味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『南洲翁遺訓』「し」その時その場に臨んで(事事物物時に望みて)

2010-01-15 12:03:23 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「し」 その時その場(事事物物時に臨みて)第353号 22.1.15(金)

 「己れに克つに、事事物物時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第二十二章の言葉です。意訳は、「自分に克つためには、一つ一つその時やその場に臨んで、自分に克とうとするのでは、なかなか克てないものである。前々から堅い信念をもって己に克つことを固く鍛えておくことが大事である。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 人間には大小強弱の差はあるが誰にも自分なりの欲望がある。それが身を修する時の大きな障害となり易いので、古来より修行の中で一番大事なことは己に負けない心を持つこととされて来た。

 山中の賊は破るに易く、心中の賊は破るに難しと言われて居る通り自己心中の邪心ほど手強い相手が無いのである。克己とは、己の良心、良識を弱めておる自己に内臓されて居る邪心を押さえることである。それが修行であり、修業であった。(前掲書「克己とは」)。

 能力も学識もない一介の空手道武道家である私が、このような高邁な論に触れ、かねがね空手道場で門下生に説いているわけですが、南洲翁遺訓との出会いがあったからなのです。

 そして荘内南洲会・長谷川信夫二代理事長、小野寺時雄現三代理事長との出会いがあり、ご懇篤なる指導を賜ったからであります。そして学べ学べと私の弟からも激励されました。

 でも、最終的には本人が決断しなければならないことなのです。『南洲翁遺訓』、『菜根譚』、『言志録』、『論語』等々肌身離さず大きな鞄に入れ持ち歩いたものです。NHKの放送も数多活用しました。ギャンブルをする喜びよりも、このように学ぶ喜びの方が遥かに意義があると思うのだが、如何でしょう。

 とにかく連日ブログを書き、漢籍を読み、つづり方をすればエネルギ-が湧いて来るのです。一種の病気だと思っています。「病」は学問・修養のことであり、「気」は情熱のことです。

 私は、味園道場で学ぶ門下生に、この「病気」を感染させたいと思っています。能力向上のための教育機関は数多ありますが、荘内南洲会が説く「人間学」としての学問でないと意味がないのです。

 事事物物、その時その場でなく、日常的に己に挑戦する気概を持ちたいもりです。諦めなければ目的遂行は可能だと思うからです。


『南洲翁遺訓』「せ」正道ほど強いものはありません。

2010-01-15 11:20:31 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「せ」 正道ほどつよいものはありません。 第352号 22.1.15(金)

 「事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用う可からず。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第七章の冒頭に出て参ります。意訳は、「事の大小にかかわらず、正しい道を真心をもって貫き通す。一事の策略を用いてはいけない。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 正道とは何なのか。何が正しいのか、その判断ほどむずかしいものはない。これを間違えば成功は初めから無いことになる。その判断が出来なければ踏み行うという実行は出来ないことになる。その大事な判断は誰がやるのか、何を基準にきめるかという事になる。

 結局自分が決めなければならない。その判断力を身につけること以外にはない。その第一歩は学ぶことである。しかし完成ということはあり得ない。その為に生涯学ぶことが必要であると申し上げたいのである。(前掲書「正道を踏む」)。

 では生涯学ぶとは何を学ぶのか、ということである。私は南洲翁遺訓との出会いのお陰で、多くの古典と出会い、学んで来た。それらを自分で朗読録音し、何十回となく聞いて来た。門下生にもそれらを贈呈しても来た。

 平成22年1月10日の新年会で、各師範の学問道に立ち向かう力強い決意表明がなされました。曰く、『菜根譚』を書く、『論語』『孟子』を暗記する、『南洲翁遺訓』を書く、『言志録』を書くという具合である。

 全国に空手道場は数多あるとはいえ、そういう学問への直向な取り組みする道場があるだろうか。それは何のためなのか、ということである。

 冒頭に紹介した「正道を踏み至誠を推す」という一念の思いからなのです。事を進めるにあたり、私利に立つか、立たぬか、世の人々の手本となれるか否か、自分本位であるかどうか、ということに対する大儀名分の貫徹という崇高な思いからなのである。

 私ども円心会空手道場は、荘内南洲会の方々との20年近くの交流を重ねています。学識・能力面では迚も私共が太刀打ち出来る人々ではないのです。

 かねがね責任者の私が言っていることは「真面目さの勝負」ということです。多くの古典が訓戒する至誠・清廉・研鑽・徳義・忠恕等々の訓えを構築し、自分に、世の人々のために、如何に役立てることが出来るかということなのです。

 それを味園道場で修行する師範たちは座右に置き、自分との闘いを演じて行くのであります。まさしく荘内と薩摩の地で、南洲精神を構築し、如何に広めるかに徹する団体・組織なのです。