タイトル----新渡戸稲造著『武士道』の紹介。 第363号 22.01.30(土)
第十章 武士の教育および訓練
武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。美的のたしなみが武士の教育上重要なる役割を占めたことは、前に述べた。それは教養ある人に不可欠ではあったが、武士の訓練上本質的というよりもむしろ付属物であった。知的優秀はもちろん貴ばれた。
しかしながら知性を表現するために用いられたる「知」という語は、主として叡智を意味したのであって、知識には極めて付随的地位が与えられたに過ぎない。武士道の骨組みを支えたる鼎足は知仁勇であると称せられた。武士は本質的に行動の人であった。学問は彼の活動の範囲外にあった。
彼は武士の職分に関係する限りにおいて、これを利用した。宗教と神学は僧侶に任され、武士は勇気を養うに役立つ限りにおいてこれに携わったに過ぎない。イギリスの一詩人の歌えると同じく、武士は「人を救うは信仰箇条でなく、信仰箇条を正当化するは人である」ことを信じた。
哲学と文学とは彼の知育の主要部分を形成した。しかしながらこれらの学修においてさえ、彼の求めたるものは客観的真理ではなかった----文学は主として消閑の娯楽としてこれを修め、哲学は軍事的もしくは政治的問題の解明のためか、しからざれば品性を作る上の実際的助けとして学ばれたのである。P86
新渡戸稲造は札幌の農学校時代、能力よりも品性を高めよ、といい続けました。この章では「武士の教育において守るべき第一の点は品性」とあるが、時代が代わっている今日、人の上に立つ人、いわゆる政治家、官僚、スポ-ツ選手等々に該当するとして書いてみることにします。
特にここでは大相撲を取り上げてみることにします。平成22年初場所で二場所ぶり、朝青龍が優勝した。あろうことか、1月16日早朝、朝青龍が泥酔し、東京・西麻布の路地で知人を殴り負傷させたのだという。その件で師匠の高砂親方は協会の理事長のところに行き、被害者は関係者のマネジャ-であったと証言したという。
ところが、これらのことは真っ赤なウソで、朝青龍が事件を矮小化しようとしたとのことである。このことについて高砂親方も知らんぷりである。前回の処置にしても、その辺の暴走族と似たような処置であり、こういう暴挙が許されていいことではあるまい。
たしかに朝青龍は相撲は上手い。足腰は強く技術も最高ではある。だが、彼の土俵での振舞いを見て多くの国民は、顔をしかめているだろう。横綱である以上強いのは当然として、あの所作はどう贔屓目に見ても、国技としての横綱の振る舞いではないと思うのは私ひとりではないでしょう。
前回も問題を起こし、二度とそういうことはしない、との念書を入れたやに報道されている。ここで彼に言いたいのである。このままぐずぐずしていると大変な事態に立ち至るであろうから、即刻自分から引退をすべきが筋であると。横綱の品格、品格と言うが彼の場合、品格と言う言葉はあてはまらないであろう。
そして貴乃花問題も含め、あの親方衆は品格があると思っているのだろうか。国技であるということを自覚して貰いたいものである。国技である相撲界にはNHKからも毎年30億円の放映権料が支払われているというが、これは一種の税金から流れているのと同じであろう。
相撲協会が心・技・体を標榜するならば、国民から心底愛される協会にしてほしいものである。ただ協会を温存し食い扶持のためだ、そして商業化していると言われない品位・品格ある相撲協会になって欲しいものであります。解体的出直しに近い位の善処策を講じて欲しいと念じているのは、私ひとりではないと思います。
実は私が、ブログで『武士道』を綴っているのを見た女性からメ-ルを戴きました。この方は10年くらい前に私の道場で空手道に勤しんでいたのですが、相撲取りみたいな女の子にいじめられ、早々と道場をやめた厚地さんという方でした。
いじめる人といじめられる人と、どちらが強くなるでしょう。いじめた人はすぐ忘れても、被害を受けた人はいついつまでも忘れないのです。そういったことが起爆剤となり、自分を奮起させるのです。スチュワ-デス志望でぁつたが適えられず、現在成田空港で働いているのだと聞き、喜び一入になった次第です。
人間の一生で人が構築すべきは、「豊かな品性と至誠の情と謙虚さ」だと思います。これらを南洲翁遺訓が説いているのです。