「ロックアーティストの吉川晃司が、40年前の今日、1984年2月1日にシングル「モニカ」でデビューされました」
「デビュー40周年、おめでとうございます」
「吉川は、デビュー当時から派手なパフォーマンスをされとったの」
「歌番組に出演して、歌の途中に足を垂直に蹴り上げたり、歌の終わりにバク転をしたりと、すごかったね」
「今日は、今はなき広島の情報誌『映画手帖(えいがてちょう)』の1984年8月号に掲載された、「吉川晃司 マル秘アルバム」という記事から、子ども時代の吉川晃司を紹介していこう」
(『映画手帖 1984年8月号』広島映画手帖社)
「今日は、子ども時代の吉川晃司についての話でがんす」
「吉川は、1965(昭和40)年8月18日に、県立広島病院(通称:県病院)で生まれちゃったんじゃね」
「県病院って、わしが生まれたのと同じ病院じゃんか」
「生まれた時の身長が58センチで、体重が2650グラム」
「で、これが生まれて半年ころの吉川」
「目のあたりに面影があるね」
吉川晃司君のお宅に写真を借りに行きました。生後間もない頃の”オールヌード”もあったのですが…。
(あとがきより)
「こちらは2歳ころの吉川」
「まんま、吉川晃司じゃね」
「竹原へオリエンテーリングに行ったときの、小学校4年の吉川」
「頭にかぶっているのは、やっぱりカープの帽子」
「吉川が小学校4年のときいうたら、1975(昭和50)年。カープが初優勝した年じゃの」
「カープの帽子が、それまでの紺色に「H(Hiroshima)」のマークから、赤色に「C(Carp)」のマークになったのも、この年じゃったね」
「吉川といえば、水球」
「これは、吉川が修道中学3年のとき、全日本ジュニア水球大会で準優勝したときの写真じゃそうな」
キャプテン・吉川晃司(前列中央)としては、準優勝では不満が残る…といった表情
(写真の説明文より)
「吉川は修道高校時代、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続して全日本高校最優秀選手に選ばれ、最年少の日本代表として海外遠征に参加して活躍したんじゃの」
「その修道高校を、1983年3月に2年で中退して上京、渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)に入ったんよね」
「翌1984年2月にデビュー。それ以降の快進撃は、ご存じのとおりじゃ」
↓吉川晃司については、こちら↓
K2 NET CAST : KOJI KIKKAWA OFFICIAL WEBSITE
「以下、余談」
「この雑誌の中には、吉川のライブビデオの紹介も出とったで」
「1984年いうたら、ビデオが出始めのころか」
「「KIKKAWA KOJI '84 FLYING PARACHUTE TOUR」の模様を収めたもので、60分で9,800円じゃった」
「ビデオの値段がそれくらいしよったころの話じゃね」
「ビデオの紹介は、第一産業の広告ページに出とったんじゃがの」
「うわー、第一産業なんて名前、久しぶりに聞いたよ」
「家電とエレクトロニクスのダイイチ」
「第一産業は、ダイイチ、デオデオと名前を変えて、今はエディオンじゃね」
「以下、さらに余談」
「吉川の実家は、今の平和記念公園がある中島地区にあったんよね」
「『この世界の片隅に』でも描かれとるが、戦前の中島地区は、広島はもとより中国地方でも指折りの繁華街じゃったんじゃの」
(平和記念公園(爆心地)街並み復元図)
「この地図で左上に見えるのが、広島への原爆投下の目標にされた、T字の形をした相生橋(あいおいばし)。その相生橋から道なりに下っていって、画面右側4軒目にあるのが吉川旅館じゃ」
「吉川旅館は、原爆ドーム(原爆投下当時の名称:広島県産業奨励館)から、元安川(もとやすがわ)を挟んで向かい側にあったんじゃね」
「今の、平和の時計塔があるあたりから少し南側かの」
「地図には、(舩本)とあるけど?」
「原爆投下の前に、旅館を舩本さんという方に譲り渡して吉川一家は疎開したけぇ、原爆の直接の被害を受けずにすんだ。ところが、吉川のお父さんは原爆投下の直後に広島へ帰ってきたことで被爆された(入市被爆)そうじゃ」
「吉川も、うちらと同じ被爆2世なんじゃね」
注:入市被爆(にゅうしひばく)…原爆が投下された時は広島郊外にいて直接の被害は受けなかったが、原爆が投下されて15日以内(8月20日まで)に、救援活動や親族を探すため爆心地から2キロ以内に入った人をいう。
「今日は、子ども時代の吉川晃司について話をさせてもろうたでがんす」
