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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

何となれば則ち君子は人の善を

2019-11-25 16:54:27 | ブログ
第3966号 01.11.26(火)

何となれば則ち君子は人の善を揚げ、小人は人の悪を訐(あば)く。悪を言ひて必ず信ぜらるれば、則ち小人の道長ず。善を聞きて或は疑へば、則ち君子の道消す。国家を為むる者は、君子を進めて小人を退くるを急にす。乃ち君子をして道消し、小人をして道長ぜしむれば、則ち君臣、序を失ひ、上下、否隔す。亂亡、卹(うれ)へず、將た何を以て理まらんや。『貞観政要』419

なぜかと申しますれば、君子は人の善い点を揚げますが、小人は人の悪い所をあばくものでございます。悪口を言って、それが必ず信用されれば、小人の道がますます盛んになります。善行を聞いても、疑うことがあれば、君子の道が衰え消えます。国家を治める者は、君子を進め小人を退けることを最も大切なこととすべきであります。それなのに、君子の道が衰え、小人の道が盛んにならせるときは、君臣の順序がめちゃめちゃになり、上下の意志がふさがり隔てられて通じなくなります。乱れ亡びる道を憂いませんならば、どうして国家を治めることができましょうや。420

 【コメント】国家を治める道も、人々が栄える道も、君子を進め小人を退けることが大事だと思います。

 それでも小人を痛めつけることはよろしくありません。相撲大会で白鵬が下位の人にハリテをするのも、カチアゲをするのもよろしくありません。これは協会が言わなければいけないのです。

 これは父親が子供にすることと同じです。これがわからない白鵬であれば、チンピラ同様です。精神年齢が幼稚だということです。

 35歳のお兄ちゃんが小学生の女の子を自宅へ連れ帰ったとして問題になっていますが、そういうことをすべきではありません。

 35歳と言えば、世の中のことが幾らかわかる年代だと思います。まだいたずらをしていなかったからよかったですが。

 幼い時の私の周囲にも子供が大人になったような幼稚なものがたくさんいました。今の私みたいに漢籍を繙くような人は皆無でした。

 昨晩、相撲協会の役員だと思われる人が、白鵬のカチアゲにクレームをつけていました。大変良いことです。今後白鵬が直るか否か、自らがきづかなければならないのです。勿論政治家もですが。

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『善の研究』第368回

 しかし、単に調和であるとか中庸であるとかいったのでは未だ意味が明瞭でない。調和とは如何なる意味においての調和であるか、中庸とは如何なる意味においての中庸であるか。意識は如何なる活動の集合ではにくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。然らば我々の精神の種々なる活動における固有の秩序は如何なるものであるか。我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能活動である。即ち目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲に由りて動かされるのである。

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陛下、聡明神武、天姿英叡、

2019-11-25 09:16:05 | ブログ
第3956号 01.11.25(月)

陛下、聡明神武、天姿英叡、志、泛愛に存し、引納すること途多し。善を好めども甚だしくは人を擇ばず、悪を疾(にく)めども未だ侫を遠ざくること能はず。又、言を出して隠す無く、悪を疾むこと太だ深し。人の善を聞けば、或は未だ全くは信ぜず、人の悪を聞けば、以て必ず然りと為す。獨見の明有りと雖も、猶ほ理或は未だ盡くさざらんことを恐る。『貞観政要』419

陛下は、極めて賢明で優れた武徳を持ち、生まれつき知恵がすぐれ、広く多くの人たちを愛することに志され、多方面の人々を引見なされます。しかし今、陛下は善を好まれても、それほど善人を択び用いず、悪を憎んでも、まだ侫人を遠ざけることができておりません。また、言葉を出されては隠すことなく、悪を憎むこと非常に深くございます。人の善を聞いても、すべてを信用なされないこともあり、人の悪を聞いては、必ずそうだと思われます。人にすぐれた明らかな見識がございましても、それでもなお道理としては十分に尽くさないところがあることを心配します。

