通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

JR西広島駅

2019年05月06日 | 見て歩き
己斐ぶらり(その1)

広島の西玄関口

原爆被災説明板






己斐。

この地名を、皆さんはなんと読まれるじゃろか?



「己斐」と書いて「こい」と読む。

ここ己斐は、広島の難読(なんどく。読みづらい)地名のひとつでもあるんじゃの。

その己斐を、ぶらぶらと歩きながら紹介していこうと思います。







第1回目は、広島の西玄関口でもあるJR西広島駅。





西広島駅?

己斐駅なのでは?

と思われた方、正解じゃ。





明治時代、私鉄の山陽鉄道が兵庫県の神戸から山口県の馬関(ばかん。現:下関)まで、西へ向けて鉄道を通した。

1897年(明治30年)9月、広島駅-山口県の徳山駅まで開通。

そのときに設置されたのが「己斐駅」。

戦後の1969年(昭和44年)10月、「西広島駅」と名前を変える。





「西広島」というのは、広島市の西にあるところから名づけられた。

現在の「広島市西区」が発足したのは1980年(昭和55)4月、広島市が政令指定都市に移行してからのこと。

ちなみに、広島電鉄の市内電車の己斐駅が西広島駅と名前を変えたのは、戦前の1931年(昭和6年)のことじゃそうな。





最初に、JR西広島駅は広島の西玄関口、と書いた。

が、ここが広島駅、つまり広島の玄関口となる可能性もあったんじゃの。





山陽鉄道が広島に向けて鉄道を通すときネックとなったのが、八本松-瀬野間の通称・瀬野八(せのはち)。

上り線の瀬野-八本松間は、22.6‰(パーミル)の急勾配が続く難所じゃった。

山陽本線はもともと、勾配の緩やかなところ選んでルートを決定してきたため、ここでもその方針でルートが考えられた。



具体的にいうと…。



八本松から、志和(しわ)を北に向って三篠川(みささがわ)沿いに出る。

今の芸備線あたりを通って、太田川(おおたがわ)に出る。

そこで太田川を渡り、川に沿って今の可部線・山陽本線あたりを通って己斐に着く、というもの。

もしこのルートが採用されとったら、己斐に作られる駅が広島の玄関口になるはずじゃった。





このルートは、経済性の理由からボツとなった。

瀬野八を通ると距離と時間を短くできるので、運賃を安くおさえることができる。

逆に、志和-己斐を通ると、距離と時間が長くなってしまうので、結果として運賃が高くなってしまう。

明治のころはまだ瀬戸内海航路が盛んで、鉄道は航路との競争を意識せにゃいけんかったんじゃの。







己斐駅は明治時代に作られた。

ということは、原爆の被害も受けとるんじゃの。

駅前には原爆被災説明板が立つ。







己斐駅(こいえき。現・国鉄西広島駅 爆心地から約2,400メートル)

1945(昭和20)年8月6日午前8時15分 原爆により駅舎の大部分が一瞬にして倒壊した
しかし その時は 上・下列車が出た後で 待合室の客は少数であったので人的被害は少なかった
この駅は 広島の西玄関口であり 近郊へ避難する無数の被災者が殺到した

(陸橋だけを残し倒壊した己斐駅 撮影・川本俊雄)






訪問日:2010年7月10日





今回は、己斐ぶらり(その1)JR西広島駅について話をさせてもらいました。





次回は、己斐ぶらり(その2)ズッコケ三人組の像の予定じゃ。



ほいじゃあ、またの。
コメント
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