晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の紅葉 11/22

2014-11-22 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.22(土)快晴

 上林は桜もそうであるように一面の紅葉ということがない。一本一本は誠に美しく、見とれるような樹もあるのだけれど山全体として燃え立つような紅葉とはならない。しかし上林をこよなく愛する旅人(こういう方もおられるのだ)は山奥の上林ならさぞかし美しい紅葉が見られるだろうと期待を込めて観に来られる。そして府道界隈をぐるぐると廻って、失望してお帰りになる。そんなお客様が時々立ち寄られて、
「上林にいい紅葉のきれいなところはありませんか?」
「残念ながら、高雄や嵐山のような一面紅葉というのはありませんよ」
「・・・・」
「一本二本ならきれいなのがありますが、山中まっ赤になるというのはありません。赤よりも黄色が多いのですよ。」
「京都の周辺はきれいなところがありますが、人が多くて何を見に行ってるのか解りません」
「それで上林に来られたのですね。上林にそんなところがあったら、やっぱり人が多くなるわけですよ」
「なるほど、、、、」
 ではなぜ高雄や嵐山の紅葉が美しいのだろう。そりゃあ山に入って寒暖の差が激しいから、、、。では街中の東福寺や永観堂はどうなのよ。???
大山奥の上林の方がきれいなはずなのに、そうではない。ここで妙な思いが湧いてくる。紅葉の名所の樹々は自然のものなのだろうか?。
 山の高いところなどは別として寺院や神社の周辺、通りや谷川の周囲などどう考えても人の手によって植えられたものと思う。と考えるとこれら名所と上林を同列に比較することは無意味なこととなる。上林だってお寺や神社の境内には手植えの紅葉があるが、山にはそれは無い。山には将来の収入を夢見てせっせと植えた杉、桧と植え残ったところの雑木だけである。貧しい農山村では、紅い紅葉を愛でるなどと悠長なことを言ってられるはずも無く、将来の観光対策になどと云う考えも湧こうはずもない。一部植林されなかった雑木が黄色く色づいているぐらいである。そう考えるとその中にぽつりぽつりとある紅い紅葉は貴重である。
 なぜって実生で自力で紅葉している樹だから。

 先日渡辺淳先生にいただいた、木っ端に書かれた絵、「根ずいたところで咲いてます」ってのはまさにこのことだろう。根付いたところで紅葉している上林の紅葉、これもいいものだ。

念道の紅葉、これでいいのだ。

【今日のじょん】久々にゲンタ君来じょん、おやつもらってる写真ばっか。

 

コメント
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