「今日、11月18日から22日まで、サロンシネマで映画『仁義なき戦い(シリーズ第1作)』が上映されとる」
「主役の菅原文太(すがわら ぶんた)さんが亡くなった、戦後70年じゃいうて、最近は映画『仁義なき戦い』(1973年~1974年 全5作。以下、『仁義なき』と略す)をよう上映しとってじゃね」
「今回は、修道大学映画研究会の主催での上映会じゃ」
↓サロンシネマについては、こちら↓
広島の映画館サロンシネマ、八丁座
「それはともかく、『仁義なき』は『この世界の片隅に』(以下、『片隅に』と略す)と現在とをつなぐ作品でもあるんじゃの」
「『片隅に』が、『仁義なき』を通じて現在につながっている…?」
「『片隅に』は戦争の負けた翌年の1946年(昭和21)、すずさんは自分を見つけてくれた周作さんに感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の実家に帰るところで終わっとる」
「『仁義なき』は、その戦後の混乱期から話が始まるんよね」
「『仁義なき』で菅原さんが演じた主役・広能昌三((ひろのう しょうぞう)こと美能幸三(みのう こうぞう)は1926年(昭和元)生まれ」
「すずさんは、ひとつ年上の1925年(大正14)生まれで、同世代か」
「戦後の混乱期いうことで、どっちも戦後の闇市が出てくるじゃろ」
「そういや、なんで『仁義なき』は呉(くれ)と広島が舞台になったんじゃろ?」
「理由のひとつに、呉と広島には軍隊があって、その物資が残されとったというのがある」
「軍隊の物資?」
「呉には、東洋一と呼ばれた海軍工廠(かいぐんこうしょう)があった」
「戦艦大和を建造したのも、ここ呉海軍工廠じゃったよね」
「北條周作のお父さん、円太郎さんが勤められとったのが、呉より東にあって、主に航空機開発を担った広(ひろ)海軍工廠じゃったんじゃの」
「なるほど」
「あと、広島には陸軍の被服支廠(ひふくししょう)、兵器支廠(へいきししょう)、糧秣支廠(りょうまつししょう)があった」
「被服=着るもの、兵器=武器、糧秣=食べるものと、これだけで一通りのものが揃うよね」
「戦争に負けると、負けた国の軍隊は解体される」
「すると、軍隊が持っていた物資だけが残される…」
「敗戦の混乱に乗じて、その物資目当てに、全国から復員くずれ、チンピラ、愚連隊なんかが集まってくる」
「旧軍隊が持っとった物資をめぐって、仁義なき戦いが繰り広げられたと…」
「その一部が戦後の闇市で売られたりしたんじゃの」
「具体的に、どのくらいの量があったんじゃろ?」
「広島市で、戦後初の公選市長になった浜井信三(はまい しんぞう)さんの著書『原爆市長 復刻版』に書いてあるけぇ、そこから見てみようか」
↓浜井信三『原爆市長 復刻版』(2011年 原爆市長復刻刊行委員会)については、こちら↓
「原爆市長 復刻版」amazon
「1945年8月6日、広島市へ原子爆弾が投下されたとき、浜井さんは広島市役所で配給課長をされとられた」
「戦争中で物のない時代に配給課長とは、大変なお役目じゃったね」
「戦争が終わった直後は夏じゃったけぇ、服や夜寝る布団がのうてもそれほど困らんかったが…」
「秋になって肌寒くなってくると、困るよねぇ」
「自分の家族の分だけならまだしも、広島市民にいきわたるだけの大量の衣料を手に入れるのは、正規のルートからでは不可能じゃった」
「そこで軍隊の物資に目をつけられたというわけ?」
「そのとおり! 陸軍から軍服を1万梱(こうり)、払い下げてもらうことになったんじゃの」
「梱?」
「「梱包」の「梱」の字を書く。荷づくりした荷物のことを、「梱」とか「行李」とか呼ぶんじゃが…」
「行李は聞いたことがあるね」
「ひとりの人間が軍隊に入隊したときに支給される服や帽子、靴や下着が、上から下まで、夏服から冬服まで一式入ったものが1万人分あったんじゃ」
「えー、1万人分もあったん?」
「本当は10万人分あったそうじゃが」
「10万人分って…。うーん、あるところにはあるんじゃね」
「そのうちの1万人分を払い下げてもらうことになった」
「それはどこにあったん?」
「賀茂郡(かもぐん。現:東広島市)西条町(さいじょうちょう)川上村に疎開させとったのを、広島市まで運んでこられたんじゃ」
「川上村って、近くの鉄道、八本松駅からもけっこうな距離があるよね」
「1万人分を運んで広島市民に配給するだけでも、運搬手段の少ない敗戦直後は大仕事じゃったはずじゃ」
「ご苦労様でした」
「広島市民は復員軍人だらけだ」
当時、広島市を訪れた人たちは、そういって目をみはったものである。
(浜井信三『原爆市長 復刻版』(2011年 原爆市長復刻刊行委員会))
