最近のわたし・・いい加減な者であるけれど
私たちは、それぞれに神様が与えてくださる人生の歩みをなしている。ある人にとっては、あまりにも過酷だと感じられ、ある方には、今のところ順風満帆である。しかし、生まれてから死ぬまでの人生をならしてみると、誰も彼もおしなべてとんとんだと考える人もいる。
否、そうではない、そこにはやはり歴然と差があるとしか思えない人もいるだろう。人生に起こる事柄の内容を考えてみると、明らかに自分の責任だと諦めのつくものもあれば、どうして、と不条理な世の中や神様の与えられた人生を思って恨んでしまう事もある。私たちは自分たちに与えられた課題を思いつつ、歩んでいくしかない。
そして、その課題を的確につかんでいる人もいれば、それがわからず、ただ、毎日もがいている人もいる。キリスト教信仰に生きる私たちの基本姿勢は、神様に赦された者としての歩みである。それは、神様の愛や、与えられた人生の課題や期待に応えようとするものだ。神様はこのような自分には何の期待もしていないと思うのは間違いだ。愛されているので課題が与えられている。
私は、恥ずかしいけれど、傲慢にも自分はまじめで誠実な人間であると思っていた時期がある。しかし、聖書を知れ知るほど、自分の罪の深さに気づかされることが多くなり、いつの頃からか、神様は、この私にいつまで忍耐してくださるのだろうかと思うようになった。そして、神様の愛と赦しをさらに深く思うようになった。
平良 師