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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

租税を薄くして民を裕にするは---。

2011-04-22 14:27:11 | 南洲翁遺訓

タイトル---租税を薄くして民を裕にすは---。第822号 2304.22(金)

 租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也。故に国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損して下を虐げぬもの也。(『南洲翁遺訓』第十三章)

 税金を軽くして国民を豊かにするのは国力を養成する基である。それによって、はじめて国力が養われることになるのである。その為には、国家の仕事が多くなり財政が不足して苦しむことがあっても、定まった税金の制度を守り簡単に改めることはすべきではない。上を損じて下を虐げぬものなりと言うことは、政府が損をしても民間を苦しめないということである。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

 損上益下

 易経の言葉に「上を損じて、下を益すれば、民悦びて限りなし」とある。このことを南洲翁は国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確立し、上を損じて下を虐げぬもの也と教えられておる。上とは支配する治者のことであり、下とは支配されておる一般住民のことである。(前掲書)

 俗吏を用いてはならない

 俗吏とは、無理やりに税金を集めることには能力があり上手であるが、他の仕事では普通より程度が落ちる役人のことである。(前掲書)

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 『南洲翁遺訓』を繙いて30年が経過しました。荘内南洲会・小野寺理事長の『南洲翁遺訓』といい、頭山立雲先生の『南洲翁遺訓』に対する解説といい、今の政治家の方々に読んで聞かせたいくらいです。小野寺先生は、「政治家の方々に読んで欲しい」と言い続けています。

 南洲翁の精神といい、潔さといいこれからも『南洲翁遺訓』は読み続けられるであろうし、読まれなければならないと思います。

 西郷隆盛を慕う荘内南洲会の方々は、かくあるべしというお手本と『南洲翁遺訓』に言う「人民の標準」としての生き方を示されているのです。

 『南洲翁遺訓』を改竄しようとするような人間は、本当の『南洲翁遺訓』を理解していないのです。

 

 


無限心中不平の事。『三体詩』。

2011-04-20 10:09:10 | ブログ

タイトル----無限心中不平の事。『三体詩』。第820号 23.04.20(水)

 『三体詩』は『三体唐詩』の略称であります。

 無限心中不平の事。一宵(いっしょう)の清話にて又た空と成る。

 気心の知れあった友人と一晩清話を楽しんでいると、いままで抱いていたたくさんの不平もみな消えてしまい、また活力が湧いてくる。

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 私の父は裸で生れてきたのだから、裸で世の中に出ていけ、といったことがあります。贅沢をせず、最低限の生活でも生きて行けるのだ、欲を出すな、という戒めであったのだ、と解釈しています。

 荘内南洲会のある御仁が、日本の国がつぶれても荘内はつぶれない、生きていけるのだ、と私に言ったことがあります。文明開化に踊らされて、贅沢はしませんよということだったのでしょう。最終的には、それぞれ個人の価値観の問題であろうと思います。

 32歳の時、大根占電話局に勤務していた時のことです。トイレットペーパーがお店から無くなると大騒ぎになったことがあります。電話局内でも早く買いに行かないと無くなるということで大騒ぎになりました。買いに行かなかったのは私だけでした。昔はペーパーは無かったわけですから。


心に物欲なければ、『菜根譚』

2011-04-19 11:58:25 | ブログ

タイトル---心に物欲なければ、『菜根譚』。第819号 2304.19(火)

 心に物欲なければ、即ち是れ秋空霽海(せいかい)なり。『菜根譚』

 物欲さえなければ、人はいつでもさわやかな秋の空、晴れた海のように清らかな気分になりうる。人は欲心のために汚れてしまうのだと言うが、そのような気が致します。

 それも程度問題ではありますが、不相応という言葉があるように、欲張らず、共に生きて行く思想があればいいのではないかと思います。相手のこともおもいやって。


官とな做れば人の志を奪う。

2011-04-18 16:33:42 | ブログ

タイトル---官と做れば人の志を奪う。第818号 23.04.18(月)

 官と做れば人の志を奪う。『近思録』

 「人は役人になると、とかく本当の人間の志をなくしてしまう。あるいは名誉のために、あるいは欲望、保身のために、あるいは世間の評判のために好ましくないことをしがちだからである」と近思録は言うのですが、これは正論だと思います。

 その昔、竹下邸で「ニ水会」という懇親会がありました。竹下先生が、元々谷山市の助役をしていた関係で、その会には谷山支所の方々が多く加入していました。ところが、支所の方々の態度の大きいこと。それはそれは近思録が言うとおりでした。

 普通、役所に行くのは書類が欲しいからとか用があって行くのです。ところが態度の大きい役人様は、俺の所にくるのだ、という思い上がりがあるのです。

 そして薩摩詩吟会でもそうでした。上にいてお世話をする御仁の態度の大きい事、天下は俺が動かしているのだ、という思い上がった態度でした。その人も役人崩れでした。正義感のつよい私は一言いいたかったのですが、喧嘩をするより詩吟会を退会し、勉強した方がいいと思い辞めたのです。理由は、家内が手が痛いものですから、ということにしました。お陰で年間3万円の無駄遣いが節約されました。それで本を買ってきました。

 付き合うのは子どもが一番いいと私は思っています。穢れがない世界ですから。どんなに地位がついても威張らないそういう人になりたいものです。西郷隆盛みたいな人に。

 『南洲翁遺訓』を学ぶに如かず、ということです。 


成人とはいかなるものか。『論語』

2011-04-17 11:43:52 | ブログ

タイトル----成人とはいかなるものか。『論語』 第816号 23.0417(日)

 子路成人を問う。子曰く、「臧武仲(ぞうぶちゅう)の知、公綽の不欲、卞(べん)荘子の勇、冉求の藝の若(ごと)くにして、之を文(かざ)るに礼学を以てせば、亦以て成人と為すべし」。子曰く、「今の成人は何ぞ必ずしも然らん。利を見ては義を思い、危を見ては命を授け、久要平生の言を忘れずば、亦以て成人と為すべし」。(憲問344)

 子路が、成人とはどういう人を言うのですか、と聞いた。孔子は「臧武仲の才智と、孟公綽の無欲と、卞荘子の勇と冉求の多芸とを兼ね、礼を以てし、これを節し楽を以てしたならば、心が中正にして偏移せず、才徳兼全であって成人と言えよう」と語られた。

 さらに言葉を続けて言うには、「今の世ではそこまでの成人は望めぬかも知れぬ。利得問題に当たってはそれを取るが義か取らざるが義かを思い、君国の危急に際しては一命を投げ出し、古い約束や平生の言葉を忘れずに実行する、そういう人物ならばまずまず成人と言っていいだろう」。

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 成人の条件を述べたものであるが、今日ではそういう条件に適う人物は先ず見当たらないでしょう。敢えて言えば西郷南洲翁の如き人物であろうか。

 南洲翁が言う、節義・仁愛・清廉・至誠・清貧という言葉があてはまる人ということでしょう。安岡正篤先生がいう欲の皮の突っ張った経済人とか政治家には凡そ、見ることはできないであろう、と言うがそうなのかな、と考え込んでしまいます。

 これは人間学を学ばなければ到底人物は創れないということでしょう。人間学とは『南洲翁遺訓』等を言うのです。