晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

飯盛山(21) 四條畷-4 4/8

2015-04-08 | 飯盛山

2015.4.8(水)曇り

 第二京阪道から旧国道170号線を南に向かうところ寝屋川市の小路がある。大唐内地名考の記事でこの小路は河内の転訛ではないかと論じたが、現地交差点を通ってみると、「ショウジ」とかながうってあった。少しがっかりしたのだが、河内(コージ)が小路(コージ)と表記されやがてショウジと読まれるようになる可能性はある。「地名の語源」に小路は京都ではコージ、大阪ではショージと読むと書かれている。地形的には讃良川の流域に出来た平地という感じがする。西南には砂という地名もあり、河口の湿地帯という感のするところである。
 岩田女史の論文の中に、飯盛山はイヒモリヤマでヒモリ(日守、灯守)の意を含んでいないかという仮説を立てたという文言があった。例えば測量をする場合、例え三角錐の山頂でも一点を決めるのは困難である。ところが夜中に灯りをともせばかなり遠くからでもその一点を決めることがでるのではないだろうか。またその山が山あての山であったり航海のランドマークとしての山であった場合、景色の見えない夜には灯りをともす必要がある。つまり灯台としての役目が必要となるわけだ。そういう意味で飯盛=灯守という考え方は妥当性があるように思える。
 もうひとつの可能性は通信手段としての狼煙の利用である。狼煙の歴史が如何なるものか知らないのだが、少なくとも中世には実際に通信手段として使われていた。今年の2月に木津川市の歴史愛好家が、鹿背山城跡地(136m)で狼煙実験をされたと読売新聞が報じていた。結果は木や住宅に阻まれて奈良からは確認出来なかったが、最高9Km先から確認出来たそうである。

狼煙実験の記事
ということは、飯盛山のようにどこからでも目視できる山上であったなら、もっと遠くから確認出来ることは間違いない。老富町の生守山に付随する廃村生守村では一体何をしていたのかと考えた場合、測量をしていたとしてもそれは常時なされるものでは無く、村を造り常駐する必要性は無いわけだ。ところが通信手段としての狼煙の見張りをするとなれば、常に山上にいる必要がある。このように想像は広がっていく。
 秋の四條畷訪問の際は再度飯盛山にアタックしたい。
【今日のじょん】じょんのみならず今年の雨の多さにはうんざりする。年中梅雨のような感じだ。喜んでいるのは雑草たちである。蒔いた芝も芽を出してきたが、それ以上に雑草が頑張っているので意味が無い。


 

 

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飯盛山(20) 四條畷-3 4/7

2015-04-07 | 飯盛山

2015.4.7(火)曇り 飯盛山(19)は2013.10.9

 飯盛山(314m)は四條畷市のどこからでも仰ぎ見ることが出来る。四條畷市どころか寝屋川市、門真市、大阪市の各地から望まれる。このことはこの山の存在が大変重要なこととなる可能性が大であるということだ。
 さて今日は年2回の四條畷詣での日なんだが、あまり時間が無くて歴史民俗資料館を訪ねるぐらいしかない。歴史民俗資料館では3月一杯飯盛山城のパネル展を開催していた。見ることが出来なくて残念だったが、パンフレットが残っていたのでいただいてきた。戦国時代の山城とてあまり興味を持っていなかったのだが、実はとても巨大な城郭であったことに驚く。そして城主三好長慶(1522~1564)が天下を治めるほどの人物であったことも初めて知った。そして2013年秋に登った際、ひょっとしたら岩田女史の言う「飯の山」の山上人工物ではないかと書いた岩塊の正体が分かった。それは御体塚と呼ばれ、長慶が死亡後その事実を隠すため3年間この地に仮埋葬したと伝えられていることである。さりとてこの石組みがそのためのものであるか、それ以前からあったものかは判断のしようが無い。