「ほいじゃあ、またの」
(文中、敬称略)
「デビュー40周年、おめでとうございます」
「吉川は、デビュー当時から派手なパフォーマンスをされとったの」
「歌番組に出演して、歌の途中に足を垂直に蹴り上げたり、歌の終わりにバク転をしたりと、すごかったね」
「今日は、今はなき広島の情報誌『映画手帖(えいがてちょう)』の1984年8月号に掲載された、「吉川晃司 マル秘アルバム」という記事から、子ども時代の吉川晃司を紹介していこう」
(『映画手帖 1984年8月号』広島映画手帖社)
「今日は、子ども時代の吉川晃司についての話でがんす」
「吉川は、1965(昭和40)年8月18日に、県立広島病院(通称:県病院)で生まれちゃったんじゃね」
「県病院って、わしが生まれたのと同じ病院じゃんか」
「生まれた時の身長が58センチで、体重が2650グラム」
「で、これが生まれて半年ころの吉川」
「目のあたりに面影があるね」
吉川晃司君のお宅に写真を借りに行きました。生後間もない頃の”オールヌード”もあったのですが…。
(あとがきより)
「こちらは2歳ころの吉川」
「まんま、吉川晃司じゃね」
「竹原へオリエンテーリングに行ったときの、小学校4年の吉川」
「頭にかぶっているのは、やっぱりカープの帽子」
「吉川が小学校4年のときいうたら、1975(昭和50)年。カープが初優勝した年じゃの」
「カープの帽子が、それまでの紺色に「H(Hiroshima)」のマークから、赤色に「C(Carp)」のマークになったのも、この年じゃったね」
「吉川といえば、水球」
「これは、吉川が修道中学3年のとき、全日本ジュニア水球大会で準優勝したときの写真じゃそうな」
キャプテン・吉川晃司(前列中央)としては、準優勝では不満が残る…といった表情
(写真の説明文より)
「吉川は修道高校時代、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続して全日本高校最優秀選手に選ばれ、最年少の日本代表として海外遠征に参加して活躍したんじゃの」
「その修道高校を、1983年3月に2年で中退して上京、渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)に入ったんよね」
「翌1984年2月にデビュー。それ以降の快進撃は、ご存じのとおりじゃ」
↓吉川晃司については、こちら↓
K2 NET CAST : KOJI KIKKAWA OFFICIAL WEBSITE
「以下、余談」
「この雑誌の中には、吉川のライブビデオの紹介も出とったで」
「1984年いうたら、ビデオが出始めのころか」
「「KIKKAWA KOJI '84 FLYING PARACHUTE TOUR」の模様を収めたもので、60分で9,800円じゃった」
「ビデオの値段がそれくらいしよったころの話じゃね」
「ビデオの紹介は、第一産業の広告ページに出とったんじゃがの」
「うわー、第一産業なんて名前、久しぶりに聞いたよ」
「家電とエレクトロニクスのダイイチ」
「第一産業は、ダイイチ、デオデオと名前を変えて、今はエディオンじゃね」
「以下、さらに余談」
「吉川の実家は、今の平和記念公園がある中島地区にあったんよね」
「『この世界の片隅に』でも描かれとるが、戦前の中島地区は、広島はもとより中国地方でも指折りの繁華街じゃったんじゃの」
(平和記念公園(爆心地)街並み復元図)
「この地図で左上に見えるのが、広島への原爆投下の目標にされた、T字の形をした相生橋(あいおいばし)。その相生橋から道なりに下っていって、画面右側4軒目にあるのが吉川旅館じゃ」
「吉川旅館は、原爆ドーム(原爆投下当時の名称:広島県産業奨励館)から、元安川(もとやすがわ)を挟んで向かい側にあったんじゃね」
「今の、平和の時計塔があるあたりから少し南側かの」
「地図には、(舩本)とあるけど?」
「原爆投下の前に、旅館を舩本さんという方に譲り渡して吉川一家は疎開したけぇ、原爆の直接の被害を受けずにすんだ。ところが、吉川のお父さんは原爆投下の直後に広島へ帰ってきたことで被爆された(入市被爆)そうじゃ」
「吉川も、うちらと同じ被爆2世なんじゃね」
注:入市被爆(にゅうしひばく)…原爆が投下された時は広島郊外にいて直接の被害は受けなかったが、原爆が投下されて15日以内(8月20日まで)に、救援活動や親族を探すため爆心地から2キロ以内に入った人をいう。
「今日は、子ども時代の吉川晃司について話をさせてもろうたでがんす」
「ほいじゃあ、またの」
(文中、敬称略)