 【コメント】「賢明で優れた武徳を持ち、広く多くの人たちを愛することに志されとあるように」多くの人々に温かい気持ちを表すことは大変大事なことだと思います。

 ところが一寸した心得違いで相手に不愉快な気持ちを与えることが往々にしてあるものです。ですから、絶えず細心の注意をしたいものです。

 先日子供がいなくなりましたが、一週間ぶりに35歳の男性の家に居たのですが、家を飛び出し交番に保護を求めて来たとのことです。

 自宅に居た少女が何故他人の家に行くのでしょうか。スマートホンみたいなものが出てきたお蔭で、いろいろ問題が出てきているようです。

 そして先ほどは遠い外国の孤島から変な電話がかかってきて、法外な電話料を請求されるとのことです。ですからそういう手合いに引っ掛からないようにしたいものです。

 高齢者の私などは、難しいものには手をださないのですが、できれば皆さんも悪の誘いには乗らないようにいたしましょう。

 時々ブログに書いているのですが、漢籍を繙くことが好い事だと思いますので、出来ればお勧めしたいと思います。

 ローマ教皇が日本に来て、核廃絶の訴えをしていますが、これはロシア、中国、北朝鮮向けてして欲しいものです。プーチンが居る限り、それはなくならないと思います。

 大相撲が終わりました。白鵬が優勝しましたが、彼のハリテ、カチアゲはすべきでないと思います。強いと思われている人のすることではありません。

 「桜を見る会をした」権力者の安倍さんと同罪だと思います。

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『善の研究』第367回

 調和が善であるというのはプラトーの考であった。氏は善を音楽の調和に喩えておる。英のシャフツベリなどもこの考を取っている。また中庸が善であるというのはアリストテレースの説であって、東洋においては『中庸』の書にも現われと居る。アリストテレースは凡て徳は中庸にあるとなし、たとえば勇気は粗暴と怯弱との中庸で、節倹は吝嗇と浪費との中庸であるといった。能く子思の考に似ている。また進化論の倫理学者スペンサーの如きが、善は種々なる能力の平均であるといっているのも、つまり同一の意味である。

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小人の小善を善みして、

2019-11-23 15:07:52 | ブログ
第3964号 01.11.24(日)

小人の小善を善みして、之を善を善みすと謂ひ、君子の小過を悪みて、之を悪を悪むと謂ふが若きは此れ則ち蒿蘭、臭を同じくし、玉石、分たざるなり。屈原が江に沈みし所以、卞和が血に泣きし所以の者なり。既に玉石の分を識り、又、蒿蘭の臭を瓣じ、善を善みすれども進むる能わず、悪を悪めども去る能はざるは、此れ郭氏が墟と為る所以、史魚が恨を遺す所以の者なり。417

小人の小善をよみして、これを善をよみするのであると言い、君子の小過をにくんで、これを悪をにくむのだと言うようなのは、悪草の蒿と香草の蘭とのにおいを同じであるとし、玉と石とを区別しないものであります。これこそ屈原が江に身を沈め、卞和が血に泣いた理由であります。玉と石との違いを識別し、蒿と蘭とのにおいを区別しながら、善をよみしても進めることができず、悪をにくんでも退け去ることができないのは、これこそ、昔の郭国が滅亡し、史魚が恨みを残して死んだ理由であります。418

 【コメント】長い人生では調子の良い場合と、調子が今少しということがあるものです。それでも、全身全霊を傾け万全を尽くしたいものです。万全を尽くしていれば、努力をヨシとし、後悔はしないものです。

 長い人生にはいろいろありますが、日々学問に熱中し、人様から疑いをもたれるようなことをしてはなりません。「桜を見る会」のように虚偽の答弁をすると世の人々は見抜いているのです。権力を持っている人が、嘘の答弁をし、閒系の資料をすぐ破棄せさるということは、国民を愚弄したやり方です。

 昨夜の空手道教室も少人数でしたが、賑いました。先週、森永礼弥君のセイサン形に感銘しましたので、森永君がくるなり再度拝見させて頂きました。

 安定した腰の落とし方、一本一本の重くてスピードのある突き、形を構成するそれぞれの技が小学生とは思えない熟練さを感じさせてくれました。これらは空手道に対する礼弥君の思いだと感じられました。

 そして入退時の挨拶は天下一品だと観察しました。これらを綜合して小学生とは思えない仕種でした。最高の芸術作品でした。

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『善の研究』第366回

 して見ると、我々の要求というのも決して孤独に起るものではない。必ず他との関係上において生じてくるのである。我々の善とは或一種または一時の要求のみを満足するの謂ではなく、或一つの要求はただ全体との関係上において始めて善となることは明である。たとえば身体の善はその一局部の健康でなくして、全身の健全なる関係にあると同一である。それで活動説より見て、善とは先ず種々なる活動の一致調和或は中庸ということとならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用ということとなる。

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小人も小善無きに非ず、

2019-11-22 17:19:50 | ブログ
第3963号 01.11.23(土)

小人も小善無きに非ず、君子も小過無きに非ず。君子の小過は、蓋し白壁の微瑕、小人の小善は、乃ち鉛刀の一割なり。鉛刀の一割は、良工の重んぜざる所、一善は以て衆悪を掩(おほ)ふに足らざるなり。白壁の微瑕(びか)は、善賈(ぜんこ)の棄てざる所、小疵(しょうし)は以て大美を妨ぐるに足らざるなり。

小人にも小さい善が無いわけでもなく、君子にも小さい過ちが無いわけではありません。しかし君子の小過は、つまり白壁のかすかなきずであります。小人の小善は、それはなまくら刀が一度だけ切ることができたものであります。鉛刀の一割は良工の重んじないもので、一つだけの善では多くの悪をおおいかくすことはできません。白壁の微瑕は、良い商人の見捨てないものであり、少しのきずは大きな美点の妨げとはなりません。418

