴橋で行われている復元工事について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする