平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2012年4月22日 信仰に生きる者のさわやかさ

2012年04月25日 19時11分13秒 | Weblog
信仰に生きる者のさわやかさ


 苦しいときにこそ、キリスト者の本領は発揮される。苦しみに耐える力を神様からいただくからだ。ご利益を求めて、信仰生活を送っている人々は、自分たちの願望が満たされないと、あちらの神々、こちらの神々と、よりご利益のある神々のうわさを求めて訪ね歩くことになる。
 最近では、宝くじの神々まで誕生して、人間の欲望は神をも創造するのである。だから、日本では、神様に従うなどといった信仰姿勢は、理解しにくいものであろう。神々とは、人間に従うものである、これが、ご利益信仰の行き着くところである。しかし、キリスト教の神様は、私たちを創造し、命を与え、私たちに生きる目的を示し、私たちを導かれる神様である。
 いのちをはじめ、すべてのものを与えるのも、奪われるのも神様なのである。だから、苦難をも私たちは受け入れる。さて、今朝の春の陽気はとてもさわやかだ。庭のチューリップやプランターの花々も満開。さわやかというのは、湿度があまりなく、適度な温度で、どちらかというとひんやりするくらいである。毎日が、このようにさわやかだとどんなに快適だろうか。逆に、低気圧が近づいてくると、花粉症の私は症状がきつくなる。
 私たちキリスト者たちの生き方もさわやかでありたいと思う。ちなみに、「さわやか」は岩波の国語辞典では「気持ちがよくさっぱりしている」とでてくる。わかっているが、私たちにはなかなかできない。主にあって、淡々と生きていきたい。


平良師