四條畷歴史民俗資料館と山陵上の御体塚
 それよりも確実であっただろうと考えられることは、瀬戸内から河内に上陸し大和に向かう船の目標、つまり灯台であり、山あての山であったことである。かつて大阪湾は生駒山系の麓まで海であって、上町台地が半島として突きだしていたことはよく知られている。多くの人や物、文化が瀬戸内海からこの湾(河内湾)に入り上陸したのであるが、その際航路の目印となったのが飯盛山であっただろう。それは河内平野から飯盛山を眺めても解ることだが、歴民資料館にある古代の遺跡地図を見ると一層理解できる。

古代の大阪湾(河内湾)飯盛山は湾が一番奥まったところ。

 歴民資料館から西へ450mほどのところに雁屋遺跡がある。遊々館という施設がある所なんだが、ここで弥生人骨やおそらく日本最大と思われる木棺や遺体を運ぶ木製品などが多数発掘されている。木製品が残っているのはその地が湿地帯であることが必要で、その付近が海辺の湿地帯であることを現している。

弥生中期の木棺と雁屋遺跡の石碑(遊々館)
 岩田女史の「飯の山」の特徴のひとつに、港の入り江近くで海上から目立つ場所で船のランドマークになっていたと思われるという項がある。小浜の飯盛山も将にそういう場所で、山あての山(注)となっている。つづく

小浜の飯盛山
(注)山あてとは海から沿岸の山を見て、自らの位置を知ったり、航路や漁場を探ったりする古代からの方法。
【今日のじょん】
 

枝を切りすぎて枯れてしまったユーカリと植え替えに失敗したコニファ、じょんもつらいなあ??? 
 

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雨読 発酵はおいしい-2 4/6

2015-04-06 | 雨読

2015.4.6(月)雨

 やはり農大への進学は造り酒屋を次世代のリーダーを育てるための父親の進言だった。この東京農大の醸造学科が実に少数精鋭で、素晴らしい陣容で、実践的な教育をしていたと小泉さんは語っておられる。私学のマンモス化が問題になっている時期でもあったので、このことは小泉さんにとっても大変ラッキーなことであったようだ。この日の記事のタイトルを「バラ色の農大醸造学科」と書いておられるのもそのことを象徴している。
 時代は少し下がるが、わたしも東京農大を受験した。海外で農業がしたくて、農大の拓殖学科というところを受けたのである。農学部は各地にあるが、こういった類いの学科は見つからなかった。現在では国際農業開発学科というのがそれらしい。私学の理系としてはおそらく最も安い学費で、年間6万円は今から考えると信じられないような金額である。合格したがいかなかったのは、明治大農学部の植村さんが日本初のエベレスト登頂に成功したことが影響した。学費は8万円だったがそちらの方が魅力があった。まあ大学を選ぶ動機としては不純なものであった。私ごとを書いて申し訳ないのだが、小泉さんの中学から大学までの、冒険家になりたい、その原点が「秘境ブータン」であること、山本周五郎や江戸川乱歩を読みあさったことなどがわたしも同じだったので驚いている。もっとも井上ひさしはわたしは読まなかった。
 小泉さんの最も尊敬し共感できるところは、日本の農業の現状を憂い、食糧自給率を向上させ、国産農産物の消費拡大を図る活動をされていることである。そういう活動の元になっているのが、東農大で学ばれたことなのではないだろうか。つづく


【今日のじょん】いやー桜が満開というのに連日の雨である。どの写真も空が暗い、じょんはなんとも思ってないのだろうか?

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雨読 発酵はおいしい-1  4/5

2015-04-05 | 雨読

2015.4.5(日)雨

 今回は本ではなく新聞連載記事である。讀賣新聞に連載されている「時代の証言者」という記事で、日経新聞でいうところの「わたしの履歴書」のような記事である。
前回少し紹介した東京農大教授小泉武夫氏の「発酵はおいしい」という記事で3月18日から始まり現在13回でまだ継続中である。

 小泉さんは多くのエッセイや食品に関する記事を書いておられ、テレビなどにも出ておられるのでご存じの方も多いと思うが、蛇や蛙などゲテモノ食いの印象があるかと思うが実は美食家なのである。美食家というとイメージが合わないので、本人が言われるように食いしん坊と言うのが一番あっているかもしれない。
 小泉さんの文章は実に面白い、面白いからどんどん読んでいけるし、深みにはまってしまう。その理由は母親ミキさんの「綴り方教室」の影響だと書いてある。ミキさんはいわゆる文学少女だったそうだ。小泉さんの文章を読んでいると、西丸震哉さんの文章を思い出す。両氏の間に脈絡があったかどうかは解らないのだけど、西丸さんも農や食品に関する仕事をなされていたのだから、どこか繋がっているのではないだろうか。西丸さんの「山だ原始人だ幽霊だ」は実に面白い。
 西丸さんは東京水産大学で小泉さんは東京農業大学の出身である。東京農大は世田谷にある農業専門の大学だが、この大学に行かれるのにはお父さんの影響が大であったようだ。そのことは次号以降に書かれているようなのだが、東京農大に行かれたからこそ今日の小泉先生があるのではないかという気がするのである。つづく

 【今日のじょん】昨日のことだけど、ゲンタが遊びに来たのでご紹介。ゲンタ4才、じょん7才その差を感じる遊びである。

 

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じょんのび桜情報’15  4/4

2015-04-04 | 日記・エッセイ・コラム

2015.4.4(土)曇り

 昨日和知を通ったら満開であった。ところが山家まで帰ってくると八分九分となり、口上林、中上林と登ってくるごとに開花が遅くなっているようだ。上林はまとまった桜が無く名所と言えるようなところも無い。城山のあたりがまあまあというところかと思う。ところが上林川に沿った細長い地域だけに、高低差もかなりあり、口、中、奥と桜の開花時期にかなりの差がある。ということは長い間桜が楽しめるということだ。そういう見方をしながら、口から順に追っていくのも乙なものかと思う。
 さて今朝になると雨模様で天気はよろしくないものの、桜はすっかり満開に近くなって、一夜の差に驚かされる。じょんの散歩がてら近所の桜を紹介しよう。

これはじょんの2才の誕生日に記念として買ったじょんじょん桜、偶然昨年の同日に撮った写真があったので紹介してみよう。
 2014.4月4日の写真
水嶋さんとこの桜、迫力は一番
群生は遠くの堤防だが、遠すぎて見えないか。
森井さんとこの桜、これもなかなか。

このアングルでは桜はないが、モクレン、レンギョウなど満開、花桃がくれば最高。

 

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あやべ温泉リニューアル 4/3

2015-04-03 | 日記・エッセイ・コラム

2015.4.3(金)雨

 あやべ温泉が4月1日リニューアルオープンというので出かける。目玉は量り売りビュッフェで1g2円というものだが、これは少し落ち着いてからいただくことにしよう。
今日のお目当てはトッド・ウルフ・バンドのお花見ライブ、お風呂帰りに楽しもうと出かける。降りつづいていた雨も5時頃にはあかり、ゆっくりお風呂に入ったらちょうどかな。
 温泉のカウンターなどもリニューアルの一環で、レストランや売店のレジ、温泉の受付、もちろん宿泊の関係もひとつのカウンターでなされることとなった。あやべ温泉側としては各業務を統一して合理化を推進できることとなるが、そのことが利用者の不利益、サービスダウンになれば顧客の減少にも繋がり、一種の諸刃の剣となりかねない問題だと思う。
 そんなわけで、従前の状態を知っている利用者として今回のリニューアル後の使用感を正直にお伝えして、参考にしていただきたい。
 貴重品ボックスの位置について
 従来の貴重品ボックスは番台の近くにあり、少なくとも常時人の目に付く位置にあった。今回のリニューアルに関し、貴重品ボックスをカウンターのある位置に移動して欲しい旨係の人に進言していたのだが、残念ながら伝わっていなかったようだ。貴重品ボックスは誰も居ない位置に置かれている。これは利用者としては不安この上ない。

 もうひとつの貴重品ボックスについて
 あやべ温泉側は貴重品ボックスとは考えていないようだ。ロッカーと考えているのだろう。これが玄関を入ったところの二重ドアの間に設置されている。これは従前から置かれている位置で、利用状況はまるで無い。ところがお風呂側のボックスが人目に付かないところにある限りこちらを利用したくなる。ところがその信頼感たるや、内側ドアの内にあるか外にあるかで全然違うのだ。これがカウンターの向かい、職員の目の届くところにあれば絶好なんだが、どうも利用者の目線には立っていないようだ。

 更衣ロッカーキーの受け渡しについて
 従来は職員さんがキーの位置を考えながら渡してくれた。お風呂の出入りについて更衣ロッカーが隣り合わせにならないように気を配っておられたようだ。ところが今日は空いているにもかかわらず、隣り合わせで更衣をしている。更衣室に向かうとき、キーの返却用カゴにどっさりキーが入っているのを見た。従来なればカウンターとカゴがすぐ近くにあったので、すぐに回収でき、キーの受け渡しにも工夫が出来たわけである。今回不慣れと言うこともあるだろうが、気が無ければ何年たっても改善はされない。

 職員さんに用があってもすぐに呼べない
 従来はお風呂を出たところに職員さんが居たので、何でも依頼することが出来た。これからはフロントまで行く必要があるので無理がある。今日もゲーム機の料金のことで用事のある方がおられたが、幸い職員さんが油槽の方に来られていたので何事も無かったが、普通はフロントまで出向かなければならない。お風呂場の方からフロントへ簡単に呼び出せる装置を備えて欲しいものだ。
 さて今日のメインイベントお花見ライブだが、7時前に温泉から上がってきたらなんと横殴りの大雨が降っている。所を変えてライブは行われたようだが、とにかく車から降りることも出来ない雨だ。やむなく帰ってビール飲みながら阪神巨人戦を観戦した。


【今日のじょん】玄関と居間の間にはスクロールカーテンが有り、結構苦手だったんだけどどうも無いってことがようやくわかってきたようだ。おとーが帰ってきたらお出迎えこんな感じでお帰りワン。


 

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雨読 「京都学ことはじめ」 4/2

2015-04-02 | 雨読

2015.4.2(木)快晴

 森浩一氏の本が古書で販売されていた場合、必ず購入することにしている。考古学関連のみならず実に楽しい世界が広がる。その理由は過去に何度も書いて来たので略するが、なんといっても柔軟な発想をされることがすばらしい。そんな森先生が京都に関してかなり広範囲なテーマで対談をされ、その中で十二を選んで紹介されたのが本書である。
「京都学ことはじめー森浩一12のお勉強」森浩一編著 編集グループSURE2004年10月初版 古書

 例えば地震考古学、地質学、古代文学、醸造学など様々な分野の方々との対談であり、京都に関心の無い方でも楽しくお勉強の出来る本である。
 「はじめに」に書かれた森氏のひとことが本書の特徴をよく表している。
「すでに高齢者の仲間である僕にも、毎日のように「疑問」と「発見」が湧いてくる。「なぜだろう」と「なるほどそんな意味だったのか」の連続である。このようにして、素材としての知識は蓄積されるのだが、それをまとめて整理するとなると、今回のような対談が何よりも役に立った。淡々と読んで僕と一緒にお勉強してほしい。」
 いろいろ面白い話が登場する中で東京農業大学の小泉武夫氏との対談、「日本の食と生活文化」が最も興味深かった。特に灰についての話があり、醸造や食品に関して灰が有効な活躍をしていたことが書かれている。灰屋紹益(はいやじょうえき)なんてどこかで聞いた名前だと思っていたら、京の豪商で実は灰の売買で財をなしたそうである。北山にある灰屋(京北町)も灰の生産、集積地という説もあるようで、わたしはまさかと疑問視していたのだが、あり得る事かもしれない。そんなとき小泉氏の灰に関する本を買っていてまだ読んでないことを思いついた。次回はこの本を紹介しよう。

【今日のじょん】レオは幸せに暮らしているみたい。
里親捜しをしていたレオも普通の飼い主さんでは困難かと思っていたら、大阪アークというNPO団体が引き取ってくれることとなった。新しい環境でどうなることかと心配していたが、元気にしてるという情報と共に写真が送られてきた。こちらにいたときと打って変わって優しい顔になっている。犬相がこんなに変わるものかとびっくりすると共に、幸せに暮らしているようで安心した次第である。里親捜しに協力していただいた皆さん、ありがとうございます。レオになりかわってお礼申し上げます。

   

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雨読 「越前一乗谷」 4/1

2015-04-01 | 雨読

2015.4.1(水)雨

 「実像の戦国城下町 越前一乗谷」を読んでこのような壮大な遺跡が残っているのかと将に驚愕の思いであった。そして自転車旅行の際はその付近を 何日もうろうろしながら、ついに一乗谷遺跡に気付くことも無く去ってしまった偶然に何とも奇妙な感慨をおぼえるのである。すぐそこにある、行ってみたくて仕方のない土地が妙に遠いのは一体何なのだろう。
 一乗谷遺跡を訪れる前に、朝倉氏のこと、一乗谷で起こったことを知りたいと思い本書に出会った。越前や若狭の気質が身についている水上氏の文章なら、一般的な歴史家の書物より実感がわくだろうと考えた。
 「越前一乗谷」水上勉著 中央公論社 昭和50年12月四版 古書

 水上氏による小説というよりも、「朝倉始末記」などの古文書をもとに、想像を交えて書かれたものである。なぜ水上氏がこの本を書こうと思われたか、解るような気がする。あとがきの冒頭に「この作品は越前一乗谷の朝倉館跡に立った時の、作者の感懐から生まれている。云々」とあるとおりだ。一乗谷は山間の流れの上と下を城戸で防御し、その中に領主の館はもちろん武家屋敷、寺院、職人商人の住居などすべてが揃った城下町である。戦闘に備えていることは当然だが、その中には優雅な庭園や別邸などもあり、文化的にも高水準で文化人も居住したり訪れたりしていたのだろう。ある意味戦国の世に花開いたユートピアというような見方も出来るだろう。
 ところが世が世だから、実に凄惨な戦闘が繰り返されることとなり、一度も攻め入ることのなされなかった一乗谷も城主は逃げだし、一気に焼き尽くされることとなる。その後も数回攻め入られることとなり完全に焼き尽くされた後、この谷は放置されることとなる。実はそのことが遺跡としては幸いし、建物こそは残されていないが、礎石や建物跡などはすべて残されていて保存されている。
 その遺跡に立った水上氏の脳裏には栄華を誇った朝倉氏の優雅な暮らしやその後の壮絶な戦いの様子が浮かんだことだろう。しかし最も気になったのは3,000体が残っているという地蔵ではないだろうか。なぜこんなにも多くの地蔵がこの狭い谷に残っているのだろうか。文中では朝倉氏の趣味だとか、城外で戦闘を繰り返す武士の供養の気持ちだろうかなどと書かれているのだが、本当のことは解らない。
 本来ならば朝倉義景が主人公ということなんだけど、どうもそんな風では無い。主人公は一乗谷そのもののような気がするし、あとがきの最後に書かれている次の文が妙に印象的であった。
 「いえることは、前記したように、遺跡に残る無数の石地蔵に吹く風が、戦国でも吹いていたということであった。」

 

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