「今日は、「広島市民に配給された軍事物資」ということで、敗戦直後の1945年秋、1万人分の軍服が広島市民に配給されたことについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「主役の菅原文太(すがわら ぶんた)さんが亡くなった、戦後70年じゃいうて、最近は映画『仁義なき戦い』(1973年~1974年 全5作。以下、『仁義なき』と略す)をよう上映しとってじゃね」
「今回は、修道大学映画研究会の主催での上映会じゃ」
↓サロンシネマについては、こちら↓
広島の映画館サロンシネマ、八丁座
「それはともかく、『仁義なき』は『この世界の片隅に』(以下、『片隅に』と略す)と現在とをつなぐ作品でもあるんじゃの」
「『片隅に』が、『仁義なき』を通じて現在につながっている…?」
「『片隅に』は戦争の負けた翌年の1946年(昭和21)、すずさんは自分を見つけてくれた周作さんに感謝しながら、戦災孤児の少女を連れて呉の実家に帰るところで終わっとる」
「『仁義なき』は、その戦後の混乱期から話が始まるんよね」
「『仁義なき』で菅原さんが演じた主役・広能昌三((ひろのう しょうぞう)こと美能幸三(みのう こうぞう)は1926年(昭和元)生まれ」
「すずさんは、ひとつ年上の1925年(大正14)生まれで、同世代か」
「戦後の混乱期いうことで、どっちも戦後の闇市が出てくるじゃろ」
「そういや、なんで『仁義なき』は呉(くれ)と広島が舞台になったんじゃろ?」
「理由のひとつに、呉と広島には軍隊があって、その物資が残されとったというのがある」
「軍隊の物資?」
「呉には、東洋一と呼ばれた海軍工廠(かいぐんこうしょう)があった」
「戦艦大和を建造したのも、ここ呉海軍工廠じゃったよね」
「北條周作のお父さん、円太郎さんが勤められとったのが、呉より東にあって、主に航空機開発を担った広(ひろ)海軍工廠じゃったんじゃの」
「なるほど」
「あと、広島には陸軍の被服支廠(ひふくししょう)、兵器支廠(へいきししょう)、糧秣支廠(りょうまつししょう)があった」
「被服=着るもの、兵器=武器、糧秣=食べるものと、これだけで一通りのものが揃うよね」
「戦争に負けると、負けた国の軍隊は解体される」
「すると、軍隊が持っていた物資だけが残される…」
「敗戦の混乱に乗じて、その物資目当てに、全国から復員くずれ、チンピラ、愚連隊なんかが集まってくる」
「旧軍隊が持っとった物資をめぐって、仁義なき戦いが繰り広げられたと…」
「その一部が戦後の闇市で売られたりしたんじゃの」
「具体的に、どのくらいの量があったんじゃろ?」
「広島市で、戦後初の公選市長になった浜井信三(はまい しんぞう)さんの著書『原爆市長 復刻版』に書いてあるけぇ、そこから見てみようか」
↓浜井信三『原爆市長 復刻版』(2011年 原爆市長復刻刊行委員会)については、こちら↓
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「1945年8月6日、広島市へ原子爆弾が投下されたとき、浜井さんは広島市役所で配給課長をされとられた」
「戦争中で物のない時代に配給課長とは、大変なお役目じゃったね」
「戦争が終わった直後は夏じゃったけぇ、服や夜寝る布団がのうてもそれほど困らんかったが…」
「秋になって肌寒くなってくると、困るよねぇ」
「自分の家族の分だけならまだしも、広島市民にいきわたるだけの大量の衣料を手に入れるのは、正規のルートからでは不可能じゃった」
「そこで軍隊の物資に目をつけられたというわけ?」
「そのとおり! 陸軍から軍服を1万梱(こうり)、払い下げてもらうことになったんじゃの」
「梱?」
「「梱包」の「梱」の字を書く。荷づくりした荷物のことを、「梱」とか「行李」とか呼ぶんじゃが…」
「行李は聞いたことがあるね」
「ひとりの人間が軍隊に入隊したときに支給される服や帽子、靴や下着が、上から下まで、夏服から冬服まで一式入ったものが1万人分あったんじゃ」
「えー、1万人分もあったん?」
「本当は10万人分あったそうじゃが」
「10万人分って…。うーん、あるところにはあるんじゃね」
「そのうちの1万人分を払い下げてもらうことになった」
「それはどこにあったん?」
「賀茂郡(かもぐん。現:東広島市)西条町(さいじょうちょう)川上村に疎開させとったのを、広島市まで運んでこられたんじゃ」
「川上村って、近くの鉄道、八本松駅からもけっこうな距離があるよね」
「1万人分を運んで広島市民に配給するだけでも、運搬手段の少ない敗戦直後は大仕事じゃったはずじゃ」
「ご苦労様でした」
「広島市民は復員軍人だらけだ」
当時、広島市を訪れた人たちは、そういって目をみはったものである。
(浜井信三『原爆市長 復刻版』(2011年 原爆市長復刻刊行委員会))
「今日は、「広島市民に配給された軍事物資」ということで、敗戦直後の1945年秋、1万人分の軍服が広島市民に配給されたことについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」