タイトル----『南洲翁遺訓』「し」終始(いつも)自分に勝って身を脩するなり。第340号 22.1.3(日)
「学に志す者、規模(きぼ)を宏大(こうだい)にせずばある可からず。去りとて唯ここにのみ偏倚(へんい)すれば、或いは身を脩するに疎(そ)に成り行くゆえ、終始己に克ちて身を脩する也。」
この言葉は、南洲翁遺訓第二十三章の最初に出て参ります。意訳は、「学問を志す者は、その理想を宏大にしなければならない。しかし唯このことだけに固まってしまうと、身を修めることがおろそかになるものである。常に自分の我に克つように修養することが大事である。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。
日々、学問に精出す人とそうでない人とでは、相当な開きが出てくるのは当然でしょう。四十代の時のことである。毎日昼時間と就業後、会社でよく本を読んだものです。ところがある上司が、「味園さん、そんなに本を読めば、周囲の社員が馬鹿に見えるでしょうね」と言いました。
夜間高校しか出ていない私はそのように思ったことは一回もありません。とにかく学びたい、ただ一心でした。会社から本屋さんへ月刊誌毎月十冊、単行本十冊程注文したものです。
大宅壮一著『炎は流れる』、会田雄次著『日本人の意識構造』、R.ベネディクト著『菊と刀』等々購入しました。読めば読むほど知らないことばかりでした。とにかく本を通じて教えて貰ったのです。そして書けるようになりたい、と思ったのです。
その後南洲翁遺訓と出会いました。学を志す者に大事な事として、小野寺理事長は、一、学問に対する志をしっかり持ち、目標は遠大であること。二、方向が片寄り身を修めることが疎雑になりがちである。三、己に克って身を修めること。四、器量を備え人を容れること、と要諦を説いています。
ただ漁(あさ)るだけの独学であるが、人格を修めている荘内南洲会の先生方に「非礼があってはならない、南洲精神に違背することがあってはならない」という自戒のもとに、青少年共ども古典との戦いを実践しているのです。
思うに、喫緊の課題は学歴偏重を解消し、人物を修める学問でなければならないと思料します。その為には漢籍に好きになって貰うことだと思うのです。
学問を深め、未熟な自分に打ち克って、世の人々のお役に立つように、人生をどのようにより良く生きるかということだと思います。