 【コメント】どんな物でも良い点と悪い点はあるものです。「少しのきずは美点の妨げとはなりせん」とあるように、少しのきずも美点となるよう配意して取り組みたいものです。

 でも「桜を見る会」で次々に虚偽があばかれるように、嘘をいってはいけません。週刊誌のタイトルが新聞広告に紹介されていますが、安倍氏は長期政権に酔いしれているのだと思います。それと少々ワルをしても野党は何も出来ないのだとたかをくくっているのだと思います。

 長期政権であればあるほど、中身も美しくなくてはならないのです。やがて政権が変わっても、又責任者になって欲しいと世の人々から思われるようであればいいのだがと思います。

 おとなりの香港では学生たちを政府がこらしめているのが紹介されています。学生たちは自由が欲しいだけのことではないかと想像されます。

 それは他人様の国のことだから仕方ないとして、我が国日本では香港の二の舞にならないようにと願っています。普通人々は、贅沢をしたいと思うものですが、これ以上の贅沢はよくないと思います。

 とにかく若者たちのワルが多発しているようですので、それらは厳しく取り締まって欲しいものです。12月からは、運転しながらの「ながら運転」は厳しく罰せられるとのことです。これらはいいことだと思います。

 高齢者の私も交差点で事故をしてはいけないと思い、異常とも思われる位徹底した運転操作をしています。人を傷つけてはならないし、人から傷つけられてもいけないとして安全運転を徹底しています。

 そして出来れば漢籍を繙といて自らを高める勉強をしたいものです。『南洲翁遺訓』も読みたいものです。

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『善の研究』第365回

 我々の意識現象には一つも孤独なる者がない、必ず他と関係の上において成立するのである。一瞬の意識でも已に単純でない、その中に複雑なる要素を含んでいる。而してこれらの要素は互に独立せるものではなくして、彼此関係上において一種の意味をもった者である。啻に一時の意識が斯くの如く組織せられてあるのみではなく、一生の意識もまた斯くの如き一体系である。自己とはこの全体の統一に名づけたのである。

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魏徴曰く、臣聞く、人君たる者は、

2019-11-21 15:15:44 | ブログ
第3962号 01.11.22(金)

魏徴曰く、臣聞く、人君たる者は、善を善みして悪を悪み、君子を近づけて小人を遠ざくるに在り、と。善を善みすること明らかなれば、則ち君子進む。悪を悪むこと著るれば、則ち小人遠ざかる。君子を近づくれば、則ち朝に粃政無し。小人を遠ざくれば、則ち聽くこと邪に惑はず。『貞観政要』417

魏徴が上疎して申し上げて言った、「私が聞くところによりますれば、人君というものは、善をよみし、悪をにくみ、君子を近づけ、小人を遠ざけなければなりません、と。善をよみすることが明らかであれば君子が進み出ます。悪をにくむことが明らかであれば小人は退き遠ざかります。君子を近づければ朝廷に悪い政治はありません。小人を遠ざければ、言を聞くことに邪悪に惑わされることがありません。418

 【コメント】「人君というものは、善をよみし、悪をにくみ、君子を近づけ、小人を遠ざけなければなりません」とありますが、今話題になっている桜を見る会は主催者そのものが善ではなく、悪になっているという人がいますが、そう思っている人は多いと思います。

 安倍氏に目を覚ませさせるためには世論調査を20%位に低下させなければならないと思います。長期政権だとして思い上がっているのです。尤も野党の諸君では代替えにはならないのでどうにもなりませんが。

 小沢氏が画策しているようですが、彼の人生は引っ掻き回すのが命題であるようです。

 とにかく日々を贅沢にしないことが要諦だと思います。私の小学一年の頃からすると、天地の差ほどの贅沢な社会になっているのです。

 全国的にワルをする人が増えているようですが、真面目に生きるためのお手本になってくれる人はいないのでしょうか。
 
 私は連日漢籍を繙いていますが、皆さんも『南洲翁遺訓』とか漢籍を繙いて、自らの精神を豊かにするようにされたらと願っています。

 昨夜の空手道教室は『南洲翁遺訓』発表女王・正田佳那子嬢と超優秀中学生の二人でした。それでも元気に『南洲翁遺訓』を発表をしたり、空手の舞を演じるなど元気一杯頑張りました。

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『善の研究』第364回

  第十章 人 格 的 善

 前には先ず善とは如何なる者でなければならぬかを論じ、善の一般の概念を与えたのであるが、これより我々人間の善とは如何なる者であるかを考究し、これが特徴を明にしようと思う。我々の意識は決して単純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明なる事実である。して見ると、我々の要求なる者も決して単純ではない、種々なる要求のあるのが当然である。然らばこれらの種々なる要求の中で、いずれの要求を充すのが最上の善であるか。我々の自己全体の善とは如何なる者であるかの問題が起ってくる。

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