通でがんす

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京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑【蔵出し企画】

2020年09月07日 | 見て歩き


今回紹介するのは、
京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑
いう、長ったらしい名前の碑でがんす。





が、読み解いていけば…、

京都大学が派遣した、広島原爆の災害を
総合的に研究調査する班が、
なんらかの災害に遭難したのを記念する碑

…であることが分かる。





今から75年前の1945年8月6日、
アメリカ軍は世界初の原子爆弾を
広島市に投下した。

たった一発で広島市を壊滅させ、
日本政府と軍が「新型爆弾」と表現した
爆弾とは、どんなものだったのか?

軍は京都大学(当時:京都帝国大学。
以後、「京大」と略す)に調査を依頼。

これを受けた京大では、
医学部や理学部の教員・学生たちによる
「原爆災害総合研究調査班」を編成、
広島に派遣した。

この調査班は、9月3日から
広島県西部の佐伯郡(さえきぐん。
現:廿日市市(はつかいちし))
大野村(現:大野町)にあった
大野陸軍病院を拠点に調査を始めた。





調査を行っている最中の
9月17日から18日にかけて、
日本を南から北へと通り抜け、
広島や呉に大きな被害をもたらしたのが、
枕崎(まくらざき)台風。

枕崎台風といえば、
室戸(むろと)台風(1934年)、
伊勢湾(いせわん)台風(1959年)
と並ぶ昭和の三大台風のひとつ。

台風の影響で大野村を流れる丸石川で
土石流が発生、大野陸軍病院を直撃した。

これにより、京大調査班は11人の班員が、
大野陸軍病院では職員と
入院中の被爆者約150人が亡くなった
といわれとるんじゃの。









京大原爆災害調査班遭難記念碑

昭和二十年九月十七日夜京都大学原子爆弾災害調査研究班この地大野陸軍病院において山津波に会い左の十一名職に殉ず

医学部
 教 授 山下 俊一
 教 授 杉山 繁輝
 助教授 大久保忠維
 講 師 島本 光顕
 講 師 西山 眞正
 嘱 託 島谷 きよ
 学 生 原  祝之
 学 生 平田 耕造

理学部
 講 師 堀 重太郎
 大学院学生 花谷 暉一

化学研究所
 助 手 村尾  誠

昭和四十五年九月十七日
京都大学原爆災害調査班
 遭難記念碑建立委員会

京都大学総長 前田敏男 書








京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑の由来

 昭和二十年八月六日広島に原子爆弾が投下され、多くの人々が被爆した。
 当時大野村では、この地に隣接して約八百人を収容する大野陸軍病院があり、その中央の病棟に約百人、また国民学校(現大野西小学校)に約千五百人の被爆者が収容されていた。
 八月二十七日中国軍管区司令部から原爆被爆者災害の調査と早急なる対策樹立の為に研究員派遣の要請を受けた京都大学は、直ちに医学部の教授陣を中心とし、理学部物理学者を加えた研究班を組織して来広した。九月三日からこの大野陸軍病院に本拠を置き、診療・研究を開始した。ところが九月十七日この地方を枕崎台風が襲い、同夜十時三十分頃、山津波が起り、一瞬にして大野陸軍病院の中央部を壊滅させ山陽本線を越えて海中に押し流した。
 このため同病院に入院中の被爆者の殆んど全員と職員合計百五十六人の尊い生命が奪われた。この中には日夜原爆への対策、調査、研究に献身した京大真下俊一教授(内科学)、杉山繁輝教授(病理学)以下研究班員十一人の殉職者が含まれていた。
 昭和四十五年九月にこの記念碑が建立され、碑文と京大関係殉職者十一名の名前が碑の中央部にはめ込んである。
 建設にあたっては、京大菊池武彦名誉教授を筆頭に、脇坂行一、木村廉名誉教授をはじめ京大関係者、広島県下の諸団体、広島県、広島市、大野町、原対協、芝蘭会広島支部、その他多数の方々のご支援により建立された。設計は、京大増田友也名誉教授の指導のもとに京大前田忠直教授が担当した。
 この碑の垂直的な力強い造形は、大地から天に向けて舞い上がる人間の復活を象徴しており、京都大学関係者を含め、犠牲者の方々の追悼と恒久平和への祈りを表している。

  平成十七年九月
   京都大学
   大野町








これらの碑は、廿日市市大野町
宮浜(みやはま)温泉内の
米山(こめやま)広場にある。







広場内にある大きな石は、
この時の土石流で
山から転がってきたものといわれる。







瀬戸内海をはさんで向こう側に見えるのが、
日本三景・安芸の宮島。







米山広場内には、米山神社がある。

もとは豊作の神として祀られとったのが、
今は商売繁盛の神として祀られとるそうじゃ。





↓京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑についての関連記事は、こちら↓

旧大野陸軍病院供養塔





訪問日:2015年9月13日





以下、余談…。



台風10号は九州を暴風域に巻き込み
南から北へと通り抜けた。

今は気象庁が発表する情報に従って、
人々は避難し、
公共交通機関は運休・欠航を、
企業や商業施設は臨時休業を発表している。

ところが太平洋戦争中、
天気予報が国民に伝えられていなかった
いうことをご存じじゃろか?





各地の天気や気温といった観測データは
軍事機密であったため、
1941年12月8日の真珠湾攻撃を機に
天気予報はラジオで放送されなくなった。

その天気予報の放送が再開されたのは、
敗戦から1週間後の1945年8月22日じゃった。

とはいえ、戦争後の混乱した時期のこと。

たとえば、枕崎台風の情報が
行きわたっていたとは思えん。

台風に関する正確な情報がない中、
その直撃を受けて各地で大きな被害が出た。

京都大学の研究調査班が遭難したのも、
そんな状況でのことじゃったんじゃの。





今日は、廿日市市大野町にある
京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑
について話をさせてもらいました。



ほいじゃあ、またの。
コメント
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